AKB48 ジワるDAYS 評判記

「他人事でしかなかった」
歌詞、楽曲について、
AKB48の55枚目シングル。センターに立つのは指原莉乃。
指原莉乃の卒業センターという位置づけだが、卒業ソングとしては、平成のおわりを前にしたグループアイドルの現在を無視しており、きわめて古臭く、陳腐にみえる。「指原莉乃」の集大成として、彼女に贈られたメッセージとしてその詩情を眺めると、巧緻の魅力を消却している。一言で云うと芸が無い。むしろ、指原莉乃という”平成最後の大物アイドル”がシーンに与えた影響、その達成や快挙、つまり功罪を平準化してしまうような安易な表現に満ちた科白との直面は、作手からアイドルの「卒業」に対する関心が消失してしまったのでは、と疑念を抱かせるほどである。
圧迫に満ちたシーンを生き抜き、女王と成ったアイドルに贈られるべき科白がひとつも用意されていない事態をどう解釈するべきか逡巡する。「駅へと続く坂道を何度二人で歩いただろう」や「桜の花が散ったって他人事でしかなかった」という描写は写実的であり、多くのアイドルをターミナルキャラクターとして扱ってきた作詞家の俗悪さが指原莉乃のアイドルとしての横顔へリンクして行く点に尽きない興味があるものの、それを、唐突に置かれた独白とは見做さない、と穿つならば、やはり前後の詩があまりにも幼稚に映ってしまうことになり、作詞家・秋元康にとって、自身がプロデュースするアイドルとは、何処まで行っても、何時まで経っても子供なのだろうか、という問いに打つかる。ただ、こういった感慨はファンがアイドルに対して永続的につくる妄執とも類似しており、そのような観点に立つならば、あるいは、企みがある楽曲、と云えるかもしれない。ジャケット写真は良く出来ている。*1
ミュージックビデオ、ボーカルについて、
”AKB48の表題曲に選抜される”、これは現代アイドルにとってひとつの到達点であるはずだ。さらに、その猛者たちをかき分け、中央に屹立しスポットライトを浴びるとなれば、これはもう、”宿命”と表現するしかないのだが、カルマに鷲掴みにされる場所で、選ばれし女王が歌い出すとき、独り唄うとき、スピーカーから流れてくる声が一体誰の”声”なのか、わからない。その慣習化された茶番劇には、ただ、呆れるばかりである。加工された滑稽な歌声を聴いてもノスタルジーの訪問など起きない。季節の記憶にはとてもならない。卒業ソングの体裁をもつ「ジワるDAYS」にとって、なにがしかの記憶になれない、というのは致命的に映る。
映像作品については、構造や展開に作手のアイデアがまったく感じられず、アイドルへの演技要求や、集合したトップアイドルたちが抱える個々の物語をつなぎ合わせる試みも一切ない。クロニクルというテーマに対して、過去の作品=歌唱衣装を並べるといったアイデアはこれまでに倦むほど繰り返し使用された光景であり、この愚の退屈さ、浅薄さに、甘えにファンは何時まで耐えられるだろうか。
なによりも、この作品を鑑賞したアイドルのなかで、自分もこの世界の登場人物になりたい、と決意を新たにする少女が果たしてどれだけいるだろうか、疑問。
卒業ソングという位置づけであるのに、血の入れ替わりへの導線=バトンタッチに失敗している為、グループアイドルの通史に対する裏切りを露出している。各演者の存在感、各々を主人公とした強烈なスピンオフの把持によって辛うじて「歌」になっている、救われている、という印象。
総合評価 45点
何とか歌になっている作品
(評価内訳)
楽曲 11点 歌詞 7点
ボーカル 4点 ライブ・映像 10点
情動感染 13点
引用:見出し、*1 AKB48/秋元康 「ジワるDAYS」
歌唱メンバー:岡田奈々、岡部麟、荻野由佳、小栗有以、柏木由紀、坂口渚沙、指原莉乃、下尾みう、白間美瑠、菅原茉椰、須田亜香里、高橋朱里、瀧野由美子、田中美久、中井りか、松井珠理奈、松岡はな、向井地美音、矢作萌夏、山内瑞葵、横山由依、吉田朱里
作詞 : 秋元 康 作曲 : 吉田 司、塚田 耕平 編曲 : APAZZI