瀬戸口心月はなぜ人気があるのか、理由を考える

ブログ, 乃木坂46

瀬戸口心月(C)MANTANWEB

「静寂を、突き破る美」

私は音楽愛好家です。――といっても、これは私が音楽を何よりも重くみているということではありません。――私は言葉、すなわち精神を盛る器、進歩の道具、その輝かしい鋤である言葉を何よりも尊重し愛しているのですから。……音楽……これは口ごもるような、曖昧な、無責任な、気儘なものです。おそらくあなたは、音楽だって明晰なものでありうると反論なさりたいのでしょう。しかし、自然だって、小川だって明晰でありうるのだし、そうだからといって、それがどうしたというのでしょう。それは真の明晰ではないのです。それは夢のような、無意味で無責任な明晰、首尾一貫しない明晰であって、人をそういう境地に安住させてしまう誘惑力を具えているから危険でもあるのです。……たとえば音楽に気高い身振りをさせるとします。よろしい、それによって私たちの感情は燃え立たせられます。しかし肝腎なのは、理性を燃え立たせてくれるかどうかなのです。音楽は一見運動そのものと思われますが――それにも拘らず私は、音楽というものは静寂主義に結びつくのではないかと疑っているのです。(中略)人間を感激させる究極の手段としては、音楽は最上のものです。すなわち精神に音楽の力を受け容れる用意ができている場合は、上や前に引っ張る音楽の力は大変なものです。しかし文学というものがまず以って音楽に先立っていなければならないのです。世界を進歩させるには音楽だけでは不十分でもあり、危険でもあります。

トーマス・マン/魔の山(訳:高橋義孝)

音楽が静寂主義に結びつくとする考えは、今日をもってしてもなかなかに刺激的に感じる。
これはあるいは、私がアイドルソングに親しみすぎているから、と指摘できるかもしれませんが、しかし秋元康とアイドルという関係を持ち出すまでもなく、音楽史で言えばボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を見てわかるとおり、音楽と言葉は、どちらが先で、どちらが後なのかという話題・立場に囚われることはありません。それは同時的にそこに在ったり、たとえば詩人であり文芸批評家でもあるハインリヒ・ハイネは、音楽が尽きれば言葉が生まれ、言葉が尽きたときに音楽が生まれるのだというようなことも言っている。つまり音楽というのは、もはやそれ自体が文学でありえるというのが、公的な認知となる。もちろん、現在の音楽シーンが、『魔の山』が書かれた当時よりも洗練されていると言いたいわけではありません。むしろ当時の音楽シーンのほうが、今日のシーンよりも遥かに文学性の高い音楽で溢れていたはずです。にもかかわらず、いや、だからこそ、その音楽に文学性を認めず、文学は音楽に先立っていなければならないと平然と云うのだから、これは刺激があるわけです。

ここで言う静寂主義というのは要するに、音楽に耽溺し、はたから見ればただそこに立ち尽くして見える、そんな事態を指しています。激しく鳴り響く音楽こそ静寂つまり心の安住への没頭を意味し、文学に身を任せること、つまり読書をするその静止した姿に精神の激しい動きを見出している点はゼテムブリーニ流のアイロニーではありますが、さて、この皮肉からアイドルは逃げ切れるでしょうか。音楽が静寂主義に結びついてしまう、これはアイドル批判への強烈な矢になり得るのではないでしょうか。音楽を演じるアイドルは、ファンを笑顔にするために満面の笑みを浮かべ、それを眺めるファンは、アイドルの名をコールし、ペンライトを振り、音楽のリズムに同調することで日常のあらゆる問題を忘れていく。批判精神の一切を捨てたその足踏みは、いかなる前進も生まない。むしろそれこそが音楽に、アイドルの歌う歌に、踊りに求めるべき効用だと言って退けるのならば、ほかでもないその当事者たちこそ、音楽をもっとも低俗なもの、言わば精神の麻痺剤として定義しているということになる。音楽を演じる側と、それを享受する側の、この見事な一致から、アイドルソングは、静寂主義の極致と断じることができる。音楽の文学性なるものを信じる立場からすれば、音楽とは本来、聴き手の魂を掴み揺さぶり、見たこともない高い場所へ引きずり上げ、今までどおりの自分ではいられなくさせる、暴力的なまでの力を持っているはずです。

しかし私がここで企図するのは、音楽論などではなく、むしろこのような視点をアイドルに落とし込んだ際に、こうした言葉・文章にふれた際に、抑えようもなく落差を感じる、アイドルに不釣り合いな話題に感じてしまう、その反応そのものにある。そうした反応があらわれたのならば、それはあなた方のなかでアイドルが、アイドルの歌う音楽が、もはや生理的な刺激でしかないことの、決定的な証左になるでしょう。私が、いや、アイドルのことを自らの言葉で語ろうとする多くの人間が、虚しさを覚え、批評の不成立に直面するのは、シーンがこうした静寂に包まれていて、ペン一本ではとても太刀打ちできないその無力感に端を発すると、言えるかもしれません。

この静寂、この無力感からどのように抜け出せばいいのか。アイドルという現実に、私たちは関与できない。アイドルはあいも変わらず、無条件で笑顔をふりまき、ファンの皆さんを笑顔にしたい、と表明している。変えることができるのは、その無邪気な少女たちの横顔を眺める自分自身の眼だけだ。その眼力に潜むべきは、音楽に、アイドルに極めて個人的な、取り返しのつかない、口にするのも憚れる、薄気味の悪い、過剰な私情にちがいない、音楽が、またアイドルが文学たり得るには、なんらかの逸脱が必要だと、安易にも私は考えてしまったのです。
たとえばグループアイドルの魅力を推し量る際に「他人のそら似」という神秘的な材料が用いられるとして、彼女は誰誰に似ているな、と言うとき、それが過去に自分が推したアイドルであったり、過去に自分が実際に恋をした人物であったりするなかで、それが「過去の恋人の子供」だとしたらどうだろうか。あるアイドルを見て、過去の恋人のことを思い出し、その少女があるいは彼女の娘なのではないかと考えてしまうその薄気味悪さに勝る妄想など、果たしてあるでしょうか。アイドルを眺めながら、そこに消せない過去の自分を見ているのです。
勘違いしてはいけませんが、なにも「過去の恋人の子供」のようなアイドルを探そうというのではない。「過去」「恋人」に「子供」が加わることで逸脱がなされる、と言いたいわけでもありません。
肝要なのは、アイドルを眺めることで、こうした発想自体があたえられるのか、という点。あくまでもファンの側が目線を変えるしかないといっても、しかしその鑑賞という行為に堪えきれるアイドルでなければ、そもそもこれまでに記した文章自体が、生じ得ないのです。私の言葉の中には、アイドルはいない。私は「私」を語ることで自己の理性を燃え立たせようとしているのであって、アイドルのことはまったく見ていない。それでもなお、こうした独白を私に編ませたのはアイドルにほかならないのです。誤解をおそれずに言えば、それは俳優であろうが、アイドルであろうが、小説であろうが映画であろうが、なんでもかまわない。アイドルの価値、必然性を説こうというわけではない。大切なのは、なにかひとつのことを長時間、意識的に眺める、その可能性を考えるということ。まず対象がいて、それを眺めているうちに、思考を飛躍させてしまうことがある。小説を読んでいると、その風景が、人々の顔が頭の中に自然と浮かぶものですが、その中に、そのひとコマにアイドルが出現する、ではなく、それらを差し置いて、文字の出来事を、アイドルに結びつけ、新たな次元で考えてしまう。要するに私は、ここまで書き進めたすべての文章が、あるひとりのアイドルに触発されて発想されたものである、ということを言いたいのです。


(C)ビリヤニ ミュージックビデオ

「美とは、未知なるものを肯定すること」

本当は 僕もまだ 食べたことないんだ

秋元康/ビリヤニ

乃木坂46の6期生・瀬戸口心月のことを見て私がまず抱いた印象は、素朴さとエロティックの同居という、わかりやすいギャップだった。ビジュアルは、これでもかと溌剌としている。けれど、どこか鬱蒼とした部分もある。全体としてそのビジュアルの素晴らしさが少女に野心的であることを許しているように見えるが、さて、それらの要素が、彼女が用いる郷土の言葉、ある種の素朴さによって確立されず、不自然にも均衡している。この均衡が、つまり「素朴さ」と「エロティック」が「過去」と「恋人」の換喩として働いているのは間違いない。
この美貌は、けれど、あまりにも性急的であったとも感じる。ライブステージに初めてその姿を現したときも、遠藤さくらに連れられてカメラの前で初めて自己紹介をした折も、シングル表題作である『ビリヤニ』のセンターポジションに立ち、そのミュージックビデオでの登場のいずれも、太腿をむき出した、エロティックを投げるものであり、作り手の思惑、このアイドルはこのスタイルで売り出したいのだという思惑があられもなく、赤裸々に表示され、反映されていた。たしかにそれは目を引くものではあるのだけれど、燃え盛る暖炉に薪をくべるようなもので、デビューしたばかりのアイドルとしては、手軽で、早急な姿に感じる。しかしこの性急さにはまた、作り手の思惑を考えるなどというちっぽけな浅慮を越えた、計り知ることのできない力を感じもする。

瀬戸口心月本人を眺めれば、自己の魅力と定立されたもの、つまりエロティックを最大限に活かすために踊りの細部までこだわって作り、やや誇張気味のきらいはあるものの、すでに手法化しているように見える点は、クリエイティブ・レセプターと言うよりもコンテクスト・リーディングに秀でた少女だと確信させる。だれかに従順なのではない、ただ自分の目的と一致しているからそうしているだけなのだ、というような、苦笑いを抑えた、その逞しさは、たとえば映像演技においてもっとも顕著にあらわれていると言えるかもしれない。
少なくとも映像演技というのは、自分を魅力的に見せなくてはならない。この「自分」というのは演じる人間本人を指す。本に書かれた役を演じるわけだからそれは勘違いだと異を唱えられてしまうかもしれませんが、カメラに映し出されるのはまぎれもなく演者本人の姿なのだから、それはやはり「自分」なのです。役になりきるにしても、他人の書いた科白を口にするにしても、目の前に映し出されるのは生まれ持った自分の姿であるのだから、その姿を魅力的に見せることができない人間を、どうして演技の才に恵まれているなどと言えるでしょうか。アイドルシーンにおいても、こうした才能の欠如は容赦なく、間断なく露呈しています。普段は非常に魅力的に、美しく見えるのに、ミュージックビデオでは、演技という行為を通しては、さして魅力的に見えない。映像において美しくないという問題が起きるのは、それはただ単にそのアイドルの演技力に問題があるにすぎない。
乃木坂46が演劇集団たる所以は、多くのメンバーがこの問題をクリアしているからですが、しかし瀬戸口心月はこうした話題に縛られていないのです。たとえば『ビリヤニ』において瀬戸口と共にセンターに立った矢田萌華は、日常の美をさらに増幅させ、魔法のスパイスをかけられアイドルに変身するという、そのミュージックビデオのストーリー展開に逆らうことなく、ミステリアスなアイドルを映像に完成している。
その矢田の相対として瀬戸口を眺めると、矢田と並んでカメラを見上げ、こちらを凝視する彼女の眼差しは、なんとも形容しがたいおもむきがある。事前の期待どおりに美を提示するそのエロチシズムと、その自己の姿を眺めるファンという一連の出来事を俯瞰してしまう少女の冷徹なまでの慈悲がおどろくほど鮮やかに記録されている。
映像やら演技やら作り物の世界に最終的に左右されない、行為というものにびくりともしない、ただそこに「私」として存在する胆力をもったアイドルだと、云うべきでしょうか。転じてそれは、音楽が、アイドルが、生きることのエンジンにされているかのような、自己という意味で明晰になった、「個」を燃やし続ける、迫力を叩きつけている。演技への熱誠をいだき、若手らしからぬ技量を示せば示すほど、そこに「自分」が現れてしまうという事態への無自覚と、「アイドル」への圧倒的な自覚が対峙し、はからずも調和している。彼女はアイドルという嘘を、夢という希望、現実という理想に追いつかせるための約束にしているのです。

その曲がらない眼差しとエロティックの不思議な同居は、ファンを挑発し、フィランダラーな視線を誘発するほどのものであると感じるが、その点では、たとえば5期生の小川彩と類似していると言えるかもしれません。小川彩の場合、ファンから向けられる視線を自己の演じるアイドルへのひとつの解釈として柔軟に飲み込む、異様な爛熟さを示すが、瀬戸口はそれを、生まれながらの美貌が自己に課す使命感のごときものとして身につける。新人でありながら、自己の力をもってグループに人気をもたらさなければならないと決意する、重責を負っている。それは傲慢と表現するよりも、焦慮と呼ぶべきものだ。オーディション合格から本格的なデビューを果たすまで、日にちが空いてしまったこともまた、彼女を焦らせるのかもしれない。美貌というのは、それを持つものにしてみれば、常に今こそがもっとも輝かしいと思われてならないからだ。そしてこの焦慮こそが、性的な興奮へと引用されているのだと、私は思う。性というのは、往々にして、後先を考えることのできない、焦りのなかで発展する。
その美は、いや、美貌は、その持ち主だけでなく、それを眺める者をしてもまた、ひどく焦慮を抱かせる。まるで、地図を持たずに黄金郷を目指し船を漕ぎ出す航海士たちのように、ロマンに走らせる。ある少女のことを眺め、いつ果てるかもわからないその美貌に輝かしい成功を確信することは、未踏の肯定にほかならないのです。
今日の社会にあっては、少女の美を評価すること、言葉にして口にすること、羨望を表現することはもはや、自らを窮地に追い込むことでしか開けられない扉であるが、その扉をだれよりも強く開け放つのが、われわれアイドルファンなのだ。まだ見ぬものを、まだよく知らぬものを、肯定する、整合性よりも情熱を、保身よりも可能性を選ぶその無謀さは、成熟した大人が失って久しい青春の輝きそのものと言えるでしょう。「ビリヤニ」を初めて口にした瞬間、私たちはようやくその意味を知る、のではなく、ようやくアイドルと共犯関係になるのです。アイドル、ファンの双方が美に駆られることで奇跡的にも披露されてしまう彼女のむき出しにされたその太腿は、これまでの、乃木坂46のどの美しさとも異なっている。それは、ある種、不浄で危ういものとして、乃木坂らしさというアイドル的な共感への甘えを許さない、受け入れがたいものとしてまず自覚される。その受け入れがたいという自らの思いを反芻することで、どうやら私の理性は挑発され、アイドルの静寂もまたどうにか、破られるのです。


2026/05/11  楠木かなえ