ほんとうに、忘れられない人になった山下美月

乃木坂46, 座談会

(C)写真集 忘れられない人

「アイドルの可能性を考える 第三十五回」

メンバー
楠木:文芸批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

前回の場から、引き続き、アイドル(主に山下美月)を話題に挙げた場面を抜粋する。今回は、より「成熟」した読者、「成熟」したアイドルに向けて、ということになるかもしれない。

「山下美月 × テリー・レノックス」

「もちろんだ。何もかもただの演技だ。ほかには何もない。ここは――」、彼はライターで胸をとんとんと叩いた。「もうからっぽだ。かつては何かがあったんだよ、ここに。ずっと昔、ここには何かがちゃんとあったのさ、マーロウ。わかったよ、もう消えるとしよう」

レイモンド・チャンドラー/ロング・グッドバイ(訳 村上春樹)

島:詩の批評が小説であるというのは、多くの場で語り尽くされていますが、小説を批評した小説もあるという点はあまり語られていませんよね。
横森:いや、それを一番語ってきたじゃない(笑)。少なくともこの場では。
島:たとえば?
横森:村上春樹。古井由吉だってそうだよ。
楠木:村上春樹の「羊」や「ダンス」「世界の終わり」「カフカ」はレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』を批評したものですね。現実と仮想という無意識の問題は、あれはウェイド夫妻から来ているんでしょう。『仮往生伝試文』は、枚挙にいとまがない。「カフカ」が易しく見えるほど、ゴビノー的に煩雑です。
OLE:テリー・レノックスの破綻ってさ、アイドルが破綻する瞬間によく似ているよね。
楠木:仮想が現実の働きかけによって破綻することを「儚い」と安易に表現するなら、似ているかもしれません。たしかに、山下美月の破綻はテリー・レノックス的かもしれない。
島:アイリーンではなくてあくまでもテリー・レノックスなんですね。
横森:アイリーンは大園桃子でしょ。山下美月は『チャンスは平等』で詩の世界から抜け出たから、テリー・レノックスでしかありえないよ。五反田君とも云えるけど(笑)。
楠木:『チャンスは平等』をもって、ほんとうに、忘れられない人になったんだね。

OLE:でも五反田君が消えたのは、詩の中にだよね。
楠木:実はアイドルも詩人になれるんですよ、音楽のなかで。『考えないようにする』がわかりやすくて、「思い浮かべはしないけど きっと導かれてる」という箇所は、作品を支えているし、作品の世界から独立しているようにも見える*1。小川彩かな?この場面を口ずさむことは詩をよむことに変わりない、ということです。要するにアイドルの前に詩が置かれていることは疑いようがなくて、詩を表現する、よむ、というのは小説つまり物語をつくるということですから、あらためて説明するまでもないですが、アイドルというのは秋元康を批評しているんですね。そうした光景をそのまま作品化しているのが『チャンスは平等』ということになるんでしょう。その逆転の意味では、阿部和重の登場と重なります。であれば、次に注目を浴びるアイドルって保坂和志のようなタイプになるんだと乱暴に思うんだけど、外側と内側をバッサリ切って、内側だけを見るというか。ジャンルへの純粋さというのを打ち出せる人。探すなら、池田瑛紗になるはずだけど。
OLE:この座談会も言ってみれば保坂和志的世界だからね(笑)。知らず識らずに。
横森:しかし阿部和重の登場ってのは、裏を返せば、江藤淳の死でしょ。
島:そう言われてみれば、ここまでに話した山下美月の「成長」ってすごく江藤淳的ですよね。
OLE:でもアイドルはみんなそうなんじゃないの。卒業する時にさ、青春を捧げました、と口を揃えて言うじゃない。そこに山下美月の特権はないはずだけど。
横森:それを統括・包括している、という意味でしょ。成熟に至るには喪失が必要だと考えるのは、江藤淳の特権ではないよ。そんなのはだれでも思いつくことだよ。
楠木:江藤淳を出すなら、自分が作り上げたアイドルを前にして、「失った自分」というのを目の当たりにし茫然自失しているということになりますが。まあ、たしかに山下美月ってそういう空気をもっていますね。
横森:ただ江藤淳って時間の経過に負けているんだよね。もう古くなってる。小林秀雄はまだ古くないし柄谷行人も古くなる気配がない。
楠木:引用のシステム化にたいする指摘であるなら、たしかに引用の変敗が起きているのかもね。でもスタイルとしては、しっかりと残っているよ。 
島:江藤淳のスタイルって、結局は、江藤淳に褒められた作家の作品しか残らないんですよね。小島信夫の『抱擁家族』とか。そこが小林秀雄との差じゃないかな。
楠木:散文と詩のあいだで揺さぶられたという意味で話しているなら、阿部昭に象徴されるように、もうそれはほとんどの作家が、つき詰めちゃえばそうだから。
横森:『チャンスは平等』は散文に苦しんでないけどね。
島:保坂和志に引っ張られますが、アウグスティヌスの『神の国』が小説の下敷きになった散文であるとすれば、散文にすぎないと批判される古井由吉の文章って完璧に小説なんですよね。『チャンスは平等』の山下美月が完璧なアイドルに見えると、みなさんが話すように。
楠木:古井由吉が小説家かどうかを問う人間なんているんですか?
OLE:勇気を出して告白するけど、実は俺も古井由吉は散文に逆行しているように見える(笑)。山下美月も同じだよね。もうすでにできあがったものの横に、完成されたものを作ろうとしているわけだから。
横森:時系列的に混乱しているよそれは(笑)。『神の国』と『成熟と喪失』はつながらないよ。
楠木:僕もだけど、いつのまにか、山下美月を語ろうとして白石麻衣を語っている気がする(笑)。
OLE:うーん、そうかな?。
楠木:ただ白石麻衣以降、正確に言えば『シンクロニシティ』に端を発して、ということになりますが。白石麻衣以降、アイドルの成熟というのがひとつのテーマになっていることは間違いありません。山下美月を通して『チャンスは平等』が編まれたことだって、言ってしまえば「成熟と喪失」なんですね。
横森:だったら、生田絵梨花ってやっぱりひとりだけ突き抜けて違う場所にいるんだよな。
楠木:アイドルを成熟させずにディスタンクシオンでありつづけているからね。もちろんこういった視点の持ち方はいかにもハンナアーレント的なので、嘲笑われそうではあるけれど。
OLE:『アイドルの値打ち』における中西アルノ評を読んで有無を言わさず説得されてしまったのは、たしかに中西アルノってろうそく屋のエレナであるべきなんだよな。エレナであることが生田絵梨花に並ぶための条件だと言われたら、反論の余地がない。しかも中西アルノの場合は、喪失することがディスタンクシオンを意味するわけだから、破格だよね。
横森:ハンナアーレントを持ち出すならさ、やっぱり山下美月は虚子の『俳諧師』をなぞっているし、生田絵梨花なんてまさしく徳田秋声の『あらくれ』だよ。
楠木:秋声にならうべきは秋元康だと、僕は思うんだけど。青春の回想というのを自己犠牲のなかに持ち込んではいけないよね、きっと。別にそれは秋声でも小林一三でも、なんでもいいんだけど。
島:結局、音楽シーンというのを射程にとらえると、平成以降のアイドルって小林一三が書いたアイドルでしかないんですよね。小林一三の枠から一歩も出ないというか。でも、もしほんとうに虚子の『俳諧師』を山下美月に引けるなら、小林一三から抜け出たということになりますね、彼女。
OLE:俺は、秋元康に小林一三を引くよりも、大江健三郎に近づけたほうが納得できる気がする。楠木君の前で「大江健三郎」を出すのはなかなか勇気がいることだけど(笑)。
楠木:引用を借用というオマージュにして物語を起こすという意味では秋元康は大江健三郎的かもしれませんね(笑)。ただそれはかなり抽象的ですよ。大江健三郎も初期は詩に鎖されていますが。現実的には、いや、実際的には、やはり秋元康は小林一三でしょう。『君の名は希望』が『芝居ざんげ』なのは火を見るより明らかなわけでしょう?福田和也の口真似をすれば、俺はカフェ・デ・ザマトゥールでヘミングウェイとすれ違っていたかもしれない、と妄想しているわけです、秋元康は。
島:大江健三郎は編集者泣かせですよ。知識の脅迫と言うんですか?あれは。
横森:ゴビノーに似てるよね。
楠木:ゴビノーなんかは今でも引用探しが終わっていないんじゃないかな。作品のなかのどの部分が引用であるのか、研究者でもまだまだ把握しきれていない。
OLE:楠木君の新しい単行本、手にとってはみたけど、これはまた……、というレベルで引用がふんだんに盛られているね。ちょっと俺では半分も理解できないというか。作者自身のあとがきが欲しかった(笑)。
横森:最低限、ジュール・ルメートルとかさ、『劇の印象』を読み込んでないと、スタート地点にすら立てない。フランス演劇のなかに日本語を探そうっていうんだから。アンダーグラウンドだな、一分の隙もなく。
島:アンダーグラウンドであるのは間違いないと思いますが、僕の印象では、音楽的なアンダーグラウンドというのを文芸批評としてある種の逆輸入でやっているのかなって。というのも、そもそも文芸の地平でアンダーグラウンドというのは、根本的に成立しません。寄稿ライターとか、アマチュアはいくらでもいますが(笑)。文芸の地平でアンダーグラウンドを成立させようとするのが楠木さんのブッキッシュさなんだと思います。アンダーグラウンド音楽のなかでしか共有されないものってあるじゃないですか、演者と観客のあいだで。浅学にすぎるかもしれませんが、そういうのを文芸批評でやろうとしているように見えるんですよ。
楠木:僕が引用を多用するのは、もはやそれでしか批評を物語として見せられないからだと、確信しているからですが、そこに生じる読者との距離感というのは、言われてみれば、地下一階のステージから眺める光景なのかもしれません。でも、気軽に話しかけられたくないですけどね、ライブ終わりに飲んでいる時とか(笑)。

 

2024/03/18  楠木かなえ
*1  秋元康/考えないようにする