橋本奈々未 × 若者のすべて

乃木坂46, 特集

写真左 橋本奈々未(C)日刊スポーツ

「橋本奈々未という人」

橋本奈々未、平成5年生、乃木坂46の第一期生。
アイドルが若者を映す鏡であるならば、アイドルの世界に生きる人間のあらゆる感情を網羅したかに見える橋本奈々未のその横顔を、そのまま何一つ水増しせずに私小説に起こせば、ベストセラーになるのではないか。
橋本奈々未という人を広くも浅くも語ろうとするならば、誰もが認める読書家である、という点は外せない。
読書家としての彼女の特徴は、ブッキッシュであり、また強くペダントリーな人、となるだろうか。たとえば、同期である仲間の少女たちの世間知らずな一面に驚き、それを可笑しく諭すように、常識を教える……、彼女はそんな場面を数多く描いている。北海道から本州へと橋を渡った、右も左も分からない田舎娘が、東京の街で、エネルギーの漲っている、夢と活力に溢れた才能豊かなライバルたちと互角に渡りあう手段として、本に知識と教養を求め、渡世術を身に付けようと奔走したのだから、ペダンティックに振る舞ってしまうのは当然の成り行きではある。アイドルを演じるにあたっては「小説が演じるべき役割を教えてくれたろうし、まねすべきお手本を見せてくれたにちがいない。それに、遅かれ早かれ、なんら喜びを感じなくても、あるいは渋々ながらでも、虚栄心から」、その「お手本に従わざるをえなかった」のではないか。ゆえにこの人は、アイドルでありながら、アイドルに見えない。アイドル以上に美しく、アイドルに成りきれない現実感覚をもっている。*1
このジュリヤン・ソレル的な思惟、たとえば、こんなところで一生を終えたくない、と心に誓う若者の衝動、田舎暮らしからの脱出、生まれ持った美質と、書物から略奪した知識だけを片手に持って芸能の世界に踏み込んでしまった無謀さに橋本奈々未というアイドルのおもしろさがある。とくに、東京という、都会でもっとも光りの眩しい場所に立ち、その不条理に振りまわされながら、またそれに立ち向かう彼女の横顔は、多くのアイドルファンの関心と共感を誘うことになった。美しさという特権の非現実性に向ける尊敬と畏敬が、凡庸さという現実感覚につなげられることで破格の共感を呼び、ファンは彼女の物語に没頭することになった。
もちろん、その横顔に刺激を受けたのはファンだけではない。同業者、作り手もまたその存在感に強い影響を受けている。とくに作り手においては、アイドルらしからぬ現実感覚と美貌を兼ね備えたその横顔を前に、それに相応しい音楽を編むことの緊張感に襲われたようである。その緊張感の賜物が、橋本の卒業ソングにもなった『サヨナラの意味』であり、またそのミュージックビデオであることは、もはや説明するまでもない。
アイドルでありながら鋭い現実感覚をもつ所為で、見なくても良いものを、彼女はたくさん見てきたようだ。闘わなくてもいいものとの闘いを、強いられてきた、ようだ。卒業に前後して、アイドルという幻想のイメージに傷をつけてしまったことは、幻想のなかでアクチュアルに生きるしかなかったことの結実にすぎない。

しかしこの人が、橋本奈々未というアイドルが、「若者のすべて」であり得るもっとも強い理由は、上京物語というサクセスにあるのではなく、ひとつの別れをいつまでも忘れることができないという、純粋さ、無垢さ、心の痛みを、ほかでもない自身のファンに投げ与えている点にある。『君の名は希望』において邂逅を果たした、僕と君、つまり、ファンとアイドルの、その別れを描いた『サヨナラの意味』が歌われてからもなお、橋本奈々未という人がつくり上げたアイドルの世界に出入りするファンは、後を絶たない。その幻想の世界には、今もなお、陽光を反射する湖面にボートを浮かべ昼寝する、多くのファンが居る。それはなぜだろうか。それは、彼女の横顔そのものがファンにとってのノスタルジーになってしまったから、ではないか。

最後の花火に今年もなったな
何年経っても思い出してしまうな
ないかな ないよな
きっとね いないよな
会ったら言えるかな
まぶた閉じて浮かべているよ

フジファブリック 「若者のすべて」


引用:*1 スタンダール「赤と黒」