柏幸奈 × 制服のマネキン

乃木坂46, 特集

写真左 生駒里奈、写真右 柏幸奈(C)モデルプレス

「仮定法過去」

並行世界の発見は歴史の必然性に疑問を投げかけました。ある世界ではある国がある年に亡び、ほかの世界では同じ国がその年を越えて生き延び続ける。その差異はどこから来るのか。わたしたちの歴史はなぜこのかたちをしていて、ほかのかたちをしていないのか。わたしはなぜこのひとと結ばれ、ほかのひとと結ばれていないのか。

東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」

柏幸奈は自身のアイドルとしての輝き(可能性)について、どこまで自覚していたのだろうか。夢と現実の世界において、並みなみならぬ奇蹟を手に入れることができたかもしれない、という可能性への自覚は、それがつよければつよいほど、過剰であればあるほど、ながい時間、憂鬱におそわれる。
「ひとの生は、なしとげたこと、これからなしとげられるであろうことだけではなく、決してなしとげなかったが、しかしなしとげられる《かもしれなかった》ことにも満たされている。生きるとは、なしとげられるはずのことの一部をなしとげたことに変え、残りをすべてなしとげられる《かもしれなかった》ことに押し込める、そんな作業の連続だ。ある職業を選べば別の職業は選べないし、あるひとと結婚すれば別のひととは結婚できない。直説法過去と直説法未来の総和は確実に減少し、仮定法過去の総和がそのぶん増えていく。」この可能性の実現と喪失の話題において、アイドルほど明快な存在はほかにない。アイドルとして夢の世界で羽ばたけば羽ばたくほど、現実世界の日常を、青春を失っていくし、現実の青春の犠牲を防ぐつもりならば、アイドル=夢の破断を覚悟しなければならない。幻想の世界から早々に去ってしまった柏幸奈も当然、なしとげられるかもしれなかったことで溢れている。彼女の可能性は、その継穂を探るまでもない。アイドルシーンにおける柏幸奈の可能性を挙げはじめれば枚挙にいとまがない。アンダーセンターから選抜、表題曲のセンターへ駆け上るストーリー展開はもちろんこと、テレビドラマに映画、舞台、CM、モデル、写真集、と現在の乃木坂46が享受するありとあらゆるコンテンツに向け泡沫を抱いている。
だがもっとも興味深いのは、彼女自身が投げ捨てた仮定だけではなく、彼女のことをファンが思い出す度に、そこで生まれた可能性への想いと喪失が無情にも彼女ののこしたアイドルの虚構の中へ放り込まれる点だ。
柏幸奈はその喪失の量に負けないために、文芸の世界に身を置き続け「なしとげたこと」を増やすしかない。しかし「その両者のバランスは、おそらくは三五歳あたりで逆転するのだ。その閾値を超えると、ひとは過去の記憶や未来の夢よりも、むしろ仮定法の亡霊に悩まされるようになる。それはそもそもがこの世界には存在しない、蜃気楼のようなものだから、いくら現実に成功を収めて安定した未来を手にしたとしても、決して憂鬱から解放されることがない。」その生まれ持ったたぐい稀な美貌の働きかけなのだろう、彼女の眼前には常に果てしない可能性が置かれ、選択に自由がある。しかしそれは裏を返せば、なにものからも逸れてしまう本物の孤独にほかならない。*1

天成の麗質をもちながら、見たいと思うときに見れない、肝心なときに姿を現さない神出鬼没のイメージからファンをして「はぐれメタル」と言わしめた。これは、乃木坂46の岐路を払拭した『制服のマネキン』への参加を辞退し、次作『君の名は希望』において”マネキン”を踊るという、ファンに興奮と落胆をあたえる彼女の性質をよく表した、アイロニー・メタファを込めた称号に感じる。
久しぶりに見た柏幸奈からはメランコリックな印象を受けた。もう、すでに、バランスの逆転がはじまっているのかもしれない。皮肉なことに、その憂鬱な”美”さえも、「もしこの美が現在の乃木坂にあったら…」と、仮定を、並行世界の存在を妄執させる。


引用:*1 東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」