衛藤美彩 × バレッタ

「『御三家』と対を成すメンバー」
アイドル・衛藤美彩の個性とは、自身の企みを隠せない、いや、隠そうとしない立ち居振る舞いを作り、かつそうした振る舞いに対する内奥の無責任さによって垣間見せる、アイドルの無防備さ=素顔にある。その場の思いつきで呼号してしまうアイドルとしての未来に向けた企みを自身のファンと共有し興奮を与えつつも、そのスキームの一切を進展させずに約束を朽ち果ててしまうといった、生来の無責任さの露呈は、良くも悪くも、鑑賞者に倦みを抱かせない、人間味のある、スリリングなアイドルを完成させた。そうした衝動性が、グループの物語に強く影響した点を探るとすれば、それはやはり、序列闘争の喚起、になるだろうか。
演劇を主題に置いた『君の名は希望』の達成によって確立された、乃木坂46のアイデンティティ。それは、AKB48の公式ライバルという設定つまり他のアイドルグループとの競争を無視し、純粋に自分たちの夢を探求する姿勢、乃木坂46がアイドルシーンの表通りを練り歩く光景への蓋然性を、グループに所属する多くの少女に与えたようだ。言い換えれば、ブレイクへの確信は、少女たちを浮き足立たせたわけである。この何者にも邪魔をされず夢へと突き進むことができるだろうという希望に満ち溢れた少女たちの純粋さを打ち砕いた作品が『バレッタ』なのだが、同作品においてその原動力となったのは、あたらしくセンターに選ばれた堀未央奈だけではない。アンダーでありながらすでに選抜メンバーのほとんどを凌駕する実力を備えていた衛藤もまた、フィクションの魅力によってグループの”驕り”を打ち消す、序列闘争に緊張を強いる刺激剤であったようにおもう。
衛藤は、白石麻衣、松村沙友理、橋本奈々未という菖蒲色の三角形を象徴するその三角関係にヒビを入れ、自らそこに並ぼうとした”はじめて”の存在であり、『バレッタ』において表題曲の歌唱メンバーに選抜されてから『今、話したい誰かがいる』のフロントに立つまで、栄光に向かい走るアイドルグループの物語、その中盤に起伏を作ったキーキャラクターであり、たとえばそれは、『今、話したい誰かがいる』のミュージックビデオにおいて描かれた、白石麻衣を抱擁する生田絵梨花、橋本奈々未に対する嫉妬に、ようやく表題作のフロントにまで登りつめ、親交の深かった白石麻衣と肩を並べたにもかかわらず、結局、作品世界においては白石麻衣ともっとも近い場所には立てないという屈託をファンの眼前に提示したエピソードの内に、端的に証されている。
ゆえに、終始、闖入者のイメージを余儀なくされ、グループの主流を引き受けるまでには至らなかった。センターには、届かなかった。だが、いや、だからこそ、乃木坂46が描く群像劇の豊穣さに寄与した登場人物である、と唱えることが可能になる。バランスの取れた、心地の良い関係性に刺激をあたえる人が現れたのならば、その崩された均整の内に、ファンは、アイドルのあたらしい表情を発見することになる。様々な登場人物が一箇所に集合し、その各々が場面場面で異なる相貌を見せるのならば、それは言葉の真の意味における「群像」と形容できるだろう。生駒里奈、生田絵梨花、西野七瀬といった強い主人公感を放つメンバーとは別の存在感を持った、しかし確かに主役クラスの人気・知名度を誇るメンバーが生駒等の後ろあるいは両燐に控えているという「群像」の推進力となったのが白石麻衣、松村沙友理、橋本奈々未をして”御三家”と呼ばれたこの3名の個性的なアイドルであり、その「群像」の完成に寄与したのが衛藤美彩である。乃木坂46の魅力、成功のひとつに、アイドルの物語化つまり人間喜劇を見出すならば、当然、そこには衛藤美彩の貢献がある、と云うべきだろう。衛藤のサクセス、立身出世に刺激されそれをグループアイドルのバイブルと捉えるアイドルは多い。それは選抜メンバーだけでなく、アンダーメンバーも同じではないか。
引用:*1 塩野七生/ローマ人の物語