乃木坂46・5期生のセンター”てきせい”を考える

「ノギザカ・ノヴァ」
誰でもセンターポジションに立てるわけではない、センターは特別な場所だ、と唱える行為はもはや前時代的で、今では、表題作のセンターでなくとも、カップリング曲、期別楽曲、アンダー楽曲などでセンターに立てば、表題作のセンターと遜色ないレベルで注目されるし、また、ライブにおいて過去の表題作のセンターを若手メンバーが務める際にもおなじように、ファンから多くの関心を集める。
「センター」とひとえに言っても、その価値の見出し方に多様性が出てきている、ということなのだが、もちろん、シングル表題曲の正式なセンターの存在感・価値を別格なものと捉え、他のセンターとは明確なへだたりを作ってしかるべきだという考えを一刀両断するつもりも毛頭ない。
見方を変えれば、その破格の価値を持つ、シングル表題曲のセンターへの可能性を問う、という視点をもってカップリング曲のセンターを眺める、作り手だけでなくファンもまた自身の眼力を試すような、そんな場面が多くなった、ような気がする。アンダー楽曲のセンターに限って云えば、「選抜」への登竜門として、あるいは楽曲の世界観への応答として、選ばれ試される場合が多いようにも感じるが。
いずれにせよ、ことにつけ、可能性を問う、と書けば、聞こえは良いが、可能性という言葉の意味を考えれば明白で、その見込みが叶うときもあれば、叶わない場合もある。夢に生きるアイドルならば当然、可能性を問うことで、夢が叶う場合もあれば、夢が潰えることもある。とくにセンターへの可能性を問い、実際にカップリング曲などにおいてセンターに立ち楽曲を表現してしまえば、ほとんどそこで、シングル表題曲のセンターへの可能性、その実現への答えが出てしまうように思う。
可能性は、可能性のまま置いておいたほうが、甘やかな夢を見ていられる。
エンターテイメントと芸術性のあいだで揺れるグループアイドルの屈託を歌った欅坂46の『アンビバレント』において、その世界観に忠実に、蹌蹌踉踉(そうそうろうろう)とアイドルを演じ、やがてアイドルから離脱した平手友梨奈の欠落を埋めるように、予てから平手友梨奈に比肩する、いや、平手友梨奈を凌ぐ真の実力・才能の持ち主だとファンから呼号されていたアイドルたちが、満を持して、楽曲のセンターに立ち、踊った。しかし蓋を開けてみれば、渡邉理佐、土生瑞穂、鈴本美愉等の作る踊りの一切は、楽曲の世界観に、ではなく、平手友梨奈の世界観に忠実に、平手友梨奈の存在感を守ろうとする踊りでしかなく、楽曲の世界観に対する自己の解釈をひとつのあたらしいフィクションとして提示しつづけてきた平手友梨奈とは比ぶべくもない、質の低いものであった。眠っていた心地の良い可能性が、儚くも潰えた。
現在の乃木坂46の5期生の面々に、この「平手友梨奈とターミナルキャラクターの対峙」という構図を引用するのは、あるいは安易にすぎるかもしれないが、中西アルノ以後、複数のメンバーが、センターへの可能性を実際に問われ、ある程度、その実力・才能が明かされたかのように見える。
シーンに飛び交うファンチャントを聞いていると、センター適正、という言葉によく触れる。「適性」ではなく「適正」と印す、場合が多いようだ。「適性」と書けば、そのアイドルのそなえる、ある種の主人公感への手探りとして「センター」が準備されるのだろうし、「適正」と書けば、その人がセンターに立った場合にもたらされる価値を読もうとしている、のだろう。
以前、センターの値打ち、という記事を書いたが、そのなかでセンターの役割・使命について粗述した箇所を、ここに引いてみる。
アイドルグループのセンターに選ばれた少女は、グループの主人公と呼ばれ、グループの「顔」と扱われるのが通例であり、宿命である。センターとは、グループの矢面に立ち、その存在感を示すことでグループの人気・知名度を底上げするだけではなく、その「個」を眺めることが「群」を意識することになるという、高いカリスマ性を求められる存在と云えるだろう。センターの役割・使命を挙げ並べはじめたらきりがないが、そのいずれも以下3点に集約されるはずだ。
センターとは、グループに益をもたらす存在でなければならない。
センターとは、未来のビジョンつまり希望をもった存在でなければならない。
また、センターの横顔をなぞるとき、グループの歴史、物語を辿れなければならない。
今回は、この、私が考えるセンター”てきせい”を乃木坂46・5期生の面々に照らし、10点満点で採点し、短い批評を記して行こうとおもう。書く行為そのものが考えることになるのならば、後日、5期生各メンバーへの批評を作る際にこの走り書きのメモが役立つだろう、という希望のもとに。記事の性質上、あたらしくカップリング曲が制作されそこにあたらしいセンターが選ばれたり、ライブステージにおいて過去の楽曲のセンターを務めたり、目新しい可能性が描かれたのならば、都度、加筆することになるかもしれない。

「乃木坂46・5期生、現在のセンター適正と適性」
五百城茉央
センター”てきせい” 6点
5期生のなかではもっとも「文章」が上手い。書くことで、自己の内にあるエネルギーを引き出すような、日常の機微を見逃さない、淡々とした文章がむしろアイドルの日常へと誘う、魅力に溢れた言葉を編んでいる。しかしステージの上に立つと一転してアイドルの笑顔に硬直が現れる。コメンテーターズ・カース、と言ったか、期待を裏切られる。この埋めがたい距離がなにかのきっかけで埋まれば、同時に、表題曲のセンターポジションもまた手繰り寄せられるのではないか。可能性の実現とは、できなかったことができるようになった、だけではない。できないと思っていたことが、また他者の多くからもできないだろうと思われていたことができるようになる、という意味でもある。この人にはそうした憧憬に応えるだけの”なにか”があるようにおもう。
池田瑛紗
センター”てきせい” 1点
歌唱表現力、とくに歌声に難があり、どのようにさえずっても楽曲の世界観にひびを入れてしまう。それはおそらく日常を演じきろうとする鼻息の荒さの最も強い現れであり、とにかくこの人は防衛力抜群の壁を築き上げている。鑑賞者に、「アイドル」とアイドルを演じる人間のあいだに敷かれたリメスの撃破を許さない。アイドル本人のビジョンの中でアイドル自身が混乱し溺れているようにさえ見える。よって、表題曲のセンターに立つ姿は想像できない。この、想像できない、という点が問題で、想像できないものを語ることはむずかしい。語ることができないアイドルに、魅力を感じることもまた、困難をきわめる。
一ノ瀬美空
センター”てきせい” 5点
井上和が作品に対する念入りな彫琢を披露する一方で、一ノ瀬美空には「アイドル」の笑顔の彫琢がある。日常生活のなかで馴らされた笑顔が、「アイドル」の内に落とし込まれている。肝心なことは、この”落とし込まれている”と確信させる笑顔を編んでいる点。「私」と「アイドル」をつなぐものが「笑顔」であることで帰結してしまう暗さが『僕は僕を好きになる』の世界観と有機的に結びついているように見える。『好きというのはロックだぜ!』が『僕は僕を好きになる』を語り口にすることでセンターで踊る賀喜遥香の魅力を引き出したのであれば、そうしたフィクションと現実の交錯を、一ノ瀬美空に引用することも容易に感じる。
井上和
センター”てきせい” 9点
「他人のそら似」をテーマにして集められた5期生のなかにあって、誰々の横顔は誰々を想起させる、といった話題を下敷きにするのではなく、この人は最早「乃木坂46」そのものを下敷きにした、正統的な登場人物に見える。清楚、純潔、驕りの高さによって打ち出される閉塞感を偶然の助けではなく「希望」によって打ち破るという、乃木坂46の物語、その直系を引いている。自身がセンターを務める作品に対する熱誠、とくに踊りに向ける念入りな彫琢は、ステージ毎に「アイドル」の表情を変え、『絶望の一秒前』を初めてファンに提示してから今日に至るまで、解釈の能力、表現力においてその伸長を止めない。演じることの細部にまで神経が行き届いている。5期生のなかで最も成長しているアイドル、と云えるだろうか。緊張感に包まれた人間ほど、力強く飛翔するものだが、凡庸な人間は、そもそもその緊張感に負け成長を止めてしまう。これだけの逸材に、果たして今後出会えるのだろうか、感慨に浸らせる。
岡本姫奈
センター”てきせい” 3点
デビュー当時の騒動・動揺の残響のなかに沈み込まずに、アイドルの暮らしに歓喜しているようだし、そうした喜びをファンにも与えようと、行動しているように見える。ただし、アイドルになる以前に培ってきたもの、この人の場合は「バレエ」になるはずだが、そうした個性を「アイドル」に奪胎していく過程で、むしろ個性が抜け落ちてしまっているように感じる。バレエというイメージを、使い回す必要があるのだろうか。ダンスにおいても足を引っ張っているようにしか見えない。センター=主人公というものは、ある程度、個性の中に普遍性を備えていなければならない。
小川彩
センター”てきせい” 4点
いまのところは、表題曲のセンターに立つ姿を、現実感覚を見失うことなく描き出すことはできない。とはいえ、歌唱力はもはや問うまでもなく、ミュージックビデオにおける表現、演技にもアイドルらしからぬ豪宕さが根を張り、乃木坂のレジームに即している。
奥田いろは
センター”てきせい” 5点
5期生のなかで一番歌が上手い。生まれ持つもの、またこれまでに育んできたであろうもの、つまり少女の日常の機微を削ぐことなく歌声に乗せている。ある歌に書かれた詩を前にして、あるはずのない思い出がよみがえってくる、と表現してしまえるところなどは、歌を通して自己を成長させてきた人、という印象を強める。ただ、気になるのは、その魅力的な歌唱表現を、ポップスから「アイドルポップス」へと狭く奪胎させてしまっている点で、生来の、人間的魅力に溢れた歌声を手法化するような、きらいがある。
川﨑桜
センター”てきせい” 測定不能
5期生楽曲『17分間』において、センターに立った。しかしどうだろう、あまり壺にハマっていないように感じる。白い息を吐く、スケートリンクの上に佇むその少女の透徹した横顔をはじめて目にした際の興奮、見出した可能性のすべてが音を立てて崩壊してしまったような、虚しさがある。アイドルの存在感が強すぎて、楽曲がそなえる世界観との調和が取れないのか、ただ単にアイドルの表現力に問題があるのか、わからないが。川﨑桜がセンターで踊っていることに対しての「違和」が気になって、作品と正面から向き合うことができない。裏を返せば、それだけの”なにか”、考えなければ見つからない魅力、がこの人にはあるのだろうから、グループアイドルとして眺めれば、なんとも語り難い登場人物に思える。
菅原咲月
センター”てきせい” 7点
「現実」に幻想的イメージを持ち込み「アイドル」を作ろうとする多くの少女とは異なり、アイドルの内に現実を持ち込んでいるように見える。だから、生き生きとしていて、意気軒昂に見える。ファンの想像、妄想に現実を突き付け笑うような、気まぐれさも予感する。そのビジュアルを前にすると、秋元康の編み上げる歌謡曲の多くが、より幼稚なものに感じられる。裏を返せば、この人をセンターに配する、この人を中心に物語を編むのならば、当然、質の高い音楽をつくらなければならない、緊張感の高い、差し迫った問題に作り手は直面するのではないか。要するに、やはり橋本奈々未に似ている、ということなのだが、であれば、センターは一度きり、がベストなのかもしれない。
冨里奈央
センター”てきせい” 2点
頭上で大きく揺らめくダモクレスの剣を自ら掴み止めるような、過剰なポレミック性がアイドルのキャラクターとして受容されているところなどは、逸材=アンダーグラウンド、と呼ぶしかないのだが、コンディションの作り方、保ちように脇の甘いところがあり、アマチュアから抜け出ない。池田瑛紗の影に隠れがちだが、この人もまた、自分の素顔、というものをアイドルを演じる過程で自ら封印してしまっているかに見える。そういった心意気が魅力的に感じられたり、アイドルのストーリー性の有無に貢献しているのならば問題ないのだろうけれど、いまのところ、なんら貢献していないようにおもう。
中西アルノ
センター”てきせい” 10点
神秘性、異質さ、を未だ保っている。退屈なアイドル観に馴らされていない。乃木坂46にほとんど興味を示さない、またそうした姿勢を意識的に振る舞う他のアイドルグループのファンでも、この人の名前、横顔は知っている。ヒステリックさを狂気で押さえつけるような邪推にまぶされたその横顔、その存在感を前にしてやはり多くの人間が狂気を宿し、結果、乃木坂46の人気・知名度の底上げに貢献しただけでなく、中西アルノ=「個」を眺めることで、多くのファンが乃木坂46=「群」をあらためて意識することになった。乃木坂らしさ、を考えることになった。菖蒲色のエンブレムの有り様を、ヘラルドリーへと押し上げた。そのような意味ではすでに彼女は、カリスマ、であり、センター=主人公にほかならない。
あとがき、
現時点で思い描く乃木坂46の未来とは、この11人の少女の成長物語、ということになるのだけれど、このキラ星の中からシングル表題作のセンターポジションに選ばれるのは、おそらくは3人、ダブルセンターなどのサプライズ、妥協としての策を講じたとしても、多くて4人、ではないか。すでに1人、中西アルノが13代目センターとしてグループの歴史に銘記されているから、残すは3人。それはおそらく、すでに多くのファンが語っているとおり、井上和、川﨑桜、菅原咲月の3名になるのではないか、と私も想像・期待する。それだけ、この4人のアイドルの存在感は突出しているかにおもう。
2022/12/02 楠木かなえ
2023/01/23 批評欄の加筆をしました、「奥田いろは」の点数を2点から5点に引き上げました