欅坂46 鈴本美愉 評判記

「もう 失った人生なんて語るな」
鈴本美愉、平成9年生、欅坂46の第一期生。
ダンスが上手い、とされている。それも、グループにおいて一二を争う、と。その評価に対し、それは、鈴本がアイドルグループ「☆NonSugar」に所属していたという前日譚をまえにして何ら根拠を持たないままに安易に発せられた矢だとする批判、要は情報に左右されただけの批評だとする声量もけして少なくはない。この指摘は、誠に当を得たものだと感じる。しかし一方で、鈴本の、その小柄な身体が作る無鉄砲な踊りを目の当たりにすると、やはり凡庸を遠く凌ぐかがやきを、否応なく見出してしまうのもまた、事実としてある。
当然、このアイドルのアイデンティティとは、踊ること、つまりダンスでなにものかを表現すること、となる。その印象をさらにほぐすならば、鈴本美愉とは、オーヴァーグラウンドで闘う者、主流とされる存在、つまりは平手友梨奈、この絶対的な主人公=もっともダンスが上手いとされるアイドルの後ろに立ちつつも、しかし本当にダンスが上手いのは鈴本美愉だ、とコアなファンに評価されるといった、ある種の可能性の保持がアイドルの存在理由となった人物である、と云える。
ただし、結論をさきに云えば、結局それが村山彩希とそのファンの間合いが作るようなアンダーグラウンドとしての息づかいを描出せず、アマチュアの範疇を脱しなかったのは、平手友梨奈の不在を機に、可能性の保持が破られ、くたくたになりながらも手放さず大切に抱えてきた「鈴本美愉」の可能性が、実は大したものではなかった、という事実が露見してしまったからである。
欅坂46に所属するアイドルの多くは、その物語の核心部分を「平手友梨奈」に握られており、その背中を眺め、その主人公が作る世界の中で自分はどう生きるのか、妥協と伸展とのせめぎ合う感情のもとにそれぞれがアイドルの輪郭を描いていく。とくに、「ダンス」をアイデンティティと定める以上、鈴本美愉が、平手友梨奈と対峙する少女たちのなかでも際立った登場人物に映るのも、避けられない帰結であり、当然、彼女の物語を語るとき、平手友梨奈の横顔は看過できない。いや、むしろ、天才と呼ばれ称賛される平手友梨奈の横顔をスケッチすることでしか、もはや鈴本美愉というアイドルの輪郭は浮かび上がってこない、と云い切れるのではないか。
天才と呼ばれ称賛されつづける人間の影でもだえ、たしかな実力があるとされながらも、しかし物語の中央に抜擢されない、屈託ある物語の展開がむしろアイドルを演じるうえでの心の寄す処になっていた。天才ではない人間が、しかし自分は特別な存在である、と信じることによってかろうじて文芸の世界で呼吸することができるのは、要は、行動さえ起こさなければ、可能性の追究さえしなければ、秘められた可能性という心地の良い泥濘のなかを永遠に漂うことができるからだ。この「可能性」を抱きしめている限り、彼女は夢をみつづけることができた。しかし、不意の出来事によってそれを奪われてしまった。
自己の可能性の追究の果てに、自分だけの世界に引きこもってしまった主人公の身勝手な働きかけによって、つまり平手友梨奈の不在が招くグループ存亡の機に際し、鈴本美愉は、図らずもセンターポジションに立つことになった。しかし、『アンビバレント』のセンターで踊る鈴本によって描かれた光景とは、平手友梨奈が何度も黒板になぐり書きした世界観の模倣、奔放や享楽にまみれる少女の横顔の焼き増しでしかなく、デビュー以来、大切に抱えてきた可能性のすべてを一刀両断されてしまった。
ここであえて分析的な表現を用い、アイドルのダンスについて語るならば、アイドルに求められる踊りを「日常風景との邂逅」とするとき、未熟なアイドルの多くにみられるものに、踊りを作る際、常に音が鳴るのを待っているように見える、という瑕疵が挙げられる。音が鳴るのを待っている、というふうに見えると、このアイドルは次に自分が作る動作を考えているな、と感じてしまう。その時点で、それはアイドルにとっての、言葉の真の意味における「ダンス」とは呼べなくなってしまう。そして観客がこれを見極めるのは実に容易い。
では、踊る、というのはどのような意味を持つ言葉か。それは日常生活のなかでだれかが口ずさんだ、あるいは、踏み鳴らした音楽に触れて、おもわず身体が動く、きわめて敏感な経験ではないか。つまり、音が全身に降り注いだから身体が動きはじめ、言葉による表現とは別の、異質なものが現れた、という日常の濃やかな展開を、アイドルはステージの上でスケッチし再現しなくてはならないのだろう。踊りの才能を持つ鈴本が、前者には与さず、後者の側に立つのはまず間違いない。肝要なのは、その自己の日常の再現が、反応によって示されるのか、それとも言葉によって形づくられるのか、つまりは表現行為に達するのか、という点にあり、鈴本の場合、反応によって示されているようにうかがえる。反応、つまりは才能によって突き動かされているだけであり、もし反応が起きなければ、表現行為への達成の有無にかかわらず、彼女はただ踊ることすらもできなくなる、と云えるだろう。
グループアイドルである以上フィクションを作るという命題を絶対的に把持する少女たちが、単に才能のある者か、天才か、この両極に決定的に分断される場面を探るならば、それは、言葉で表現することができない感情に遭遇した際、それを他者に伝えるために行動するのか、もしくは表現行為そのものを諦めてしまうか、そこにある。鈴本の卒業理由をみれば、表現行為への断念を読めば、彼女が単に才能のある者の側に与しているのは言い逃れできない事実だろう。
一方、グループアイドルとして、天才と呼ばれ称賛される少女、彼女は、言葉でいいあらわすことがどうしたってできない感情に遭遇したとき、これは絶対に表現しなければならないものだと確信する。しかしこれはグループアイドルという役割の上では表現することが許されないのではないか、少女は嘆き、思いつめ、絶望し、やがて無頓着になるか沈黙に陥り、それをステージの上へと引きずり込み、表現する。端的に云えば、なにがしかの表現行為に対し、諦められる者あるいは折り合いがつけられる者は、その成否にかかわらず、やはりそれは単に才能がある者、と呼ぶしかない。天才は、ある制限に対し、折り合いをつける、つけないといった話題にそもそも立たず、どうすればそれが表現可能になるのか、状況を切り拓くための考えしか持たない。単に才能のある者を鈴本美愉と定め、天才を平手友梨奈とするならば、説明するまでもなく、この二人を並べ、どちらのダンスが上手いのか、という視点のもとにアイドルの値打ちをはかる行為自体が、意味をなさない。平手友梨奈以外の少女がどれだけダンステクニックを磨き、平手友梨奈を凌駕しようとも、結局、それは単に才能がある者でしかなく、天才ではないのだから。
平手友梨奈の踊る閾に踏み込めない以上、おなじ批評空間に立てない、と云ってしまったらそれまでなのだが。たとえば、ステージの中央で蹌蹌踉踉(そうそうろうろう)とする行為とは、一見すると、やろうとさえすればだれにでもできるようにおもえる。しかしそんな馬鹿らしい行為は、凡庸な人間あるいは単に才能のある者はとらない。そしてそこに生まれる隔たりこそ決定的な差と云えるわけである。やろうとさえおもえばかならずできる。というのは、実は、やろうとしても結局できない、のである。このある種の衝動によって完遂される、やろうとさえすればだれにでもできる、と確信させつつも、しかしいざやろうとおもっても実はできない、といったことを現実に実行し、醜態を描くアイドルを、乱暴に、あるいは、安易に、天才と呼ぶのならば、平手友梨奈のほかにそのような人物を挙げるとすれば、それはおそらく、全国中継されるテレビカメラの前でこれまでに語ったアイドルの物語のすべてをなかったことにした、転向を描いた須藤凜々花になるのだろう。肝要なのは、結局、そのような話柄にアイドルを演じる少女がたどり着いたとき、じゃあ私は「鈴本美愉」で結構だ、となってしまう点だろう。おそらく、ほとんどの少女が、平手友梨奈や須藤凜々花にみずからすすんでなろうとはおもわない。つまりは、そのような当たり前の結果、常識的な判断こそ、平手友梨奈が、単に才能ある者=鈴本美愉とは決定的に隔てられた場所に立っている証なのである。
秋元康と平手友梨奈の対峙、この限定された枠組み(しかしそれは今日のシーンを象徴する筐体と扱える)において、天才と単に才能のある者を明確に定義しようと試みるならば、作詞家・秋元康の記す詩情に対し、迎え撃たれるのか、迎え撃つのかに分けられる。加えて云えば、それにみずから”なりかわる”のか、さらには、くるべきものの側となり撃つのか。
たとえば、『帰り道は遠回りしたくなる』の物語を来るべきものの側として撃った生田絵梨花は、やはり単に才能のある者とは決定的に隔たった存在に映る。たとえば、『気づいたら片想い』を象徴とするように、作り手によって書かれた本の登場人物通りの運命をなぞる西野七瀬は、作り手の詩情を迎え撃ちつつ、登場人物へのなりきりを可能にしており、彼女もまたグループアイドルとしての最高到達点にみえる。たとえば、作詞家の記す詩情の責任を、作詞家ではなく、それを演じる少女自身が深刻に果たす、自己劇化への展開と憧憬を描いてしまった平手友梨奈、彼女もまた、比類のないものを投げつける。
作詞家の詩情に啓蒙されてしまう。結果的にそこに記された教訓どおりの顛末を描いてしまうアイドルは、その横顔に魅力こそあるものの、やはり、単に才能のある者、と表現するほかない。鈴本美愉はこの枠組に収まる。短い距離感で云えば、彼女は『語るなら未来を…』にやや安直に迎え撃たれ、それなりに長い距離感で話せば、『青春と気づかないまま』に見事に迎え撃たれてしまっている。
卒業したアイドルの物語が、作詞家・秋元康の記す物語とどのように結びついているのか、あらためて少女たちの残した物語を読んでみるとおもしろい発見があるのではないか。
総合評価 56点
問題なくアイドルと呼べる人物
(評価内訳)
ビジュアル 12点 ライブ表現 14点
演劇表現 10点 バラエティ 7点
情動感染 13点
欅坂46 活動期間 2015年~2020年
引用:見出し 秋元康 / 語るなら未来を…