日向坂46(けやき坂46) 潮紗理菜 評判記

「沈黙した恋人」
潮紗理菜、平成9年生、日向坂46(けやき坂46)の第一期生。
河田陽菜とならび、今日の若者、とくに女性の風姿、その内奥を、グループアイドルを演じる過程で濃やかに描出する魅力的なアイドル。日常を演じる日々のなかで喪失するもの、そこに向ける問いかけ、名残を打ち出す河田に対し、潮の場合、この現代でアイドルを演じることになった少女が否応なく遭遇する、情報の囲繞に対する戸惑い、屈託を大胆にさらけ出し、かつ物語っており、河田と同等の希求がある。
アイドルにさえならなければ、おそらくは、人生で経験するはずのない誹謗、顔の見えない他者から容赦なく投げつけられる口撃によって、若者の誰もがこころの内で怯え持つもの、が明るみにされるという、普段目に見えないものがアイドルを通すことで見えるという、アイドルを代償にして一般生活者の日常の機微が映し出されるという、アイドルが若者の映し鏡であることを証すその物語を、痛手を負い沈黙に陥ったその苦悩の様子を、潮紗理菜はあくまでも甘美に、しかし明徴に、みずから訴えかけており、微笑とも憂い顔とも捉えられる彼女の横顔を眺めると、つよく希求される。
孤独に絶望して発話を断念してしまうことは簡単かもしれませんが、それはまた弛緩、退廃にほかなりません。その弛緩は容貌にもあらわれて、ぼうっとした、人間というよりは哺乳動物のような雰囲気を醸しだしてしまうのです。イノセントな人の顔が見られたものではない、というのはそういうことです。絶望を前にしても、云うべきことは云う、最終的には伝わらないとしても、知力の限りを尽くして発話するという緊張と果敢さが、容貌に潑剌とした輝きを与えるのですね。と同時に、この輝きを、一層美しくするのが、悪の自意識なのです。
福田和也 / 悪の対話術
このひとは、言葉巧みで、ミステリアスなアイドルだ。アマゾンの奥地に迷い込み、そのまま占い師として原住民族に崇められていそうな、そんなイメージをもった魅惑的なアイドルだ。換言すれば、どこか胡散臭い人物。
デビュー直後、顔の見えない誰か、に口撃され、痛手を負った。彼女の独特な「発話」は、シーンを生き抜くためにと用意した得物・知恵なのだろう。誰でも言葉に意識的になれるわけではない。たとえば、自身の内情をカメラの前で、あるいはステージの上で吐露する際に、ひとつふたつ、自分の身を守るためにウソを駆使した、と確信させる言葉、喜劇を彼女が作るのは、そうせざるを得ない境遇に置かれ、かつそれを凌ぎきるためのアイデアとして「対話術」を選ぶことができたからである。
「孤独に絶望して発話を断念」した過去を持つ、その底の見えない暗さに反し、彼女から繰り出される言葉の数々には、もたれ掛かるのにどこか躊躇する、話者の、安易な算段を覗き見てしまい、そのギャップが不気味に、ミステリアスに感じるわけである。
だが特筆すべきは、潮紗理菜のその不気味さ、用意周到に見える立ち居振る舞いを目撃してもなお、不快にならず、むしろ好感を抱いてしまう点だろう。聖母と不純が秤に載せられているように見え、アイドルに対し常に逡巡が付きまとうのは、やはり彼女が対話の「断念」を経験しながらも、「絶望」の巣穴から這い出る「果敢さ」を示した、アイドルとしてたしかな成長の物語をもつ存在、「つまり自分は、イノセントで無垢な存在ではない」と自覚する、今日のアイドルでは稀有な登場人物だからか。
ゆえに、このひとは、したたかな女、と呼ぶべきである。アイドルにとって、したたかな女、という形容は、正道から逸れているかもしれない。しかし潮紗理菜の場合、いや、日向坂46というアイドルグループにおいては事情が異なるようだ。日向坂46の特質とは、アイドルを演じる日々のなかで抱く屈託を大胆に露出し、その上でなお、惜しみない笑顔を振りまくメンバーこそ、「容貌に潑剌とした輝きを」持った正真正銘のアイドルである、と呼号する、古典的でありまた現代的でもある、構図にある。潮は、グループのそのアイデンティティと高水準に合致したメンバーと云えるだろう。
彼女が仲間だけでなく、ファンに向けて「知力の限りを尽くして」誠実であたたかい言葉を投げかけられるのは、またそれが芝居じみていて胡散臭いと揶揄を買ってもけして不快に映らず、アイドルの姿形が損なわれないのは、「孤独に絶望」し、沈黙した末に握りしめたアイドルのアイデンティティが、きわめて会話に意識的な人物のみがみせる「悪の対話術」だったからだ。*1
また、これを云ってしまったら元も子もないのだが、グループアイドルの本領、おもしろさとは、ここまでに述べた凡庸なサクセスを、生まれ持った才能の話題によって軽々と破断する、スリリングさにある。仮に、潮紗理菜がアイドルになったことで後天的にそなえた資質を、したたかさ、とするのならば、彼女が先天的にそなえ持つもの、つまり才能とは、歌声、よりほぐして云えば声音である。
才能、これはもう、きわめて理不尽な存在により投げ与えられた輝き、とするしかない。ゆえに、努力やポテンシャルといった範疇では、到底、語り得ない、手の届かない、憧れになる。
声音、これももちろん、他者を魅了してやまない天分のひとつに数えられるだろう。声が良い、これだけで人は、その持ち主に引かれてしまうことが、多々ある。
たとえば、アイドルのボーカル演技にこだわり、アイドルの日常の”声”を可能な限り再現しようと試み制作されたであろう『沈黙した恋人よ』や『イマニミテイロ』において、そのボーカル演技でもっとも強い魅力を打ち出したのが、ほかでもない潮紗理菜であり、彼女の歌声には、日常の不気味さを再現したかのような、大雨の夜に家の中に迷い込んだ雨蛙の鳴き声ような、悲哀があった。と同時に、日常から遠く離れた、草原の揺り籠で安らいでいるような、子守歌を聴いているような、救済も届けてくれる。たとえば、恋愛映画を観たあと、道玄坂のレストランで、デザートをつつく恋人、彼女に映画の感想を話しているとき、不意に、その映画を以前にどこかで違う誰かと観たことがあった事実を、悲愛を思い出す、ような、記憶のなかに鮮明に刻まれはしないけれど、出逢うたびに新鮮に映る、ような、潮紗理菜の歌声にはそんな魔力がある。
総合評価 62点
アイドルとして活力を与える人物
(評価内訳)
ビジュアル 11点 ライブ表現 14点
演劇表現 11点 バラエティ 13点
情動感染 13点
けやき坂46 活動期間 2016年~
引用:*1 福田和也 / 悪の対話術
2022/06/15 本文を大幅に書き換えました