現役の批評家が選ぶ、もっとも文章がうまいアイドル 「乃木坂46 編」

ブログ, 特集

「ブログの値打ち」

2020年に入り、久しぶりに、立て続けに、純文学小説に対する批評を試みた。平成の終わりに作家として過ごした時間は、もっぱら投機家へ向けた批評であり(なんといっても投機関連の仕事はお金になるのだ)、さらに最近は、趣味でもうひとりの自分、もうひとりの批評家「楠木かなえ」を名乗り、福田和也の文章を剽窃しつつ、あるいは小林秀雄の文章を引用しつつ、アイドルに点数を付けている。
まったく、私は、なにをしているのだろう。私の物書きとしての始点は大江健三郎の『宙返り』を批評した瞬間であり、本分もそこにあったはずだ。一体、どこで道をあやまったのか。木更津の駅前にあるビジネスホテル、フロント脇に置かれたソファに座り込み、アクアライン使って河を渡って来るであろう友人(以前、なにかの記事で紹介したが、彼は「カメラマン」を生業にしている。アイドルにほとんど興味を示さなかったが、STU48のライブに連れて行ったところ、門脇実優菜「推し」になったらしい)を待ちながら、感傷に浸っていた。
ホテルに到着した友人と朝食を食べていると、ふと、彼が、批評家がアイドルを批評するのに、アイドルの文章にケチは付けないのか、とデリカシーを欠いた言葉を放った。

今回、アイドルの文章に点数を付けるにあたり対象としたのは「ブログ」のみである。あえて説明するまでもないが、活字にされたインタビュー群はアイドルの言葉ではあるものの、アイドル自身が編み上げた文章ではないため、対象から外した。もちろん、インタビュー記事には興味深いものも多く、定期的に知人から送られてくる雑誌群はアイドル批評を支える重要な情報・資料になっている。
また、対象とするアイドルは乃木坂46に所属するアイドルに絞った。欅坂46、日向坂46を含め、さらにはAKBグループも対象に入れるべきだと考えたが(たとえば、長濱ねるや松井玲奈、現役ならば本間麻衣など、他のグループにも言葉に意識的なアイドルは多数存在している)、膨大な情報量のまえに挫折した。「遊び」であるのに、それはあまりにも作業的に過ぎ、まったく愉しめない。

何年か前、あるテレビ局の依頼で、当時ドイツで盛んになっていた反核運動の取材にいき、同じ目的できていた大江健三郎氏と久しぶりに偶会した。…その時、私が以前から手がけていたスクーバダイビングの話をし、オキノエラブウナギという名の猛毒をもった不思議な海蛇のことを口にしたら、彼がとても面白がって、そんな話は自分で思っているよりあなた自身にとって大切なのだから、暇な折りに書き残して、『新潮』の坂本編集長のような親しい編集者にあずけておいたらいいと忠告してくれたものだった。その後暫くしてそれを思い出し、自分の身の回りにあったいくつかの、なぜか忘れがたい出来事や人から聞いた話を暇な折り書き留めだした。やりだしてみるとわが事ながら自分でも思わぬ興味が湧いてきて、思えばこんな時にこそ俺の人生は飛翔していたのかも知れないと一人で感じいったりしたものだった。

石原慎太郎 / わが人生の時の時

アイドルの文章に点数を付ける、そこには、アイドルのそなえもつ作家性、換言すれば、小説家としての才能・可能性をはかろうとする姿勢、試みがある。この点をまず付言しておきたい。作詞家兼プロデューサーとして働く秋元康の詩情の上で踊る少女たちには、当然、強い作家性が求められるだろうし、ファンを魅了し売れるアイドルとは、往々にして、文章が書けるひと、である。アイドルが編み上げ語る物語に強く引かれる理由とは、それがアイドルの日常、素顔によって支えられた私小説の趣きをもつからに相違ない。
アイドルを演じる少女が、アイドルとして過ごす時間のなかで起きた「なぜか忘れがたい出来事」を言葉にして印したブログ、人生の「飛翔」を記した日記とは、水増しされることのない本物の私小説を書くにあたり、もっとも重要な材料になりえるのではないか、と思ったりもする。
アイドルにとっての、うまい文章、とは、バルザックや志賀直哉のような衝動のことではなく、リリー・フランキーの『東京タワー』のような一遍に枯れてしまう衝動、つまり写実のもとに立ち現れる私小説=儚さではないか。ブログのなかで自身の日常の機微をどれだけ繊細に、瑞々しく写実できているか。ファンがいつのまにかアイドルの素顔に想到し彼女のことを理解したと確信するような、妄執を握りしめるような文章を綴っているか、この視点に重きをおき、あらためて、少女たちの書く文章を読んだ。
現役、卒業生問わず、乃木坂46に所属するアイドル(1期生から4期生までの計69名)を対象に、アイドルを演じる少女の書いた文章を100点満点で採点し、結果、60点以上を付けた13名のアイドルを、ここに紹介する。


(C) 乃木坂46公式サイト

60点 吉田綾乃クリスティー

不甲斐なさやみじめさを、陽気に、駆け足で乗りこえようとするが、記された日常のあらゆる場面に、どこか心淋しい、モデレートなアイドルを読む。アイドルの書く文章としては平板だが、自意識が欠けたところにのみ現れるアイドルの本音には独得なアプローチがある。
仮りに、もし彼女を主役に置いた楽曲、あるいは映像作品が作られたのならば、そこに描かれる登場人物への浸透を容易にこなすのではないか、と期待できるのは、やはり反動と献身の両立を文章の内に覗くからか。


(C) 乃木坂46公式サイト

65 松村沙友理

想像力豊かで、作家性がもっともたかいと感じるものの、期待する詩情の暴走的な描写はブログのなかにはほとんど書かれていない。写実ではなく、日常で抑え込んだ欲のようなものを、あくまでもひとつの手段として文章を用いるのに秀でており、多才がゆえに、文章に対する熱量、関心は薄いようにみえる。ただし、書くことに意識的になった瞬間にみせる文章の破壊力は抜群で、とくに、白石麻衣とツーショットを撮った際に、2人の後ろに座っていた生田絵梨花がカメラに映り込もうとするエピソードの描写は、絆に憑かれたアイドルの日常の機微を情景化しており、舌を巻くものがある。


(C) 乃木坂46公式サイト

67点 佐々木琴子

短くて読みやすい。もちろん、読みやすいだけではなく、言葉に過剰な自意識を持ってしまった人間特有の倫理感があり、意図的に抑えられたテンションだけが発見する生活の匂いをうまく書けている。
自身の
卒業について語った文章は、反動的で清々しいが、どこかなごりもあり、しかもそのなごりがアイドルへのなごりに収まらず、アイドルになったことで喪失したであろう日常へのなごりもつよく訴えており、ここではないどこかを常に夢みる、日常を演じる人間の儚さを投げつけている。素晴らしいの一言。


(C) 乃木坂46公式サイト

68点 星野みなみ

短い上に日記の全体量も少なく、好印象。日記とは、やはり短くあるべきだと、あらためて確信する。驚くのは、星野みなみの場合、書くことの努力の一切を諦めたと想像させる文章でありながら、限りある日記を読了しただけで彼女の性格を他者に堂々と説明できてしまう、という点だろう。才能と云ってしまえばそれまでなのだが、こころに秘めた想いを表現しろと強いる世界において、それにまったく怯まない姿勢の維持は一転して愉快な頼もしさを抱かせる。


(C) 乃木坂46公式サイト

70点 北川悠理 

真っ青な文章を書く行為により、手に入れることができたかもしれなかった夢と、手に入れることができたけれど入手しなかった日常の喪失への療養を試みており、当然、文章を書く時間に対し意識的である。文章の中にアイドルの輪郭をちりばめる、のではなく、文章を読ませる過程でアイドルの輪郭をファンになぞらせる、描かせる、といった仕掛けを作っている、とつよく感じる。きっと、この人は頭が良いのだろう。文章の巧妙さが一種の功罪を作り上げ、緊張感ある叙述となっている。


(C) 乃木坂46公式サイト

71点 齋藤飛鳥

小説から剽窃した感情を自身の所有物へとすり替え、なおかつ、その上でアイドルとして暮らす架空の世界で遭遇する体験を写実しており、ユニークな科白を書いている。素顔を一度、足元に置いて、そこに布を被せるといった遊びが明確につかめるため、無邪気なアイディアを読む。読書家を名乗った人間が否応なく求められてしまう、文章力への期待に対する逃げ道もしっかりと用意している点には、書き手の素顔を触り、微笑ましくもある。彼女の書く日記は、自身の思惑とアイドルの生活に強烈な隔たりを設けている、と感じる。
富岡幸一郎が大江健三郎の小説の内に「描写」の終わりを見る、と云ったが、それに対し福田和也は大江健三郎の「良さ」は文章であり、文章と描写は全然違うと云った。齋藤飛鳥の書く言葉は、日常を描写すると同時に、それは空想の描写でもある。つまり、肝心なのは、彼女の作る言葉の「良さ」とは文章ではなく、描写である、という点だろう。齋藤飛鳥の科白を前に自己投影をおさえきれない読者があとをたたないのは、それだけ彼女の日記に記された日常が、文章ではなく、空想の描写に支えられているからではないか。


(C) 乃木坂46公式サイト

73点 大園桃子

季節が移り変わる瞬間を、アイドルの成長や出会いと別れ、喪失と成熟に通いあわせ、岐路をまえに自ら郷愁を招くといった構図に終始しており、澄み切った手記に触れたような感慨がある。ノートに記されるナイーブはどれも紋切り型だが、そこに込められた渇望が映写するアイドルの自己肥大は読むものになんらかの情動を植え付ける。自身の身を置く世界で描かれる物語は、けしてきれいごとでは終わらないはずだ、という観照への寂寥を描出している。トップアイドルがみせる暗さと尽きることのない問いかけは、アイドルの言葉を前向きに捉えようとする読者を、常に動揺させる。


(C) 乃木坂46公式サイト

75点 生田絵梨花

まず、これだけ成功を収めたアイドルであるのにもかかわらず、一貫して、自身の日常のかけらを提示しつづける行為に敬意と称賛を贈りたい。一人の少女が文芸の世界に足を踏み込み、やがて熟練した役者たちと交流するまでのすべての過程を惜しみなく、水増しせずに、ありのままにブログの中へ置いている。舞台役者を生業にした日からは「形容」に意識的であり、強烈な自己肯定のもとに発散されるアイドルの日常風景はファンの輿望をにない、日記でありながら、再読へのつよい希求を作っている。


(C) 乃木坂46公式サイト

76 中元日芽香

屈託によってたどり着いた被害妄想が浮き彫りにするアイドルの沈鬱はきわめて簡明であると同時に、帰還を許可しない不気味な虚構を捏造する。落ち込んだ少女が抱える悔悟の厄介さはどれだけ深い場所に落ちても消滅しない。他者が提示する才能をまえに、自問自答の末、破綻するといった物語の記録は、グループアイドルのモノグラフとして文句なしの価値をそなえている。


(C) 乃木坂46公式サイト

77 久保史緒里

モノローグのフィクション化に成功しており、細部まで描写された現実に仮想を絡めつつ、静かに語られる日記は、読む人間に致命的な誤解を与え、アイドル自身がその妄執に囚われ、そこから脱却しようと試みるが、結局、身動きできぬまま、もだえつづける倒錯をブログに書いている。しかし、彼女の内省に富んだ文章から響いてくる不吉さは、グループアイドルにとってのあたらしい感興にも映る。


(C) 乃木坂46公式サイト

82 寺田蘭世

けして難解な表現を用いているわけではないが、読む者に一定のスタミナを毎回強いる、そんな文章を書く。そして、最後まで読んでも得られるものは歪んだ自己否定に育まれたアイドルのつよがりだけである。
衝動に頼って公開した文章を、後日、なんらかのかたちで言い訳する、自家撞着とは決定的に隔たりを持つが、しかし、どこか逃げ道を自ら失ってしまった人間の苦闘の劇を読む。
だが、読むのに億劫になる、これは、記された文字の連なり、そのひかりの先端に文学が内在する証しである。他者に伝えたいと考えた感情があれば、たとえ粗雑であっても今ここで自己表現するべきだ、という姿勢に一貫している。しかもそれがアイドルとしての日常のなかに置かれているのだから、リリー・フランキーの「東京タワー」のようなビビットさがある。文章と描写のバランスも良い。とくに、自身がセンターポジションを務めた「滑走路」に対する文章と描写には、つよく、優れた感性を受け取る。


(C) 乃木坂46公式サイト

88 北野日奈子

生身の感情を削がずに文章を起こせる人らしく、日記のあらゆる段落に、メタファのようなもの、が生じ、決意表明する言葉がかならず悲喜劇に結実するという、グループアイドル特有の不完全さ、少女がそれに拉がれる様子をもっとも鮮明に、もっとも有害に記している。
情報に囲繞され、打ちのめされ、屈曲を抱え込んだ少女が、絆との触れあいを通して、やがて巣穴から顔を出し、かつて提示された困難を乗りこえようとする、アイデンティティの成立を真正面からブログに記す大胆さには、驚嘆と称賛を贈りたい。


(C) 乃木坂46公式サイト

96 鈴木絢音

おそらく、彼女の文章があまりにも抑制された記号に映る理由は、恒常的に小説を読む暮らしによって、文章を書くことに意識的な立ち居振る舞いをとらざるを得なくなってしまった人間が、なにがしかの作品の、愛読する作家の文体の影響を受けてはならないとこころに誓った際に生じる硬さにある。あるいは、純文学小説を読み終え、その世界が閉じられ、現実世界へと帰還した際に、自身の身を置く世界がひどくみすぼらしく見えてしまう事実との折り合いづけのための手法が「慇懃」なのかもしれない。
つまり、提示された、やや過剰にもおもえる「慇懃」をまえにして、顔が影になって見えないアイドルに対して致命的な距離を想わずに、それを端正な文体と受け取るためには、アイドル・鈴木絢音が文学少女であるという知識の前提が必要になる。アイドルの記す、日常のつづきを書いた文章から素顔に辿り着く、のではなく、鈴木絢音の場合、すでに、過去において提示した素顔をファンが握りしめていることを前提とした素顔の隠蔽があり、共通理解の上でのみ成り立つその文章は、ある種の逆転と呼べるだろう。それは、自身のファンにのみ語りかける行為、と表現するよりも、アイドルファンにアイドルの文章を読むために、ある程度の知識の強要をしている、と云い切ったほうが早い。換言すれば、この人は、アイドルファンを子供扱いしていない。つねに、成熟したひとりの人間として向き合おうと試みている、ように思えてならない。
とすれば
、それはブログを読む行為に向けて、アイドルガイド、入門の役割をあてるのではなく、ブログを独立した、価値のあるコンテンツと捉えているわけだ。そのコンテンツを楽しむためには、それなりの知識を手に入れてこい、と云っているわけだ。この姿勢には、たじろぐものがある。自分の書く文章を読む人間に対し、努力を強いる、これは文句なしに文学であり、それがたとえ小説の枠外であっても、やはり、対象のコンテンツを延伸させる力を宿している、と読み解かざるを得ない。


2020/3/25 楠木かなえ


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