AKB48 本間麻衣 評価

AKB48

本間麻衣 (C)AKS/755,AKB48 研究生 本間麻衣のトーク

「ノスタルジア」

本間麻衣、平成14年生、AKB48の第十六期生。
まさしく大器であり、隔絶や遊離を余儀なくされた次世代アイドルのホープである。清爽で端正な風貌と、繊細な好奇心は、斜陽の渦に飲み込まれて行く筐体の自浄をアイドルとしてのアドヴァンテージにすり替えてしまう。”レット・イット・ビー”への実践意欲と羨望の所持は、直向きさとユニークの混載につながり、まるで生田絵梨花のイノセンスを再現するかのように、探究心あるユーモアを描いている。生硬が砕け散ろうとするモラトリアム特有の成長過程を露出する日常には切迫が溶け込み、これから途轍もない物語がはじまるのではないか、という胎動の手触りをたしかに伝える。彼女の前に提出される”胎動”が過褒やクリシェと対峙しないのは、アイドル・本間麻衣の破顔が作る物語性に伝統が内在するからである。彼女の笑顔は進化やハイブリッドといった近距離をなぞる範疇になく、雲井浪子の系譜に連なる小嶋真子の笑顔=古典と共時している。本間麻衣は、AKB48の歴史、グループアイドルの通史、群像劇を読む読者に感興を与える”発見”の要件の数多くを満たす稀有な存在であり、空中に漂ったままの記憶と痕跡の吸収、邂逅が待ち望まれる。

オーバーラン? 予想全部超えて
段階を踏まえてなんてルールほっぽって
なんだってかんだって巻き込んでいっちゃうね
体験談 経験値あんま意味ないよね
いつも NEW GAME 始めるみたいで
「C’est la vie…」 言い得て妙だね!

clammbon / Lush Life!

第十六期生は「Lush Life」、つまり家郷(前田敦子)とは無縁の世代である。しかし、ハーベストムーンを通過した先で集合した19名の不揃いが映し出す未完成品への失望感の立ち現れは、アイドルシーンの趨勢によって略奪された旺盛に対する鑑賞者の感傷を無視するならば、不完全な群像劇を描いた第一期生の胎動と遠く響き合っており、皮肉にも、AKB48がカフェテーブルの上で物語を書いた頃の、「段階を踏まえてなんてルール」を「ほっぽって」、シーンの体験や経験の振りかざしと正面から闘った頃の、立ち上げ当時のグループのコンセプトに回帰した、と云える。原典を背負って歩くあたらしい物語、あたらしい系譜の誕生を彼女たちの未熟さが期待させるのだ。本間麻衣はその群像の渦の中、末端的登場人物としての役を演じながら、しかし「体験談」や「経験値」に縋らない主人公を描いている。
本間麻衣の八重歯とその消滅はアイドルの概念としてノスタルジー(主人公)の徴になるが、筐体単位の回帰をなぞるのではなく、よりオーソドックスな歓呼に迎えられるはずだ。彼女のみせる、アイドルに尽きない関心を抱く人間を受け入れ、限定した虚構を作る姿勢への予兆は、シーンの狭さにより”考え尽くす”が達成され、選択ではなく遭遇によって”愛おしい”の対象(アイドル)が決定される、しかしそれを深刻に傷つけようとする幼稚な逆走や狂騒の再来を予感する。この、シーンの縮小ですら、猶予期間の終わりを告げる鐘の音とする点、隘路の壁を貫き、広大な空白が埋められていく光景にすり替えてしまう点は、グループの未来への展望を見い出すうえで、村山彩希に次ぐ偶像と云えるだろう。

卒業への予感(クリティーク)を研究生の身でありながら常に浴びつづける人物だが、真っ白なシーツに包まれて消失するかもしれないという心の揺れ、防ぎようのない風を感じたことは一度もない。
ダンスパフォーマンスに追随する表現力の拙さ、「重心も反応もおぼつかな」い踊り、姿形、線の細さが徒労の繰り返しを反故する緊張感の欠如と重なり、貧弱に映るが、それを暗黙化せずに、屈託や偏執、メランコリックに傾倒せずに、「C’est la vie」と呟くような達観があり、精悍と怜悧をアイドルの日常演技として構成し、傷つきやすさを束縛しようとする立ち居振る舞い、”機嫌の良さ”を見失わない仕草をみせるため、アイドルシーンを生き抜く強さと根拠を投げ付けられる。アイドルと成った事実を奇跡との遭遇と実感し、歓び、感謝する本間麻衣の姿形は、発見と成長共有の要件を充たしている、とつよく確信させる。

熊太郎は、俺はどうも頭のなかでひとつのことをずっと考え過ぎんにゃ、と思っていた。
熊太郎は、たとえばこの、と目の前の牛を連れた駒太郎を見て思った。
熊太郎は駒太郎を改めてみた。駒太郎は橋の上に立ち牛を連れ、早くようじょこに行きたいなあ、というような顔をして、そして言った。
「熊やん、おまえも百姓してんにゃったら覚えとき。ようじょこちゅうたらな牛の爪切るこっちゃ。ほなわし急くよって行くで」
ほらね。と熊太郎は思った。
駒太郎はまず頭で早くようじょこに行きたいなあ、と思った。そして早く行きたそうな顔をした。そして言葉で「早くようじょこに行きたい」と言った。つまり駒太郎においては、思いと言葉がひとすじに繋がっている。思いと行動が一致している。ところが俺の場合、それが一致しない。なぜ一致しないかというと、これは最近ぼんやりと分かってきたことだが、俺が極度に思弁的、思索的だからで、つまり俺がいまこうして考えていることそれを俺は河内の百姓言葉で現すことができない。つまり俺の思弁というのは出口のない建物に閉じ込められている人のようなもので建物のなかをうろつき回るしかない。つまり思いが言葉になっていかないということで、俺が思っていること考えていることは村の人らには絶対に伝わらないと言うことだ。
…俺の思いと言葉と行動はいつもばらばらだ。思ったことが言葉にならぬから言葉でのやり取りの結果としての行動はそもそも企図したものではなく、思いからすればとんでもない脇道だし、或いは、言葉の代替物、口で言えぬ代わりに行動で示した場合、そもそもその言おうとしていること自体が二重三重に屈曲した内容なので、行動も他から見れば、鉄瓶の上に草履を置くとか、飯茶碗を両手に持って苦しげな踊りを踊るといった訳の分からぬこととなって、日本語を英語に翻訳したのをフランス語に翻訳したのをスワヒリ語に翻訳したのを京都弁に翻訳したみたいなことになって、ますます本来の思いからかけ離れていくのだ。
といったようなことを熊太郎は考えたが、このことはどういう結果を招いたか。一言で言うと熊太郎に対する村人の軽蔑を招いた。
村人からみれば熊太郎はごく簡単な、あほでもできることができぬ大たわけであった。
例えばトラック競技をしているとすると、村の人はなにも考えずに走っているのだけれども、自らの思弁を現す言葉を持たぬ熊太郎は、暗黒舞踏を踊りながら走っているようなもので、その内面の事情を知らぬ人から見ればアホにしかみえなかったのである。
そして大抵の場合、他人の内面など分かるはずがないから熊太郎はアホの無能だと思われていたのである。

町田康 / 告白

本間麻衣はモノローグを仮装した対話を好むアイドルである。自己が抱く感性や視野の独自性と独立を”倒錯”として錯覚しながら展開する即興劇には、豊かな感情の風圧があり、退屈や倦怠を抱かされることはない。彼女は本当に嬉しい時に”本当”に笑うから、ファンもそれをみて本当に笑う。語彙と想像力のバランスが不安定で、思弁による問いを仲間のアイドルと共有する際の悪戦苦闘と孤独感は、『質問をしても欲しい答えが返ってこないの』と悩むパリの女学生、つまり『告白』の熊太郎のような葛藤に映る。その彼女の本当の話し相手に選ばれるのが、彼女とはすこし別の世界に暮らす、彼女のファンである。彼女の抱える問いにファンがしっかりとこたえ、アイドルの成長を目のあたりにする、その豊穣な体験は、アイドルという偶像を描いた絵画への鑑賞者的な視点ではなく、予言と見間違う文学(人間の本質を突く感性)の露出との遭遇であり、ファンは避けられない共存や共鳴が手元に舞い降りていることに気付かされる。彼女と「一緒ならハチャメチャも楽しい」、と。
センテンスのおわりに唐突に置かれる間、それが進行するドラマツルギーを自覚したために招いた躊躇ならば、語りの展開作りに意識的な人物と云え、妄信的ではあるが、演劇に対する可能性を身勝手に描かせる。つまり、彼女に対するこのような没入こそ、まさしく情動の支配であり、彼女を眺める人間は、批評空間における時代の虜に陥り、判断力に眩暈する。情動の魔法が解け、覚醒が不意に訪れ、彼女の”純朴”を再認知すると、これまでに読み、描いた偶像の堆積が崩れ、振り出しに戻って落胆するが、すぐにまた幻想を再構築したくなる欲求への希求力を本間麻衣というアイドルは発揮するのだから、おもしろい。おそらく、このループ、”寝ても覚めても”こそ、本来の”Lush Life”=”緑豊かな物語”(ノスタルジア)なのだ。

平成の終わり、令和の始まり。現在(いま)改めてグループを見渡すが、胎動(資質)の観点で”本間麻衣”を凌ぐ人物を見出すことはできない。それが果たして幸運な出来事なのかどうか、逡巡するが、本間麻衣は、AKB48の救世主や切り札といった特効薬的な英雄ではなく、グループの通史そのものを次の時代に移行させる、「NEW GAME」の開始を告げる革命の本命と云えるだろう。

 

総合評価 70点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 15点 ライブ表現 9点

演劇表現 13点 バラエティ 17点

情動感染 16点

AKB48 活動期間 2016年~

引用:「」clammbon / Lush Life!

2020/02/07  再評価・加筆しました

評価点数の見方