今までに見たこともない、新しいアイドルとは、

座談会

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「アイドルの可能性を考える 第七十回」

メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:写真家・カメラマン。

新しいとは、どういう事態なのか。文藝にとって、今日ほどこの問いが、深刻なスリルを帯びた時はない。新しい人たちよ、この愉楽に満ちた使命をまっとうして欲しい。新しさそのものを否定する形においてさえも。

福田和也/新潮社

「青葉坂46に新しいアイドルを期待する」

楠木:最近、片田陽依という女優を知って、その人の動画をずっと眺めているんだけど、昆虫好きってことで、「収斂進化」とかね、そういう言葉がポンポン出てきて、まあ驚かされる。養老孟司と対談なんかもしていて。ナードの魅力がよく出ていると思うんだよね。図鑑を読んで育ったのか、言葉が精悍です。青葉坂ですか、今度の合同オーディションで片田陽依みたいな人が入ってきたらわくわくするんだけどね。理想が高すぎるかな。
横森:グループアイドルは収斂進化を求められるから、その過程で凡庸な子は個性を失っちゃうんだろうな。
楠木:乃木坂の5期を眺めていると、デビュー初期がいちばん良い。今は個性がどんどん弱くなっていって、収斂進化という意味では失敗している。池田瑛紗が唯一の例外だと思うけれど、でもそれが耽美で叶えられているという点が、僕はちょっと受け入れられない。このオーディション告知動画に出演しているアイドルは、現行のシーンを代表するメンバーということになるんでしょう。そういう場でありながら演技がひどく不得手な人物が平気でいるというのが、僕は希望的だと思う。歌が上手かったり、ダンスが上手かったり、演技が上手かったりするだけじゃここには立てねーぞって、伝わってくる(笑)。
横森:若手はチャンスだよ。今の乃木坂って遠藤さくらと賀喜遥香でなんとか成り立っているようなもんでしょ。そこに替わるのが次の新人ってことになるんじゃないのかな。日向坂なんか希望しちゃだめだよ。正源司陽子と大野愛実の全盛期とぶつかるから(笑)。
島:そういう高いハードルがあったほうが良い人材が集まるんじゃないんですか。
楠木:正源司陽子や大野愛実みたいな次元になると、それこそ文学で言う「新しさ」というのがなきゃ相手にならないと思います。たとえば、僕はこれはもう何回も言っていますが、批評の批評ばかりしている人間は物書きとしては才能がなくて食えないんだよね。起こったことを考えるだけでは文学にならない。起るであろうことを考える、これも文学に届かない。大衆に起こるであろうことを自分の身に起こし考えることが文学の姿勢だから。アイドルだってこれは同じですよ。大野愛実は音楽で「恋」を考えさせます。このアイドルは、誰にだってある恋を、自分の身をとおして音楽に表現しています。「恋」をあらためて考えるなかで、僕は最近、スタンダールの『恋愛論』を読み返してみたのだけれど、恋を語り、表現するうえで重要なのは「自失」だと思います。恋において自分がどう自失したのか。大野愛実はもうそれを独自に音楽のなかで表現できているんですね。正源司陽子の場合は、この「自失」というのがひとつアイドルのモチーフにもなっているかと思います。
横森:大野愛実は恋愛ってジャンルで「アイドル」の幻想を壊すどころか深めているから大したもんだよ。
島:アイドルなのに恋愛を正面から多角的に歌えないっていうのも変な話ですけどね。
楠木:多角的であることと制限があってバランスを考えることはまったく別ですよ(笑)。文学小説でセックスを書くのとポルノでセックスを書くのとじゃ全然ちがうので。恋を描く際に下品になってしまうんじゃ、三流です。
横森:恋愛は、それをしている最中は綺麗ではない。でも、あとになって振り返ってみれば、どんな結末の恋愛だろうが綺麗になる。とは言っても、そういうのはもうありきたりで、語り尽くされてる。そもそも今の若い子は自分のセックスを映像に記録したりしているんで、だから永遠に綺麗になりえない。ずっとリアルで、汚れたまま。そういう部分に俺は新しさがあると思う。
島:芸能人のハメ撮り流出騒ぎなんて新しくもなんともないですよ。
楠木:綿矢りさの『夢を与える』が2000年初期だったはずだけど、その当時に読んでも僕は、ずいぶんと射程の短いことを書くなあ、と思いましたから。こんなものすぐに古びる事象だと思ったわけです。でも結局、令和になっても、おなじようなことが芸能界で絶えず起きているようなので、文学としては射程があった。
島:「新しさ」を考えると、評価する側が既存の作品に対して用いてきた言葉を繰り返し使って評価している問題も無視できません。新しいアイドルがいるとすれば、それは既存の言葉では評価できない存在になるはずです。
横森:だからそれが恋や青春の傷にあたるんじゃないかと話しているんだ(笑)。
楠木:舞城王太郎が三島由紀夫賞を受賞した際に、審査員の宮本輝は島田雅彦や福田和也に「本当にこれが良いと思っているの?」というようなことを言ったらしいんですね。福田和也からすれば、そうした反応こそが「新しさ」の証明だったんだと思います。次の世代を担った小説家や批評家が三島由紀夫賞を破壊したわけです。
横森:『阿修羅ガール』はジャンルの越境なんかが新しいわけじゃなくて、個別性の破壊が個別性をあたえているって点に新しさがあったんだろうね。
島:小説内で起っていることは新しくないですよね。でもああいうのを書けてしまうというあられもなさですか、そういうのが新しかったんでしょう。
楠木:小説を書くことが、ある種のロールプレイになっているんですね。ロールプレイだから倫理観に縛られないと言うと、実はそうでもなくて、人間はロールプレイの最中でも倫理観を優先して行動を選択します。それは現実が忘れられないからです。しかし『阿修羅ガール』は、たとえばチャットAIのように倫理観がまるでない。そういう意味でも新しい。
島:AIで起ることって、もう『アルジャーノンに花束を』に凝縮されて描かれているんですよね。他のSF作品でもいくらでも探せばありそうですが。とにかく人間が想像できたことしか今のところは起きていない。だから僕はAIには新しさを感じません。AIの登場で社会は新たな様相を呈していますが、AI自体は新しくない。であれば、新しさといっても、影響という点で別にあるんじゃないかと思うんです。
横森:実は、AIを支配しているのは人間の思考なんだよな。
楠木:倫理的な逸脱が人間の言語パターンを抜け出せるかという点では、言ってしまえばゲーテからどうやって抜け出すかという問いになるはずです。演技、演劇のジャンルにおいてゲーテ以後にその枠組みから抜け出せた作品は一つもありません。演技、演劇ですから、もちろんそこにはドラマや映画も含まれます。ミュージックビデオだってそうですね。現在、これらは語り手の世界を提示する場所でしかありませんが、純文学においては語り手=人称の不在というのを、たとえば古井由吉がこれいじょうはないという場所まで突き詰めてやっている。AIにもこうした語りの不在を期待できるんじゃないかと僕は考えたんだけど、どうもAIは人間の1歩2歩後ろを歩くような存在になりつつある。でも、いま自分が当たり前にやっていることは、誰かが考えて作り出した枠でしかないということを自覚すること、またそれに抗おうとすることは、新しさへの一歩になるのは間違いないはずです。
横森:新しさ、新しさって連呼してもさ、しかし漠然としているわけじゃん。結局のところそれはどうやって手にするんだって誰もが苛立つと思うんだよね。
島:それは自分で考えなきゃ始まらない。
横森:逃げずに言えば俺は「個性」だと思うけどね。個別性が新しさになるんだと思う。
島:個性って、考えれば考えるほどあり得ないものですからね。
楠木:個性を考える上では、立場がふたつに分かれるはずです。たとえば容姿がわかりやすいですが、視覚情報としてそこに個別性を見出すのは容易ですよね。10人のアイドルを並べて見れば、全員が全員、違って見える。しかしあきらかに別人であるのに、それを言葉にして区別しようとすると、10人100人とやっていくと、言語表現における制限、パターンを乗り越えることが出来ず、区別が不可能になる。可憐な人は可憐と書くしかないからね。もっとわかりやすく言えば、悟性が使えるはずです。たとえば10人のアイドルにそれぞれ手書きで三角形を描かせてみる。当然、できあがった10個の三角形は一つとして同一のものはないはずです。つまり個別性がある。しかし、その三角形を他の人間に見せた際には、皆が口を揃えて「これは三角形だ」と答えるはずです。この、個性を語れないという事態からどう抜け出すのかを考えたのが保坂和志の『季節の記憶』なのですが、匂いだったり、虫の鳴き声だったり、ふとした瞬間に過去を思い出すことがある。あの瞬間を保坂和志は人が言語から抜け出る瞬間だと言う。その瞬間に、人それぞれの個性があるんじゃないかという可能性を提示している。その個性というのを自分なりにつかめていれば、それは「新しさ」ということになり得るんじゃないか。

2026/08/21 楠木かなえ