『イチャイチャ虫』VS『クリフハンガー』

一人座談会, 日向坂46(けやき坂46), 楽曲, 櫻坂46

(C)The growing up train ミュージックビデオ

「アイドルソング ランキング前哨戦? 」

この時期になると、「アイドルの値打ち」で毎年つくっている楽曲ランキングのことをぼそぼそと独り言をいいながら、考えはじめる。今年は、現時点では、豊作とは言えないかもしれませんが、7位くらい上からは、甲乙つけがたいタイトルが並んでいる。もちろん事前にどれだけ考えても、実際に書き終わるまで順位はわからない。これはこれまでの経験からあきらかです。これまでに最も悩んだのは、覚えている範囲では、乃木坂46の『ネーブルオレンジ』を1位にするかどうかで、かなり迷った記憶がある。理由はもう覚えていないし、覚えていても、書くつもりもない。ランキングを冠した記事では、基本的にはあとがきを書いてこなかった。書いても、消してきた。ただでさえランキング形式の記事を作ることに抵抗があるのに、あとがきで記事の内容を言い訳するようなことをしたくないという思いがあるからです。僕は一貫して、自分自身の文章を作品だと思っているし、作品であればそれは読者にたいして作者である「私」が説明するようなことはあってはならないというのが、信念と言ったら大げさですが、まあ芸術の分野での当たり前の前提・ルールみたいなものとしてある。だから作品をつくるまえに、ここで一度、あらかじめ悩んでおこうと考えたわけです。だから今、この文章は一筆書きで書いている。しかし一筆書きだと、どうして言葉はこうも薄っぺらくなってしまうのか!しかしそれもまた、生の感情だ。
いま現在、もっとも悩んでいるのは、櫻坂の『The growing up train』を1位にすべきかどうかという点。この曲は不思議な曲だ。曲は素晴らしい。若者の季節感にあふれている。でも、ミュージックビデオがどうもあやしい。あきらかに制作過程でなにか意図しないトラブルが起きたような、音と映像の歩調において看過できない事態が起きている、ように見える。あるいは、「ように見せている」のか、などと言ったら、それは典型的なアートの魔法で、あるいは、池田一真への信頼なのか、つまり「あえてそう見せているのかもしれない」と思わせるところに作り手の腕前があるようにも感じるが。いずれにしても、ミュージックビデオに問題がなかったら悩むことなく1位にできたのにな、とずっと思っている。では、いちど楽曲だけを純粋に評価してみようと、音楽プレイヤーをポケットに忍ばせて街に出てみた。それっぽく交差点に立ってみたり、デパートのエスカレーターに乗ってみたり、帰宅する頃には『The growing up train』は音楽単体でみてもそれほどではない、という思いになっていた。しかしあらためてミュージックビデオと共にそれを鑑賞すると、やはりこれは1位にすべきだと思った。ということはこの作品はミュージックビデオが素晴らしいのだろうか。いや、とてもそうは思えない。そこまで悪いデキだとは思わないが、もっと素晴らしい映像はほかにいくらでもある。しかし、特に後半部分の、アイドルが順々に映し出されるシーンは、構図そのものは特にめずらしいわけでもないのに、僕を強く引きつけるものがある。どうもこのシーンは、言葉にできないわけではないが、言葉にしようとすると膨大な数の言葉を用意しなければならないような、そんなシーンであるように思う。映像と、音楽が、内容、リズムにおいて一致する必要はないはずだが、この楽曲のこのシーンもまた、一致していないはずだが、そうした事由を越えて、アイドルと音楽が一致しているように見えるのです。いま、「です」と急に敬語になったが、この独白と敬語を織り交ぜる文体は、批評、座談会の書き起こし、脚本を横断した末に手に入れた文体でもある。話がそれてしまったが、『The growing up train』の見どころとも言えるこのトレインなシーンは、アイドルが、それぞれ演技して音楽のいち部分を担い、表現するも、どうも調子外れにも見える。見えるが、アイドル個々の魅力を、個々のアイデア、個々の仕草をもって説明できているようにも感じる。櫻坂のアイドルを知れば知るほど、このシーンもまた内容の濃い、密度の高いものになっていく。しかし……。
これが、『The growing up train』に触れて以来、悩んでいる点です。


(C)イチャイチャ虫 ミュージックビデオ

「ディケンズとトーマス・マン」

次の悩みは、比較的あたらしい悩みになる。
『クリフハンガー』のミュージックビデオを初めて眺めたとき、今年もまた、アイドルシーンは大野愛実の年になると確信した。ビジュアル、音楽、パフォーマンス、すべてが最高の水準で一致されている。しかし正源司陽子の『イチャイチャ虫』を知ってしまった今となっては、その確信はかなり揺らいでいる。
あきらかに、これは断言しても良いが、『イチャイチャ虫』は、作り手が正源司陽子に想いを巡らして作っている。もちろん、考えるという点では『クリフハンガー』における大野愛実も変わらない。どちらも、そのセンターにしか表現できない作品をつくっている、という意味で、考えている。『クリフハンガー』は、大野愛実のダンスをどう活かすか、どう魅せるかという点において最も強く大野愛実を考えている。一方の『イチャイチャ虫』は、正源司陽子が恋愛をしたらどうなるのか、という作り手のきわめて個人的な想像、思惑から創作を始めている。
『クリフハンガー』の弱点は、いや、僕自身は弱点だとは思わないから、あるいは弱点として挙げられる可能性がある部分は、と言ったほうが良いかもしれないが、それは『クリフハンガー』における大野愛実には性格がないという点になるんじゃないか。ここで唐突にも文学の例を持ち出そうと思うが、たとえばトーマス・マンの『魔の山』の主人公であるハンス・カストルプには性格がありません。『魔の山』は、長編小説として文学史でも最高の密度をもった作品ですが、主人公に性格がありません。もちろん、物語の中でハンス・カストルプはどういう生い立ちで、どういう思想の持ち主であるのか、どう凡庸なのか、性格についても随所で語られていますが、じゃあどういう青年なのかと言われると、記述的な性格が説明できない。『魔の山』はいわゆる教養小説の金字塔とも言うべき作品です。教養小説というのは、日本語にすれば、成長を描いた物語、ということになる。でも僕には、正直、これは成長の物語には思えない。僕が思う成長の物語は、ディケンズの小説群にあるような社会において生きることの困難に立ち向かう物語であって、精神的な、内面の世界に閉じこもって成熟しようとする『魔の山』は、あくまでも作者の思索における小説設定、実験の場にとどまっているように見える。ディケンズの主人公は、生まれながらに「業」を負っているが、『魔の山』のハンス・カストルプは精神の集中した世界という設定のなかで、思索、思弁によって、行動ではなく、考えるということで、1ページずつ、その性格が埋められている。つまり、性格があるようで、その実、中身はからっぽなように感じる。もとから何も持っていないのだ。『クリフハンガー』にも似たような印象を受ける。端的に言えば、まだまだ大野愛実について、叙述が足りない。足りないと言うよりも、ひとつも書かれていない、と言ったほうが正しいか。この点で、大野愛実は純粋な表現の道に、現在のところは、立っているように見える。純粋な表現の道というのは要するに、道徳的倫理的な問題にすら囚われない道ということになる。この点で、大野愛実はグループの既存のイロを音楽の作風をもって大きく変え得る可能性を有している。
一方の正源司陽子は、これはひと目でわかるように、ディケンズの小説の主人公のように道徳的倫理的であるというところから逸脱できないという性格を魅力としたアイドルです。これはある種、アイドルという制約にかけられた魔法とも言えるが、『イチャイチャ虫』においてもこの魔法は音楽を包み込んでいる。イチャイチャがテーマと言っても、まさかそこで恋人役の男性を登場させるわけにもいかず、その代替として巨大なハートをぬいぐるみのように持ち歩くというシチュエーションをアイデアとして作っている。このアイデアをもたらす点にこそアイドルの影響力、存在感みたいなものがあるはずですが、こうした、制約のなかでどう作品をつくるのか、考えることが、アートにつながるという側面も、確かにあるのです。つまり、作品をある種、傾向的なものにせず、普遍的なものにしている。普遍的であるだけに『イチャイチャ虫』のミュージックビデオは、眺め方によっては、ファンにとって刺激の強い映像となるかもしれません。まずもって、これは作詞家、映像作家の想像力と、アイドル本人の演技力、表現力の高さによった結果であるのは間違いないが、『イチャイチャ虫』のミュージックビデオの世界に広がる光景は、まるで正源司陽子の日常風景、それも恋愛風景そのものに見えるからです。
ここでひとつ、ファンの心の内における評価が大きく分かれるはず。アイドルというコンテンツに心の平安、静寂を求めているファンにしてみれば、アイドルが恋愛をしている風景なんて見たくはないと思うんじゃないか。つまりアイドルに表現の才能があるばかりに、一方のファンにとっては、望まない作品をつくってしまうという事態が起きている。恋を正面から考えることができないアイドルヲタクにアイドルが試練を与えている。僕に言わせれば、恋愛というのはどうしたって人生から切り離せないものですから、選択の余地もない、本能のもので、しかし本能だけじゃ済まされない、考えてやらなきゃならないもので、だから人を成長させる、人生のかけがえのない要素であるから、エンタメや芸術の分野でテーマにされるのは当たり前で、アイドルなんかは特に青春のエキスパートですから、恋というのは外せないし、それを上手に表現してしまえるのなら、それは優れた作品と呼ぶべきです。『クリフハンガー』と『イチャイチャ虫』の決定的な違いはここにある。『クリフハンガー』は、これは『ジャーマンアイリス』とも言えるけれど、失った恋を想うということなので、それを自分に引きつけるなら、打ちひしがれるだろうし、引きつける要素がないなら、無関心でいられる。ただ大野愛実の横顔の美しさに浸っていればいい。けれど『イチャイチャ虫』の場合は、眼前にアイドルのリアルな恋の日常が差し出されていますから、無視できません。そういう意味で僕はこの作品はクリティカルだと思う。文学性があると思う。だって、いま現在に恋人とイチャイチャしている人に向けてこれを歌う意味はないですからね。これを歌う意味、歌に対して「意味」なんて言ったら怒られそうですが、『イチャイチャ虫』を表現したのはなぜかと考えれば、それは恋の甘さとか、恋の魅力とかを伝えたい、恋とはこれだけ人の表情を変えるんだよということを、作品に託しているんじゃないかと思うわけです。
『ジャーマンアイリス』『クリフハンガー』は初恋の傷みをその胸に落とす。それは絶望に近い極限の甘みだ。『イチャイチャ虫』は、正源司陽子という甘やかな存在を通して、人が恋からは決して逃れられないことを突きつける。どちらも文学性に豊かな虚構の美を示しているから、僕の悩みはより一層、深まっていく。

2026/09/09 楠木かなえ