乃木坂46の『心にもないこと』を聴いた感想
「センターは、池田瑛紗」
先日開催された『乃木坂46 11th YEAR BIRTHDAY LIVE』DAY2公演にて、あたらしい5期生楽曲が披露された。タイトルは、心にもないこと。センターに選ばれたのは、池田瑛紗。
素敵な曲だなと思った。アイドルのパフォーマンスも良かった。センターに立った池田瑛紗は、きっと、ものすごく緊張していたはずだが、笑顔が晴れやかで、ダンスも伸び伸びとしていて、アイドルがきらきらして見えた。小川彩も良かった。笑顔、踊りどちらも大胆だけれど、それがナチュラルに見えるから不思議だ。
中西アルノも良かった。この人はどのシーンでも気を抜いていないように見える。高い緊張感、高い精神性のなかで歌い踊っているのだろう。澄んでいる。その横では奥田いろはが踊っていたり、井上和がいたり…、同時期にこれだけ個々に注目してしまえる、関心を抱けてしまえるのは乃木坂の5期だけだとおもう。
もうこれはずっと前から感じていることだけれど、グループアイドルの才能って、結局、センターに立った際に良い曲をもらえるかどうかに尽きるんじゃないか。良い曲をもらえるかどうかは、戦略の運とかタイミングとか秋元康の気まぐれとか、そう思いがちだけれど、本当にそうだろうか。僕にはめぐり合わせとしか思えない。
アイドルになることが運命であるならば、センターに選ばれることも、質の高い楽曲を与えられることも運命ではないか。そうした意味では池田瑛紗というアイドルはなかなかの星のもとに生まれた人物だと思う。彼女のファンにしてみれば、きっと、彼女がセンターに立ったことは、彼女の日々の努力の賜物、に違いないのだろうけれど、僕には、才能があったからただこうなった、ようにしか見えない。
と、こう書いたとき、はたして読者はどのようにこの言葉を解釈するのだろうか。アイドルのことを最大限に褒めているのか、それとも貶しているのか、どう捉えるのだろう。どう誤解するのだろう。
今作『心にもないこと』の歌詞に共感することは今の自分にはできないが、過去の僕、ならばできるはずだ。
恋愛中、本当は別れたくないけれど、別れようとする素振りをとってしまうことは、よくある。実際に、口に出すべきではない言葉を放って、愛する人をあっさり失ってしまうことはよくある。これはだれでも経験しえる、いや、だれにでも起こりえる衝動なのだろう。すごく純粋な、心の機微。
でもこうした感慨、思惟は、ある時期を過ぎると逆転する。僕の場合は、23歳くらいだったと思う。
その頃から、心にもないことを言って誤解される、なんてことは日常生活においてほとんど起こらなくなったし、仮に、心にもないことをふと口に出してしまい、誤解されても、その言葉が相手を致命的に傷つけてしまう、なんてことは一度もなかったとおもう。と云うのも、大人になってしまった人間が「心にもないこと」を言うときとは、大抵の場合、衝動的に見えてその実、打算的で、なにを言うか、ではなく、どの言葉を使うか、に意識があるから、言葉に説得力が出ないのだ。
大人になってしまった僕たちが言葉をもって不本意に人を傷つけてしまうのは、殆どの場合、心にもないことを口に出したときではなく、心にあること、つまり本音を相手にぶつけ、その本音が誤解されてしまったときだ。
また違う場合には、厄介なことに、その本音は、心にもないこと、として姿を現したりもする。
恋人と喧嘩をして、心にもないことを言い放ってしまった。帰りの道すがら、心にもないことを言ってしまったな、とか、一度口に出してしまった以上、もうこの誤解はとけないだろうな、と落ち込む。しかしほんとうにそれは「心にもないこと」なのだろうか。それはその時たしかに自分の心にあったことで、本音、ではなかったか。だからこそ取り返しがつかないのではないか。その取り返しのつかなさを前にして、本能的に自分を慰めるために、あれは心にもないことだった、と嘆いているだけではないか。
この「嘆き」は僕がある瞬間から大人になってしまったことを確信させる。秋元康はその「瞬間」を飛び越え、遡り、青春のちいさな出来事を拾い上げ、アイドルを通して投げてくる。
2023/03/06 楠木かなえ
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