日向坂46 僕なんか 評判記

日向坂46(けやき坂46), 楽曲

(C)僕なんか ジャケット写真

「僕なんか」

歌詞、楽曲について、

日向坂46の7枚目シングル。センターは小坂菜緒。
やや強引にこじつけたような、ファンサービスに見えなくもないが、前作『ってか』の世界観を引き継ごうとする、物語を語ろうとする意識が作詞家に芽生えているようにおもう。7枚目にしてようやく、日向坂46を語る「モチーフ」がつかめた、ということなのだろうか。
おもしろいのは、そのモチーフが、モチーフを持てないことをモチーフにしている、という点だろうか。よりほぐして云えば、楽曲のセンターに立つ少女の魅力をどうにかしてファンに教えようと行動することで、作詞家自身がその少女のことを知っていく、理解していくという、表現が試みられているように感じる。
うつ向いた自己否定を映すタイトルには、たしかにイメージとしての「小坂菜緒」が写実されているかに見える。僕なんか、という、小坂菜緒を強く想起させる言葉一つを道標にして、作詞家自身の過去の経験と、想像力を頼りに詩的世界、その街並みを描いていく。それが結果として小坂菜緒の横顔に重なっていくだろうと考える、表現が試みられているかに見える。
この少女にはたしかに魅力があるらしい。多くのアイドルファンを虜にするに足る魅力がそなわっているらしい。だが、どうにもその内実が見えてこない。だからいくらでも言い訳の効く詩的表現として、君は誰?、と小坂菜緒の写真集発売に際し大胆にも発したわけだが、そうした、本音を云えば、どうやったって理解できないもの、しかし認めざるを得ないもの、を前にした際の作り手の葛藤と反動は、小坂の復帰作となった今楽曲『僕なんか』にもよくあらわれているようにおもう。
眼前には、日向坂46の小坂菜緒は現在のアイドルシーンにおいてトップクラスの人気を誇っている、という揺るがない現実が置かれている。しかしその理由が今ひとつわからない。だがその「理由がわからない」という本音、あるいは、売れている理由は彼女のビジュアル一点のみにある、というありきたりな言葉をはっきりと大衆に向け発する勇気が持てない。だから、僕なんか、とつぶやきペンを走らせるしかなかった。楽曲に触れればすぐに気づくが、この歌詞には、「君」のもつ魅力、これが一切記されていない。当然それは、鑑賞者に対し想像の余地を残すような詩的表現を用いた、のではなく、作家の思惟の現れに過ぎない。
「君」に強く踏み込み、その魅力が本物なのかどうか、というところに熱意を傾けるのではなく、あくまでも「僕」の感情の内側だけで物語を完結させる。「君」の魅力を言葉にして説明したり、「君」のことを好きになった動機を物語ることができないのは、彼女に原因があるのではない、原因は「僕」にあるんだ、と立ち止まる。僕なんか、と自己否定的になる。こうした物語の作り方はいかにも”秋元康らしさ全開”といったところか。 
特筆すべきは、この、眼前に立つ少女の魅力を言葉にして表すことができない、という事態に陥ったとき、ならば「少女」ではなく「自分」を語ることで、それを少女の性格として、センターで踊るアイドルの素顔として映し出してしまえばいい、と行動している点であり、今作を眺めるに、日向坂46というグループが作詞家の懐に手繰り寄せられつつあるようだ。ならば、今後におおきな期待が持てる。

ミュージックビデオについて、

一人の少女が、現実から仮想空間へと帰還する、現実世界におけるアイドルのストーリー展開を、ミュージックビデオにおいても簡明に追っている。
序盤から中盤までは、日向坂46のエクレシア・ピューラを懐きつつも「青」のイメージから脱したように見え、好感を誘うが、中盤に入り終盤に差し掛かると前作までの、これまで通りのイメージに帰結し、落胆する。
とはいえ、アイドルの個々を眺めると、コンディションが良くないのか、化けの皮が剥がれてしまったのか、そもそもモチベーションがないのか、わからないが、ほとんどのアイドルがうつくしく撮されておらず、こちらは良くも悪くもイメージを壊している。なによりも、前作でははっきりと認められた、踊ることへの熱誠、これが失われてしまった。


歌唱メンバー:上村ひなの、佐々木久美、小坂菜緒、佐々木美玲、金村美玖、潮紗理菜、山口陽世、高瀬愛奈、影山優佳、渡邉美穂、高本彩花、宮田愛萌、森本茉莉、髙橋未来虹、濱岸ひより、東村芽依、河田陽菜、加藤史帆、齊藤京子、丹生明里、松田好花、富田鈴花

作詞:秋元康 作曲:温詞 編曲:温詞、TomoLow