櫻坂46の『I want tomorrow to come』を聴いた感想

櫻坂46

(C)I want tomorrow to come ミュージックビデオ

「I want tomorrow to come」

思索は舵を失った船の如く、辿り着く先も知れずに危うくその行方を絶とうとしていた。

平野啓一郎/日蝕

まず歌詞について。
僕が批評を書く際には、観念的な表現の数々を、論理的なものへと微調整することがよくある。文章に説得力を出すための、小手先の技術にすぎないが、そうした工夫は、アイドルシーンにあっても、ちらほら目にする。作詞家である秋元康の観念的な詩情を、映像作家が論理的に説明するようにミュージックビデオを撮るという光景を、度々目にする。たとえば伊藤衆人が、代表的な存在だろうか。秋元康の個人的な世界観に、アイドルの個性、アイドルのキャラクターを論理的に持ち込むことで、ファンにたいして説得力のある作品を仕上げる、人気作家だ。
一方で、櫻坂46の作品群は、そうした論理的な志向から完全に分断されているように見える。作詞家はもとより、映像作家も、振り付け師も、すべてが観念的な表現に一致している。作曲家がつくり上げた音楽がそうさせるのか、わからないが、とにもかくも、音楽にたいして純粋にならなければその魅力に至れないような、作品を編みつづけている。とりわけ新作の『I want tomorrow to come』はそれが顕著である。おとなになってしまった人間にはもう見えなくなってしまったものを、しかし大人にならなければ気づけないものとして、音楽にしている。
そうした意味では、たとえば日向坂46の『君はハニーデュー』と対蹠的な立場をもった楽曲だと、個人的にはつよく感じる。『君はハニーデュー』は、――正源司陽子がセンターだという点をふまえて――もし僕が詩を書くなら、こうするだろうな、というのを驚くほど理想的なかたちで叶えてくれている。アイドルをナラトロジーにするという憧憬に、見事に達している。先に制作された、正源司陽子の初センター作品である『シーラカンス』の世界観を下敷きにして歌うことで、やはり『シーラカンス』を下敷きにして正源司陽子の魅力を育んできたファンの想像を迎え撃つことに成功している。「僕のお気に入り」というワードの出現に、ガツンとやられ、楽曲を批評的に語ろうとする姿勢を崩され、ファンの立場に戻されてしまう。
『I want tomorrow to come』はまったく逆だ。音楽を前にして、余計なものを持ち込むと、途端に、梯子を外される。孤立感に襲われてわかるのは、秋元康が、詩作をとおして、あるいはアイドルをとおして、生きることの思索をすすめているという点で、つまり考えることに音楽が、アイドルが活かされているということだが、その思索が生き死にの部分に、ついにはぶつかり、舵を失った際に、そこでようやくアイドルのほんとうの価値、役目、使命のごとき光りが作詞家の眼にハッキリと映し出されるのではないか、という、希望を音楽の内に残している。

次に、ミュージックビデオにおけるアイドルの表現について。
冒頭で、なぜ平野啓一郎の『日蝕』を引用したかというと、『I want tomorrow to come』を眺めた際に、僕はまず、わけがわからないな、と思ったからだ。『日蝕』は、わけがわからない小説だ。だから僕は、わけがわからない作品に出あったとき、『日蝕』のことを思い出し、気分を持ち直すことにしている。
平野啓一郎の処女作であり芥川賞受賞作である『日蝕』は、当時、かなり話題になった、らしい。その頃、僕はまだ学生だったから、業界の騒ぎっぷりをじかに目のあたりにしたわけではない(学生の頃、僕はフランスの小説にしか興味をもてなかった)。当時の様相は、実際に本に巻かれた帯を読めば、大体のことは想像できる。帯に書かれた紹介文を読むと、「新潮」巻頭一挙掲載、三島由紀夫の再来ともいうべき神童、などと喧伝されている。しかし、「三島由紀夫」を期待して、手に取ると、落胆させられる。しかし一方ではやはり、付き合いのある作家、親しい編集者などが『日蝕』を高く評価しているのは事実で、そうした声に触れるたびに、みたび期待し『日蝕』を本棚から探し出し、みたび落胆してきた。なぜこれが騒がれたのか、習作として大目に見るとしても、理解できない。眼力がない、ということなのか。けれど、ここで今、ふと突き当たるのは、結局、何度も同じ小説を人生の時々で読み返しているという紛れもない事実である。櫻坂46の映像作品も、同じではないか。『作家の値うち』のなかで福田和也は平野啓一郎にたいして、「作品自体よりも、その意志と発意のほとんど訳のわからなさが何がしかの期待をもたせることは確かである。その訳のわからないものが、具体的な形をとって作品として現れた時に、その真価が問われるだろう。」と云っている*1。櫻坂46もおなじではないか。いや、同じだったのではないか。
さながら僕にとって、平野啓一郎の小説を手に取る原動力、きっかけに「三島由紀夫」が安直にもあるのならば、櫻坂46の場合、やはり「平手友梨奈」ということになるのだろう。『日蝕』での経験をなぞるなら、櫻坂46を眺め、落胆しつづけるべきだが、そうはならなかった。なぜなら、今作においてセンターで踊る山下瞳月は、「平手友梨奈」の提示した世界観=発意の先にあったものを、すでに、独自に示しているからだ。

センターの山下瞳月を追いかけて今作を語るなら、彼女の出世作とも言える『静寂の暴力』は、アイドルという自分ではないもうひとりの自分を立ち上がらせるための手段として、演劇的な手法、気取った言い方をすればエクリチュールとしての表現を用いることで、「アイドル」つまり「踊り」を立ち上がらせている。『自業自得』はそこからディスクール=言語表現の領域へと踏み込もうとチャレンジしているように見える。そして今作『I want tomorrow to come』において完全なるディスクールに至っている。成長するにつれて、人は、自分の内にあるものがどういうものなのか、わかるようになる。そして、それを他者に伝えたいと強く願うとき、人は、ある部分において、説明的になる。作家であればそれは当然「言葉」ということになるが、櫻坂46のメンバーにとっては、それが「踊り」であることが、宿命的なのかもしれない。言わば、言語を、踊ることで象ってきた彼女が、ここにきて踊りを言語にして見せることで、言語到達における遅速の異質な世界をつくっている、ということである。
では、その「異質さ」は具体的にどのような影響を与えるのか。それはすでに、上段の「歌詞について」ですべて述べた。そう、説明するまでもなく、アイドルの踊り、歌への評価は、まず、そのまま歌詞、楽曲への評価になる。アイドルの踊りから、歌から、僕らはまずその音楽を知る。その意味では、現在のアイドルシーンが抱えている問題、たとえば『チートデイ』や『絶対的第六感』が記憶に新しいが、パスティッシュやパロディを用いなければ作品を構成することができないという、文学に牽引されてしまった問題に櫻坂46を手掛ける作り手が直面していようといなかろうと、山下瞳月は無縁の立場を取ることが可能かもしれない。

 

2024/09/29  楠木かなえ
*1福田和也/作家の値うち