乃木坂46 理想の「選抜」を考える 43rd シングル版

「勝者の混迷」
――たとえば印象主義の眼前に、ドイツ表現主義なるものが現れたのは、世の芸術家たちがこれまでに窃視してきた世界の風景が、直視したくはない、汚れたものへと変わってしまったことの「表現」にすぎません。ドイツ表現主義そのものが、ある状態を表現している、ということです。空が、太陽が、木々や鳥たちが、ただ美しいものであれば、それにこしたことはなかったが、それらが美しくはない世界を象徴していると感じ入った瞬間、人は自己の内面を世界に結びつけて考えるようになる。――楠木かなえ(「新鋭劇作家と眺める、乃木坂の5期生」より抜粋)
乃木坂46の現状をどう捉えるべきだろうか。私には、ひどく瞳の褪せたグループだと感じる。グループ設立以来はじめて、深刻なタレント不足に陥っていると、言い換えても良い。第3世代として綺羅、星のごとく現れた5期生だが、そのほとんどが、ただ美しいだけの、数多の星の一つになってしまったことは、少なからず私を動揺させる。5期が主力になった現在の乃木坂46が凡庸であることは、音楽的な達成の有無を考えれば、一目瞭然だろう。
中西アルノを表題作のセンターに抜擢した29thシングル『Actually…』以降、実に14枚のシングルが制作されたが、その中にシーンを牽引するような、あるいは、代表するような楽曲は一つも見当たらない。確かに『ネーブルオレンジ』に関しては、5期生らしいイルマティックな感性を音楽のよすがにしていて、逸品だが、既存作品の構図の練り上げ、集大成であるという点でまったく新しくなく、画期的とは言えない。『おひとりさま天国』『チートデイ』も同様の問題を抱えている。この2作は『ガールズルール』への批評を脱しない。目新しさがあって、音楽的にも魅力があったのは『ビリヤニ』くらいだが、これは6期生の瀬戸口心月、矢田萌華の瑞々しさによるところが大きい。アイドルシーンの主流に立ったグループにしては、かなり物足りない、情けない結果だ。
かつては、橋本奈々未が卒業するとなれば『サヨナラの意味』が構想され、アイドルの卒業という話題に金字塔を打ち立てた。西野七瀬の『帰り道は遠回りしたくなる』は、自分ではないもうひとりの自分が自己の夢を支えているのだという今日的なアイドル観を音楽をもって樹立した。生田絵梨花の『最後のTight Hug』は、『サヨナラの意味』において確立されたアイドルの卒業という行き止まり、彷徨の壁を、過去の恋人の結婚という逃げ場のないイベントをもって破壊した。こうした音楽的な熱誠は、一体どこに行ってしまったのだろうか。アイドルを現代のシンデレラとして最高度に一致させた賀喜遥香の『君に叱られた』を最後に、乃木坂46は混迷の時代に入っている。
むずかしい問いではない。これはただ単に、才能のあるアイドルがいれば、それに見合う音楽が書かれ、それに見合う作品がつくられてきた、というだけにすぎないからだ。才能のある場所には、やはり飛びきりの才能が次々に集まる、ということにすぎない。現在の乃木坂に、そうした希求がどれだけあるだろうか。妍を競った時代の名残すら、もはや消えつつあるのではないだろうか。センターに選ばれたアイドルに差し出される楽曲の質が、そのアイドルとなんら関わり合いのないものだとするのは、たとえば平手友梨奈を前にすれば、まるで説得力のない声になる。なぜ平手友梨奈はあれだけの傑作を集めたのか。橋本奈々未、西野七瀬、生田絵梨花の卒業に際してなぜあれだけの名作が編まれたのか、考えれば、おのずと答えは出るだろう。作り手がアイドルのことを考える、時間の積み重ねがなければ、つまり作り手にそうさせるだけのアイドルがいなければ、傑作など生まれるはずがない。
