アイドルの可能性を考える 第十一回 好きというのはロックだぜ! 編

乃木坂46, 座談会

(C)好きというのはロックだぜ!ジャケット写真

「『表現』を考える」

メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

今回は、いつものように演劇や小説について話しているなかで、乃木坂46の新曲の話題がすこしだけ出たので、その部分の抜粋になります。

「好きというのはロックだぜ!」

島:幼稚さとわけのわからなさ=粗雑さって表裏一体なんですよ。『カラマーゾフの兄弟』とか『居酒屋』とか目も当てられないくらい粗雑ですけどそれが迫力になってる。
楠木:ゾラはまったく粗雑じゃないし幼稚でもない。
OLE:幼稚さの魅力って、まあアイドルが語りやすいよね。秋元康の歌詞は幼稚さの見本市だから。乃木坂の新曲とかすごく幼稚。
横森:幼稚だね。『君の名は希望』の改訂版だよね。『君の名は希望』は幼稚に見えないけど。
楠木:あれは散文体だから。やっぱりだらしなくダラダラと書いたほうが幼稚さは隠せるんだな。
横森:でも新曲も説明的と言うか、ダラダラとしてる。
OLE:『好きというのはロックだぜ!』は「詩」でしょ。だから幼稚になれるんだよ。まあ幼稚さの魅力はともかく、詩に私情がほとんど込められていないよな今回。最近なら『君しか勝たん』とか『君に叱られた』のほうが私情がよく出てる。『好きというのはロックだぜ!』はアイドルとファンの出会いを書いているだけで伸展がない。記念作品ってことで「希望」がモチーフなんだろうけど、なら『他人のそら似』のほうがよく書けてる。
楠木:『君の名は希望』と比べると作詞家が興奮しているように見えますよ。「アイドル」の有り様への理解に達した興奮というか。イントロから歌い出しまでで、希望の数の多さ、みたいなものが表現されているようにも感じる。『君の名は希望』当時と比較すると今はもうアイドルの個々がしっかりと個性を打ち出していますから、そうしたなかで「希望」の発見を書くとなると、こういうイメージになるんじゃないかな。

「川﨑桜の魅力・可能性」

横森:『君の名は希望』の改訂版だから5期生をセンターに選んだほうが絶対に良かったって言うつもりだったんだけど。話が変わってきたな。たしかに『君の名は希望』に陽気さを足したような雰囲気がある。
OLE:だとすると伸展させている、ってことになるね。

楠木:いや、『君の名は希望』の語り直しとして、アイドルとファンの出会いを恋愛の活力のモチーフとして歌っているのだとしたら、5期生をセンターに置くべきだとおもう。川﨑桜とかね。5期生がセンターなら、「僕」をアイドルだと捉えることができるし、ファンの一人称にすることもできる。「希望」との出会いの物語がもう一度立ち現れる。
横森:川﨑桜を推しているよね、随分(笑)。
楠木:アイドル観なんて言ったら大げさだけど、あたらしいよね、佇まいが。高級というか、外国の古い小説に出てくる「公爵」のような雰囲気がある。もちろん身分の高さがどうだとか、そういうことを言っているのではなくて、境遇によって育まれる高慢さというか無自覚さというか。なにかの小説だったか、映画だったか、没落した貴族の娘が農民の恋人と駆け落ちするのを主人公が手助けする場面があるんだけど、その貴族の娘は暴徒から守ってくれた命の恩人である主人公に最後の別れの場面でも当たり前のように高慢に振る舞う。列車の切符を買わせたり、最後の最後まで雑用に走らせる。もちろん本人に悪気はないし、主人公のことをこころの底から頼りにしている。そうした高慢さ無自覚さがそのひとに高潔さを宿らせているんだね。アイドルを推すことで、”彼女”を夢の舞台に押し上げる、という意味での献身とは別の、逃れられない献身があるような、そんなアイドル、今まで見たことない。
横森:遠藤さくら」はモジモジしてて放っておけない系アイドルだけど、「川﨑桜」は真逆というか、従わざるを得ない系アイドルなら、対比としてはおもしろいね。

OLE:「夏」って恋との出会い、恋のはじまり、だからね。その意味じゃ5期生をセンターにするのは楽曲のイメージに合っているかもね。

「『表現』を考える」

島:一つの季節の中でのみ発生する限定的な感情というか、そういうものをしっかりと忘れずに記しますよね、秋元康って。人として絶対に変わらないビビットな部分をしっかりと起こし書いているというか。精神が若々しいですよ。
楠木:勝たん、という若者言葉、ネットスラングですか、そういうのを目にして、自身の生活尺度では計れない、離れた世界の言葉・思考、無縁の出来事だとは捉えずに、自分にとっての「勝たん」とはなにか、青春の回想をはじめてしまえる好奇心の強さが詩情を瑞々しくしているんでしょう。ここに作詞家としての才能があるんじゃないかな。ただ、もし『好きというのはロックだぜ!』のセンターが5期生だったら、という可能性を一度でも見出してしまうと、この楽曲って表現に瑞々しさがないようにも感じますね。
OLE:ファンの「表現」を頼りにしてるよね。さすがと言うべきか、怠慢と言うべきか。
楠木:なるほど、それはしっくりきますね。「表現」というのは、表現する側と、それを眺め表現する側、がいること、そしてその両者による表現はまったくの別物であることをあらためて理解しないといけない。ブッキッシュになってしまうけれど、表現、これはそこに示されている瞬間にだけ在るもの、です。『小説の自由』において保坂和志はこれを「現前性」と書き、たとえば、音楽が奏でられた時、その音楽がなにを表現しているのか、と考えるのは誤りであり、それ自体がすでに表現なのだ、と言っている。では小説はどうなのか、という問いには、小説も同じなんだ、と書いている。小説もそれを読んでいる時間のなかでだけ、作家による表現に触れることができ、音楽や絵画がそうであるように、小説もまた言葉では伝えることができないのだ、と。であれば、当然、そうした現前性=表現から離れた時間・場所で書かれる批評というのは、対象の小説とはまったく別の表現=作品ということになる。たとえば、ある小説のなかで、コンビニの雑誌コーナーの前で携帯電話の画面をジッと見つめている女性がいる、という描写があるとする。小説が書かれ発表されたのは2000年初期、とする。であれば、発売当日にその小説を手にした読者は、この女性はおそらくメールを打っているのだろう、と読むだろうし、書き手の表現も同じであるはずです。しかしスマートフォンが普及した現在、その小説を手に取った人間がその描写に触れたらどう感じるでしょうか。小説の内に明確な時代設定が置かれていれば話は別だけれどそうではないとすれば、携帯を見ている、という描写に触れた読者の解釈は「メール」だけではないはずです。ユーチューブかもしれないし、SNSかもしれない。この解釈を元に物語を自己の内で編み上げていく読者の行為もまた「表現」にほかならない。つまり小説を書いた当初の作家の表現と、読者の表現とはまったく別物になった、別物であるということがわかります。批評はフィクションである、とこれまでに繰り返し唱えてきたけれど、これはその主張に通じる話題でもありますね。『好きというのはロックだぜ!』に話を戻すと、これはおそらく『君の名は希望』の再表現ですから、作品体験の余地、楽曲=表現に触れたファンの個々の解釈つまりファンによる表現のほうがその幅はおおきくなるのではないか。
OLE:そう考えるとなかなか危ういよね。小説家が書いた作品と、読者それぞれによる批評はまったくの別物だというのは疑問を挟む余地はないんだけど、作品に対して抱いた評価を自己表現していくうちに、その「表現」が作品そのものへの評価だと錯覚してしまう読者は意外と多い。
横森:結局、良いと思ったのか、ダメだと思ったのか、でしょ。
島:文章って、一度書かれたらどれだけ書き直しても元々あったイメージを変えることはできませんからね。表現の方法には選択肢があるけれど、それを表現しようと思い立った動機までは変えられない。これも『小説の自由』に書かれていませんでしたか。
OLE:それはそうだけど、その「まずどう感じたか」をスポイルできるのが自己表現なんだよ。聴いてみてまず良いと思ったのに、それを表現してみると「ダメ」になった。だから楽曲への評価も「ダメ」にすり替わってしまう。そういう人は多い。
島:書きながら考えるというのはそういうことでしょう?
OLE:まあね。
楠木:良いと思ったから「良い」と書く。悪いと思ったから「悪い」と書く。これができる書き手は実は少ないんですね。これはアイドルも同じです。作詞家・秋元康から差し出された楽曲に触れ、まず自分がどうおもったのか、それを表現できるひとはほとんどいない。齊藤京子が歌った『僕なんか』が良い例ですね。あれは他者の「表現」を借りて表現しているだけです。楽曲に対してまず自分がどう思ったのか、どう感じたのか、を表現するのではなくて、この楽曲はこれこれこういうメッセージ性を含んでいるから、と、自分なりに考え表現しているだけなんですね。だからものすごくつまらない。
OLE:「表現」が目的になっているって言うと紋切り型にすぎるけど、表現行為を高尚なものだと考えているんだろうな。
横森:「表現」なんて誰にでもできることだからね。それこそ、カメラのシャッターを押せば、それはもう誰にとっても「表現」なんだ。
楠木:小説を書いたり、作曲したり、歌ったり踊ったり、それがどれだけ幼稚で粗雑であっても、それは「表現」だからね。だから、表現行為に酔っている人間を見ると、誰にでもできるものをさもむずかしいことをやっているように見せかけていて、滑稽に思うわけです。
島:それは「演技」も同じですよね。むしろ演技のほうが顕著だとおもう。
OLE:まあ文章も演技だけどね。

「中西アルノのブログを読んでみる」

横森:中西アルノの文章はどう?物書きから見て。俺、理由はわからないけど、彼女のブログ、読めるんだよな。アイドルのブログって正直つまらないから普段あまり読まないんだけど、彼女のは読める。
楠木:贔屓の引き倒しになるけど、「気分」があるよね、文章の内に。甘美だよね。文章というのは他人に読まれることを前提として書かれた言葉を指すのであって、ただの日記は文章とは呼ばない。このブログを読むに、「文章」がしっかり書かれているね。意識して言葉を編んでいるんでしょうきっと。編む、これをほぐして云えば、自分のこころの内にある感情に触れて、それを自分が好むかたちにかえて他者に伝えようとする、表現のことだね。なら、表現力がある、と云えるんじゃないかな。
島:描写が上手いんですねきっと。
OLE:普通、描写になるはずの箇所が「文章」での感情表現になっているんだな。だから読めるし、読もうと思えるんだろう。
楠木:そう考えると言葉の使い方、思惟のあらわし方が齋藤飛鳥に近いのかも知れないですね。どちらもナルシストに見えるし。
島:これまでに読んだアイドルのブログで一番文章が上手いとおもったアイドルは誰ですか?

楠木:小林由依かな。アイドルとして経験したことを水増しせずに書くことができれば小説家になれますよ、彼女。でも今回のテーマと合致させて評価すると守屋茜のブログが一番魅力的に映りますね。粗雑・幼稚ではあるんだけど、なにを言いたいのか、なにを言おうと試みているのか、それがはっきりとわかる。とにかく自分が伝えたいことを勢いで書いているな、と。めちゃくちゃなんだけど、言いたいことは十分わかるから、それが逆に衝動性のある文章に見えてきて、生き生きと感じる。彼女もまた感情を編み上げているんですね。つまり表現力がある。アイドルの表現力を問う際には、この「編む」というのは特筆にあたるはず。それはきっとステージの上でも変わらない。音楽のなかで自己を表現すると同時に、音楽を表現するために自己が準備されているという「自覚」に立てているのかどうか、この点にいずれも帰結するんじゃないかな。
OLE:帰結、と言うなら、この話題って要するにさ、アイドルの素晴らしさ幼稚さ未熟さを説明できないからといってそのアイドルが平凡であるとは限らないという、まあこれもまたあらためて説明するまでもない事柄ではあるんだけど、そこに着地する話題だよな。
楠木:表現力とか才能とかオーラって言葉を曖昧な褒め方だと言って笑うファンが多いけど、アイドルを眺める鑑賞者が観念的であることと観念的に立つアイドルに直接関連性がない以上、そうした揶揄は勘違いにすぎない。魅力を説明できないからといってそのアイドルが平凡であるとは限らないから。

2022/07/29  楠木

 

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