長濱ねる × マキャヴェッリ

「嘘かもしれない真実」
長濱ねるという少女が、アイドルに求められる輝きのほぼすべてを満たす、トップクラスの実力者であり、作り手、同業者、ファンの心を同時に鷲掴みにする魅力を備えた稀有な人物であろうことは、すでに述べた。
まず、地頭が良い。語彙力が豊富であり、文章が上手い。とりわけ描写にスマートで、障害物を置かない。ビジュアルも文句なしの一級品。ひと目見て、売れる、と分かる。映像世界で作る演劇だけでなく、バラエティショーでの一挙手一投足にも、不快感を観者に投げつけることはせず、清涼な雰囲気を放つ。まるで洗練された都会の街路樹を見上げながら散歩しているような心地に浸らせる、なんともエリート感の漂う、アベニューなアイドルを描いている。しかもそれでいて曇り空の海岸で赤い傘をパッと広げさす、翳りもある。坂道シリーズの発足以降に誕生したアイドルの中では間違いなく最高の”逸材感”の持ち主と云えるだろう。
ゆえに、この少女は、眠れる美女として、保存しておくことを許されなかった。長濱ねるから発散される”全能感”は、たとえばSKE48の高井つき奈がそうであったように、作り手を、情動で揺さぶり、王道のサクセスストーリー誕生の予感に興奮するという、冷静さを欠いた、憧憬に満ち溢れた情況に追い込んだ。下部組織とはいえ、一人の少女のためだけに、もう一つ別のグループを用意してしまう……、これはやはり、常軌を逸している。
作り手が冷静でないのならば、当然、アイドルの物語もその思惟に揺さぶられてしまう。けやき坂46のオープニングメンバーでありながら、その独立に立ち会うことなく、欅坂46の正規メンバーへと籍を移す。平手友梨奈擁する欅坂46にあっては長濱ねるの生まれ持った美質、アイドルの性(さが)を十分に発揮することはむずかしいと、素人目にもわかるが、その平手と上手に決別できる機会を、逃してしまった。結果、長濱ねるは、アイドルの扉をひらく際も、その幕を閉じるときも、常に独りであった。あるいはそれは、ただ単に、アイドルが抱く理想と、作り手の理想に、大きな食い違い、隔たりが生じてしまったことの結実なのかもしれないが。いずれにせよ、最高の逸材感の持ち主でありながら、表題作のセンターには一度も立っていない。
”ひらがなけやき”から”漢字欅”への移動、1.5期=闖入者としてのネガティブなイメージを、欅坂46を飛翔させる宿命的役割へとすり替える潔白な立ち回りを見てわかるとおり、ドラマツルギーに秀でた人物であり、序列闘争に際し、情報に囲繞され、格下のメンバーに敗れるなど、醜態をさらしはしたが、デビューから卒業まで、一貫し、アイドルとしての魅力は色褪せなかった。転じて、アイドルとして生を受けた場所が、乃木坂であっても、AKBであっても、まず間違いなくセンターに立ち活躍したであろう少女が、よりにもよって平手友梨奈とおなじグループに加入してしまった皮肉に長濱ねるの、欅坂46の、おもしろさがあると云えるかもしれない。
とはいえ、こうした感慨を経ても、どこか素直に手放しで称賛することができない、という思いもある。このアイドルには、見過ごすことのできない「エゴとプライドの匂い」がある。
青木は勉強のよくできる男でした。大抵は一番の成績を取っていました。僕の通っていたのは男子ばかりの私立校だったんですが、彼はなかなか人気のある生徒でした。クラスでも一目置かれていたし、教師にも可愛がられていました。成績は良いけど決して偉ぶらず、さばけていて、気楽に冗談なんかも言うって感じです。それでちょっと正義漢みたいなところもあって…。でも僕はその背後にほの見える要領の良さと、本能的な計算高さのようなものが鼻について、最初から我慢できなかったんです。具体的にどういうことかと言われても困ります。具体的な例のあげようがないわけですから。ただ僕にはそれがわかったんだとしか、言いようがありません。僕はその男が体から発散するエゴとプライドの匂いが、もう本能的に我慢できませんでした。誰かの体臭が生理的に我慢出来ないのと同じことです。青木は頭のいい男でしたから、そういう匂いをたくみに消し去っていました。だから多くの級友は彼のことをなかなか良いやつじゃないかという風に考えていました。僕はそういう意見を耳にするたびに(もちろん余計なことは何も言いませんでしたが)なんだかすごく不快な気分になったものでした。
村上春樹 / 沈黙
田舎での未来を窮屈に感じ、親の反対に逆らい上京、そしてスターになる。陳腐ではあるが、大衆をとりこにする王道の物語・エピソードである。例えばレイモンド・カーヴァーや、ブルース・スプリングスティーンに代表される、アメリカの、小さな町からの脱出。こんなところで人生を終えたくない、と夜空に願う若者の反動。
長濱ねるというアイドルの成り立ち、ストーリー性も彼らと似ている。決定的に違うのは、夢の暮らしを手に入れたことへの達成感、その歓喜の有り様、捉え方だろう。レイモンド・カーヴァーには、夢の実現を純粋な奇跡として捉え、謙虚さを、実直な生活感覚を失わない資質があった。それが作品に落とし込まれもした。
長濱ねるはどうだろうか。彼女は自身のストーリー展開に、東京の街のもっとも眩しい場所に立つ自分の姿に、どれだけの奇跡を感じているだろうか。物事がとんとん拍子で進み、何事もなく夢が叶うかと思った次の瞬間、手を伸ばせば憧れのアイドル生活・芸能人生が手に入るその段になって、唐突に、夢の扉が閉じられた。その遥か彼方へ遠ざけられた夢を、自身の美質によって当為的に手繰り寄せた実感がそうさせるのだろうか。ステージの上で歌い踊る彼女を眺めるに、その横顔はラショナルな笑みに満ち溢れ、ファンではなく、あくまでも自分に向かってのみ笑いかけているようにしか見えない。
他者を情動に駆らせる全能感を有している、ということは、裏を返せば、少女自身、全能感に溢れ、野心と虚栄心を肥大させている、ということでもある。アイドルの場合、その種の自己肥大は、往々にして、幻想にヒビを入れてしまう。どれだけ文章が上手く、言葉巧みでも、彼女は、風に吹かれて飛びまわるシャボン玉を奇跡との遭遇に喩え、それを真実の魔法として描写することなど、できないのではないか。秋元康の詩情にならえば、「花のない桜を見上げて 満開の日を」想像することなど、彼女にはできないのではないか。*1
こうやって、アイドルに向け屈折した疑問、純粋さへの不信感を抱いてしまう情況もまた、長濱ねるがかもし出すエリート感に対する通俗的な嫉妬つまりアイドルから発散される万能感によって目眩した、情動の一つ、に外ならないのだが、長濱ねるのようなトラジックヒロインを描きつづける人物への批判は、彼女の物語に感涙した大衆に袋叩きに遭うリスクをはらむから、けして口に出してはならない。しかしまた、口に出してはならない、と心に秘めてしまう嫌悪感を、抱かせるアイドルであるという点は、やはり看過できない。
この人の成り立ち、日常、笑顔にはどうしても、引っかかるものがある。アイドル自身がおそらくはそうであるように、アイドルのストーリー展開があまりにもご都合主義的に過ぎ、奇跡とすら思える出来事に対し素直に驚いたり、喜んだり、できない。嘘をつかれているのではないか、という疑念を捨てきれない。
しかしこうした疑念の眼差しを向けられることなど彼女は百も承知で、常によく考え、むしろそれを逆手に取るように、想像力を欠いた大衆の好感のみ誘う立ち居振る舞いを意識的に作り出し、かれら彼女らを虜にしている、ように見える。つまりそこにエゴとプライドに鎖された人間特有の体臭を嗅ぐのであり、その匂いを一度でも嗅いでしまったら、彼女を物語の主人公として自己の内で描き出すことは困難を極める。
フィクションの魅力は、真実かもしれない嘘、を物語として編み上げることにあるが、彼女の場合、嘘かもしれない真実、を常に読者に投げ与えているかに見える。長編小説は書き出しの一行で決まる、と云ったのはガルシア・マルケスだが、長濱ねるはその”書き出しの一行”に失敗してしまったのだ。
この点が、彼女が表題作のセンターポジションに立つことができなかった真の理由ではないか、などと思ったりもする。平手友梨奈の世界観に屈したのではない。彼女はあくまでも生来のバイプレーヤーに過ぎず、主人公感など、はじめから宿してはいなかったのだ、と。
長濱ねるの物語を読むと、アイドル史に名を残すアイドルまであと一歩といったところか。しかし、あと一歩というのは実は一番遠い距離でもある。出口の光に向かって真っ暗闇のトンネルのなかを走り抜けようとするときみたいに、ながく遠い。そのとおり彼女の物語は、トンネルの彼方へ突き抜けるのではなく、トンネルの暗がりのなかで唐突に打ち切られてしまった。最後まで、素顔のよく見えないアイドルだった。
引用:*1 秋元康/二人セゾン