ブログを始めて3年経ちました
「失った時にやっと気づくんだ」
図書館で調べ物をしたあと、タクシーを拾い、とある美術館に向った。コロナ禍にある現在、閑散としているだろうな、と期待したが思いのほか混雑していた。諦めて繁華街に足を延ばした。入った飯屋のレジ横に演劇のフライヤーが置いてあった。駅前に建つ旧デパートの地下で公演しているらしい。ふらっと立ち寄った。アンダーグラウンドと呼ぶにはあまりにも小規模な劇団主催の舞台で、受付の若者にチケット代を払うと、お釣りの札が足りないと言って奥のスタッフルームへと消えていった。なかなか戻ってこない。開演の時間が迫っていたので仕方なく劇場に入った。お釣りのことをぼんやりと考えながら舞台上を眺めていると、そこに受付の若者らしき登場人物が現れた。上下真っ白の服を着た猫背の老人、といった風貌の役。なるほど、開演間近で慌ただしかったのだな、とひとり感心しみつめていると、その演者と目が合ったような気がした。そうなるともう舞台どころではなく、彼がお釣りのことを気にして演技に集中できないのではないか、という気がかりの所為で私も物語に集中できない。公演中、彼と目が合う都度、どうか私のことは気にしないでくれ、と語りかける、そんな舞台だった。帰り道、日向坂46の小坂菜緒が休業するというニュースを眼にした。
昨日、伊藤純奈の恋愛スキャンダルが報じられた。アイドルの恋愛スキャンダルについては、これはもうファン個々の解釈に委ねるしかない。まず報道を信じるのかどうか、というところで揺さぶられ、次に怒るもよし、呆れ返るもよし、受け入れるもよし。私個人としては、正直、現存するすべてのアイドルに点数をつけようと考えているので、批評を一度書いてしまったアイドルに対してはどうしても客観的になってしまう。批評を書いたあとも継続して興味を抱けるアイドルももちろんいる。ただそういう存在は片手で数えられる程度。だからか、恋愛スキャンダルや卒業発表を眼にしても心が動くということはほとんどない。卒業発表で心が動いたのは相楽伊織がさいごだろうか。ちなみに『アイドルの値打ち』で最初に書いたのが相楽伊織評だ。最近アイドル関連で心が動いたのは、NGT48の小越春花が表題曲でセンターに選ばれた瞬間だろうか。しかしそれは小越春花を批評するために書き溜めていたメモのほとんどを捨てなければならない、という自己都合によった情動。
そうした情況にあって、小坂菜緒の休業には心を動かされるかもしれない、という気配がある。それは小坂菜緒がこのまま卒業するのではないか、と期待できるからだ。この「期待」は小坂菜緒のファンには怒られるかもしれない。しかしどうしても卒業を期待してしまう。
小坂は『君しか勝たん』においてセンターを降りたわけだけれど、その『君しか勝たん』には、失った時にやっと気づくんだ、という歌詞がある。この冒頭部分を小坂菜緒が歌っていて、なかなかうまくストーリーを作っているな、と感心するところがある。もしここでほんとうに現実において、歌詞のとおりにアイドルを辞めてしまったら、さらにおもしろい。文句なしに天才でしょう。平手友梨奈以来の才能の誕生、と呼号できるかもしれない。もし彼女が凡庸に過ぎないのであれば、やはり「アイドル」を延伸してしまうはず。今、小坂菜緒は、才能があるのかどうか、他者に見極められてしまうターニングポイント、岐路に立っているわけでしょうこれは。ものすごくスリリングな展開だ。
と、こういった雑感、いわゆる個人を打ち出した「日記」の類いをブログに書くことはほとんどなかったのですが、この3年間でほんとうに少しずつだけれど『アイドルの値打ち』にも「固定の読者」が付いてきた。これはほんとうに嬉しいことです。個々の記事に対し「検索」からやってくる人よりも、直にホームページにアクセスし新着記事を読んでくれる読者が存在する、というのは文章を書く励みになるし、やはり緊張感が出てくる。昨日とおなじ内容のものは避けるべきだ、とか、逆におなじような形容を頻出させて記事が地続きになっていることを意識させるべきか、とかいろいろ考えることになる。
このブログでは徹底して福田和也の文体を模倣/剽窃してきました。3年もやれば当然アイドルを書く際にどこまで寄せるべきか、バランス感覚みたいなものが養われる。最初はただ文学小説を批評するノリで書いていたわけですが、それだとやはり大仰になってしまう。日々調整し、加筆・修正を繰り返すことで3年目にしてようやくコツがつかめてきた。たとえば、今ブログ全体をみまわしてみると、小嶋真子のページが良い、と感じる。とくに文量はこれくらいがちょうどいい。長くなるとやはりダメですね。もちろんこれは私に才能がないだけの話。最近は批評が長くなってしまったページをどんどん編集して文章をごっそり削いでいます。言うまでもなく、批評を短くするにはアイドルのことをよく知らないとダメなんですね。よく知らないアイドルだと文章が冗長になる。これは間違いないでしょう。
現在はこの「小嶋真子 評価」の定形を利用して記事を量産すればいい、という状況になりつつあって、文章の長短、読みやすさと仰々しさの移り変わりをそのまま利用したのが「大園桃子『センター』を検証する」。この記事は、冒頭は軽く読みやすい稚拙な表現から書き出して徐々に読みづらい独りよがりな文章にしていくという企図をもって書いています。全体的にはするする読める文章にしたつもりです。一応は、『アイドルの値打ち』の集大という位置づけ。でもするすると読める文章というのは繰り返し読まれないのですね。なによりもかっこよくない。かっこよくない文章はダメです。自分がかっこいいと思う文章を好きなだけ書ける、それがブログの魅力なので。ただそれだと誰にも読まれない可能性が高い。他者に読まれるためにはある程度情報としての価値が備わっていなければならない、ここは揺るがない。また、インターネット上で公開する文章である限り、「検索」という概念からは逃れられない、という側面もある……。
こうした葛藤のなかで書いたのが「センターの値打ち」です。この記事は現在はまだ生駒里奈の批評しか書いていませんが、生駒里奈への叙述だけでもこれまででもっとも時間をかけて書いています。というかこれは仕事のつもりで書いた唯一の記事です。資料・情報を収集し、アイドルに関する書籍を読み漁りました。正直もうアイドルはこれでたくさん、と思ってしまうくらい、かなり気合を入れて書いた文章です。『アイドルの値打ち』のフラグシップにするつもりです。その所為で、次の白石麻衣を書くまでに越えなければならないハードルが多すぎて、億劫になってしまったのですが……。
3年間、人物評を書いてきて一番痛感したのは、やはり「見られている」という自意識の大切さです。
自分が見ている相手に自分も見られているという意識のもと文章を書く人間を批評家と呼び、自分の見ている相手に自分が見られているという意識を持たない、あるいは持っていてもさして気にならない書き手を学者と呼ぶわけですが、批評家を名乗っている私は当然「見られている」という自意識を持って文章を書いています。それは『アイドルの値打ち』でもかわりません。もちろんこの「見られている」とは現実的に見られているかもしれない、といった可能性の話題ではなく、あくまでも自意識の話題。
また、これはニュアンスがすこし異なりますが、ブログを書く際に私は特定の一人の読者を定め文章を書いています。この人に読まれている、という前提のもとにアイドル評を書いている。その相手とは、乃木坂46の鈴木絢音さんです。読書家であり、名著に馴れ親しんだ人間が自分の文章を読んでいる、という仮定のもとに文章を書けば、絶対に緊張感が出てくるし、まぬけなことは言えない。もちろんこれも、現実的に「鈴木絢音」がもしかしたらこのブログを読んでいるかもしれない、といった可能性のもとに書く、のではなく、あくまでも自意識の話題です。これはブログを書くモチベーションにも通じるのではないでしょうか。
おまけ
ただ日記を書いただけでは味気ないので、最後に、3年間でどの記事が読まれたのか、グーグルが提供しているツールをもとにランキングを作ってみました。
2021/06/30 楠木
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