瀧野由美子と猫、ひとは恋愛を通して成長する

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(C)瀧野由美子公式Twitterアカウント

「アイドルの物語化が起きる瞬間」

最近は、アイドルと言えばもっぱら乃木坂で、AKBはもちろんSTUもひさしく眺めていない。AKBグループに触れるのは、新曲発売に際してのみ、であり、ほとんど関心の枠から出ている。そんな折、瀧野由美子がSNS界隈を騒がしていると聞き、久しぶりに彼女のことを眺めてみた。
久しぶりに見た彼女は、私が知っている瀧野由美子(ふてぶてしい、粗雑であり素朴である少女)のイメージはなく、なんだか妙にしおらしくなっていて、色っぽい、というよりも、可愛らしい人、という印象を受けた。 テンションが意図的に抑えられ、その低さが「日常」をかもしだしており、鳴りを潜めた強さの裏に見える弱さ、弱さの裏にある負けん気の強さ、そのふたつを同時に提示している、ような。やはりビジュアルの良いアイドルは色んな種類のうつくしさを描けるものなんだな、と感心した。

そんな彼女を見ていて、ふと、昔、飼っていた猫のことを思い出した。
あるとき、飼い猫が春から夏にかけ丸一ヶ月家出をしたことがあった。恋の冒険から帰ってきたその猫は妙におとなしくなっていて、まるで「別人」のように見え、驚いた。恋愛とは、やはり、その”ひと”の性格を変えてしまうものなのだ。ひとも猫も、情動や衝動によって、こころに消えない傷みをきざむようなイベントに遭遇し、かつそのような醜態をくり返すことでようやく成長を果たすのだろう。

ところで、私の田舎の実家で暮らす猫たちは、常に放し飼いにされており、それゆえか、子供の頃、私は「猫の死」というものに立ち会ったことが一度もなかった。私にとっての猫とは、ある日突然姿を消してしまう存在、別れを告げたくても告げられない存在であり、今もどこかで生きているかもしれない……、という淡い希望を胸に抱かせつづける、不思議な生き物だった。
幼少時、「チビ」という名前の猫が家に居て、その猫との別れは今でも鮮明に覚えている。ある朝、チビが外に出るため玄関の扉を開けようとしていた。それを見た私はチビの名前を呼んだ。チビが一度ふり返り、眼があった。そしてそのままチビは外に出ていった。それがチビの姿を見た最後であった。
もちろん、実際にチビがその日に家を出ていったのかは定かではない。そのあともしばらくの間は一緒に暮らしていたかもしれない。だが私にとってのチビの思い出は玄関の隙間から外に出ていったあの瞬間で終わっていて、チビとはそのときに永遠に別れている。

つまり、このような記憶化が物語化につながるのではないだろうか。
アイドルの魅力の大部分を「成長の物語」とするならば、アイドルがいかにして成長を遂げたのか、考えるのと同時に、その成長がいかにして自己の内で物語化されるのか、問わなければならないだろう。そうした問いに応答するのが、記憶化、なのではないか。
成長したアイドルを前にしてそこに「物語」を見出すのは、要するに、記憶化された過去との対比、があるからだろう。瀧野由美子というアイドルにはすでに季節の記憶化があり、アイドルの物語化が起きている。アイドルを眺めると、現在と過去のそれぞれの一場面を無意識に比較し郷愁に浸る、といった現象が起きている。説明するまでもなく、こうした現象を叶えるアイドルはシーンのなかを探っても一握りしか存在しない。

余談だが、大人になった現在、猫には、身体の調子が悪くなった際に、人の気配のない静かな場所、自分だけのとっておきの隠れ家で身体を休める習性がある、そしてそのまま息を引き取ってしまう猫もいる、だから猫は突然居なくなったようにみえるのだ、という情報を前に、なるほど、と納得をするも、実家で飼っていたあの猫たちについてはそれはあてはまらないのではないか、という漠然とした反動もある。むしろそうした現実的な視点を持つならば、田舎には近隣の山中の至るところに害獣に対する罠が仕掛けられており、それに掛かって死んだのではないか、あるいは近所に住む猫嫌いの人間に捕まってそのままどこかに捨てられてしまったのではないか、という学生時代の私の疑心暗鬼のほうが現実味があるようにおもえてならない。
いずれにせよ私にとって「猫」とは、こちらの都合とはまったく無関係に、ある日突然、その姿を消す存在であり、またそれは「アイドル」も変わらない。


2021/06/14  楠木