日向坂46の『イチャイチャ虫』を聴いた感想

「それでも出会ってしまったのだ」
ところで読者の方々は――ここで言う読者とはアイドルファンになるはずだが、アイドルが恋愛に没頭している姿を、見たことがあるだろうか。正確にいえば、アイドルを演じる少女が恋をしている姿、ということになるが。おそらく、アイドルファンであればほとんどの人間が「ある」と答えるのではないだろうか。
多くの場合、それはゴシップ写真にもたらされるはずだ。職業アイドルでありながら人目を気にせず街なかで恋人と連れ立って歩くというのは、これ以上になく恋に有頂天になった姿だと言えるのではないだろうか。恋愛スキャンダルという報道の名のもとに喧伝されるその姿、小さなモノクロの場合もあればフルカラーで一面を飾る場合もあるその姿は、ファンばかりでなくアイドル当人の内にしても、その恋愛がもともと持っていたであろう果実の甘さをかなり遠い場所に追いやってしまうのだろうけれど、しかしそこに写された少女たちの横顔は、疑いもなく魅力的で、生き生きとしている。それが、彼女たちの本当の素顔、唯一の素顔だとは思わない。しかしアイドルを演じている最中にはとても見せないような表情が、感情が、そこには映し出されている。
それは特別なものだと思う。特別な相手と、特別な時間を過ごしているからこそ生まれ得る顔貌だと思う。その表情を、いかにアイドルを演じる時間のなかで描き出せているか、などと問うつもりはない。それは、人生の特別な瞬間に、とっておきのものとして、大切に残されているべきだ。アイドルの歌う恋愛ソングにおいて最も重要なのは、その特別な瞬間、つまり私たちファンには知り得ない表情が、しかし眼前にあると、作品をとおし確信させる点にあるんじゃないか。作品ごとに、場面ごとに、これまでにファンが一度として目撃したことのない相貌を描く。あるいは、アイドル自身、自分でも知らなかった自分の恋の表情。しかしそれはまったくの別人ということでもなく、まぎれもなく自分の見知った人物であると無意識に想っている、そんな姿、仕草、表情。
アイドルが――なにもアイドルに限定する必要もないが――「恋愛」を演じる場合、仮想において将来の自分を演じている、という場合も当然あるはずだ。現実の体験を作品における表現に活かすのではなく、仮想における経験が、将来的に現実をすでに知っていたという事態を引き起こす。そうした事態は、そのままフィクション作品の価値・可能性を知らしめてもいる。『イチャイチャ虫』には、どうやらそれがあるようだ。
その可能性は、ほぐすまでもなく、まずもって秋元康の詩情にもたらされている。
女性特有の気分の高潮を文体一つで、言葉の言い切りだけで表してしまえるところなどは、さすがとしか言いようがないが、それいじょうに流石だとおもうのは、感情の力みを超えたところで詩作をしているように感じる点だ。タイトルはともかく、詩の内容については、そのシチュエーションに特段の目新しさはない。そもそも、恋愛を書くにあたって目新しいことを書こうという力みを端から持っていないように感じる。言い換えれば、これまでに誰も書いていないような詩を書こうとする試み自体が、まったく新しくないということを熟知しているかのようだ。誰もがする恋愛の、誰もが直面する事態を一つひとつ丁寧に拾っていくことで、多くの書き手が見落としてしまったものを詩に持ち込むことが可能になる、ということを、熟知しているかのようだ。
これはきっと私だけではないと信じるが、不思議なもので、恋愛というのは、それをしている最中は、それを特別なものとしては捉えきれていないのだ。もちろん最初はそうではなかったのかもしれないけれど。振り返ってみると、どうも特別なことだとは考えていなかったんじゃないかと思えてしまう。それこそ人目もはばからずイチャイチャしてみたり、どこに行くにしても恋人がひな鳥のようにピタリと背中にくっついて、ふたりでたどたどしく歩くような場面で、自分は果たしてそれを人生の飛びきりのハイライトだと認識していただろうか。自分は、人は、なぜいま眼の前に起こっていることの価値を見逃してしまうのだろうか。頭の中だけでなく、頭の外側をもぐるぐると回るその音楽もあいまって『イチャイチャ虫』は、恋愛ソングやドラマとしてみれば、ごくありきたりなシチュエーションであるのに、いざ自分の身に置き換えて考えれば、時間を越えて、特別なことに感じてしまう、リアルな音楽をつくっている。そしてこの印象は、ミュージックビデオにおいて引き出されたものでもある。
人生において、恋愛をすること以上に甘美な経験があるだろうか。恋愛よりも大きな果実などあるだろうか。文学の世界では、本来的に生まれてから死ぬまで孤独でしかあり得ない私たち人間を救うための究極の手段として、恋は考えられ、物語にされてきた。『トリスタンとイゾルデ』では若い男女が死によってあらゆる困難を越えて、一体となり、永遠に結びつこうとした。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、命を保ちつつ、肉体と精神をパラレルワールドにしてその境界線上において永遠に他者と結びつこうとした。
アイドルシーンにおいても、「恋愛」は繰り返し活力として用いられている。『イチャイチャ虫』の映像世界におけるモチーフは、一見してわかるとおり、大小さまざまな形をとったハート、特に主人公が両手で抱える赤く大きなハートになるが、楽曲のセンターポジションに立ち主役を演じた正源司陽子はこれを「愛」あるいは「パートナー」だと、その一端として並べている。映像を眺めた人間の誰もがまず想起するであろう解釈として「恋人」や「彼氏」といった直截的な表現を避けている点は、いかにもアイドルらしい言葉の美意識を感じるが、そうした制約が作品においては恋のヴァルネラブルな一面を甘美なものとして映し出すことに役立っている。ここで言う甘美とは、現実離れした空想的な恋を指すのではない。むしろ、恋のリアリティを指す。
このミュージックビデオは、核心的には独りよがりであることを絶対に避けられない私たちの「恋愛」において、自己あるいはパートナーの心身の損傷を目の当たりにすることで自失してしまう少女を描き出しているが、どこかその片隅には常に真理サスペンスとしてのユーモアを潜めていて、世界をある種の諧謔(かいぎゃく)に染めている。ハートを抱えてこちらを見ている”彼女”の表情は、ユーモアそのものであって、そのユーモアのあとに、寂しさや嬉しさが伝わってくるのだ。これを諧謔(かいぎゃく)というややこしい言葉でしか表現できないのは、私の感情=言葉の狭さに起因するが、いずれにしても、ハートを抱きしめてこちらを見つめる正源司陽子の表情には、若者の考えうる恋愛の表情のすべてが準備されているかのように思う。つまり甘美と言うしかない。
2026/09/02 楠木かなえ

