みんなでアイドル作品を批評しよう!結果発表

「自分の推しを悪く言う奴と、誰が仲良くなれるのか」
私は、音楽作品に向けての感想だったり批評だったりをあれこれと書いた後に、出来上がった文章を眺めつつ、もういちど対象の楽曲を聴いてみたり、ミュージックビデオを再生する時間がたまらなく好きだ。自分の文章と照らし合わせようというのではありません。文章を書く以前よりも楽曲を理解できた気になろうというわけでもない。ただなんとなく、その瞬間が心地良く、待ち遠しいだけだ。人間には、言葉にして説明することがどうしてもできない感情の瞬間がある。そうした瞬間を読者にもぜひ経験してもらいたいという思いもあって、今回、楽曲批評を募ったわけですが(企画の概要は「みんなでアイドル作品を批評しよう!」を参照ください)、さて、音楽への感慨を抱いて、さっそくそれを言葉にしてみて、その言葉を他人に読ませるための文章へと変えようという段で、きっと多くの読者が大変な思いをしたのではないかと想像しています。自分の言葉を他人に読ませようとする意識が元あった言葉・感情に何かしらの影響を与え、当初と意味の違う言葉へと変わっていく。多くの読者が、この現象に頭を悩ませたのではないか。けれど、そうした時間のなかにこそ、批評精神の欠片を私たちは拾っているのです。
もっとも愉快であったのは、読者のみなさんから頂戴した、それぞれの感想・批評を眺めているうちに、それはそれでまた対象の楽曲をあらためて聴いてみたくなった点です。言葉には、他人を、そして自分を動かすちからがある。これだけでも今回の企画はやる価値があったように思います。
次に私が云いたいのは、私たちはまず、アイドルの表現、歌や踊り、演技によってその音楽を知っているということを忘れてはいけないという点です。つまり、音楽作品を評価することは、それを演じるアイドルをじかに評価することにほかならないわけですが、どうもアイドルファンの多くは、この点を受け入れ難い事実として認識しているようなのです。作詞家や作曲家に対してはふだん用いることのない言葉をもって批判するくせに、その楽曲を演じる当事者のアイドルについては、音楽とは無関係なのだとする立場に徹している。ユーチューブのコメント欄は言うまでもなく、SNSでの投稿なども顕著で、楽曲に対しては厳しいフリをした言葉を吐くくせに、アイドル本人に対しては甘言ばかり書き連ねているような、頭のぼうっとしたファンがとにかく散見する。批評家だとか、ライターだとかを名乗っている連中ですらそうなのだから、笑えない。私には縁のない世界なのでなんとも言えませんが、あれらは要するにフォロワーのご機嫌を取っているだけなのではないかと、つい呆れてしまう。そう考えると、彼らは一般的にアイドルと呼ばれる少女とよく似ていると言えるかもしれません。本音を隠して、フォロワーの機嫌を損ねないように、細心の注意を払い媚びを売るその姿はまさしく現代のアイドルそのものでしょう。
アイドルの演じる作品を批判するということは、それはそのままアイドルへ向けて矢を放つ行為だと認識すべきです。この曲は最低だ、と言うなら、あるいはそう思ってしまったのなら、それはそのまま本心としてアイドルへの評価とすべきであって、それを誤魔化そうというのなら、批判なんてやめておいたほうがいい。いつの時代でも、言葉の最も強いちからは、真実、本音にある。本音を誤魔化す人間の言葉などに、魅力など宿るわけがない。
さて、この話題はそのままアイドル批評の不在という問題につながるわけですが、ここで簡単に、なぜアイドル批評は小説や映画のように盛んに行われないのか、この点を整理してみようと思います。実は、アイドル批評の不成立という問題は、そのまま日本の批評の衰退にかかる話題でもあるのです。
インターネット、パソコン、スマートフォンの普及によって現在の批評の主戦場、最も多くの読者を集める空間は活字からwebサイトへと完全に移行しました。Rotten Tomatoes、Metacriticなどがそれに該当するはずですが、かつては世界に肩を並べるだけの批評精神をもっていた日本に、なぜ世界に注目される批評サイトが存在しないのでしょうか。さらに言えば、音楽にしてみても、レコードやCDがインターネットの登場で衰退し、また書籍も同時にその役目を終えたのは日本だけではないのに、なぜ日本人だけが批判精神を捨ててしまったのでしょうか。音楽が、作品単体の芸術としてではなくファンダムのコミュニケーションツール=消費財として扱われるようになり、作品の良し悪しを多角的に批評する文化そのものが、水を差す野暮な行為だと疎まれるようになったのはなぜでしょうか。
私個人に言わせれば、ただ単に、大衆を引きつける、大衆の思惑を左右するような、才能のある批評家がいなくなったから、批評の土壌が丸ごと枯れ落ちただけだと斬り捨てたいところですが、もっと分析的に話を広げると、どうやらこれには少なからず「アイドル」がかかわっているらしい。たとえば大塚英志や宇野常寛のような、文芸批評家ではなくカルチャーライター的な口調でものを言えば、モーニング娘。やAKB48のヒットによって「推し文化」が国民に浸透したことで、批評はじりじりと辺境へ追いやられたのです。自分の推しを、自分の眼の前で悪く言うやつと、誰が仲良くなれるのか。すべて、この一言に尽きる。
しかしあくまでも私がここで言いたいのは、アイドルの功罪などではなく、アイドルを批評することのむずかしさに転じて、アイドル批評は書き手が腕試しするのにもってこいの場になる、という点です。
アイドルにすこしでも厳しい言葉を向けると大衆から袋叩きに遭う。その大衆に屈するのではなく、大衆に媚を売るのでもなく、大衆をねじ伏せるような言葉は、どうしたら書けるのか。私自身の経験を言えば、文芸批評のノリで語っても、どうにも浮ついてしまう。これは確かだ。その種の言葉だけではどうにもこうにもアイドルを掴みきれない。かといって、するすると読める、平易な言葉を用いると、満足する読み物にならない。だから私はとりあえず、文芸批評における世界の一端を崩し、しかし思料はそのままに日常的な言葉で語る、ではなく、文芸批評に用いられる言葉を日常的な言葉として使っているというふうに見せている。
こんなことをわざわざ長々と書いたのは、今回、読者から寄せられた感想・批評を読み、選評する際に私がどのような視線をもっていたかを、かなり回りくどいが、伝えたかったからです。正直、取るに足らないと思った文章もある。AIに構成・校正させたような匂いのする文章もあった。夜更けの勢いに任せて書いたような、とりとめのない文章、「アイドルの値打ち」で使い回してきた表現を無意識にも意識的にも取り入れている文章、作家顔負けの個性的な文章、アイドルを音楽に手繰り寄せる文章、アイドルにしかできないことを探ろうとするような、強い眼差しをもった文章、推しを守ろうとする文章…、読者の声質は多岐にわたるが、では私はそれをどのように選別したか。
そもそも、良い文章とは、どんな文章を言うのか。私がまだ物書きとして駆け出しだった頃、新人文学賞の下読みバイトをしたことがあるが、そのとき師匠筋にあたる先生から、自分が引用したいと思う文章があれば、それは残すべきだ、とアドバイスを受けた。要するに、なにか一つ、どこかひとつの部分でいいから、読み手が持ち帰ろうとする、そんな言葉を書けていれば、一旦はそれを良い文章とみなすべきだろう。
今回、読者から寄せられた文章を選評するにあたって、私はこの点を重視した。これは記事にするにあたって読者の文章をどう掲載するのかという難題をクリアするための案でもあり、読者に課したハードルでもあります。長い思考の垂れ流しの末に、一言二言、書き出したときには頭になかった言葉が出現することがある。それは、これまでの文章を統括してもいたり、裏切ってもいたりする、そんな1行であることが多い。そうした瞬間の1行を、私は読者たちにも期待した。読者評のなかで最も長大なもので、1曲に対して1万文字を超える大作があった。それはたいへんに喜ばしいことですが、構成上、それをそのまま載せるわけにはいかない。要約という手段もあるにはあるが、読者の文章、息遣いをそのまま他の読者に伝えたいという想いがあり、今回は可能な限り要約・編集を避け、これは持ち帰りたくなる、という1行、あるいは、ファンの感想を上手に先回りし代表している1行を探し、抜き出し、それを掲載することにした。その中でも特に、明確に視点の転換があるもの、書き手が自分の世界観に浸っているもの、アイドルヲタク特有の視点をもった文章については★マークをつけて紹介する。

・最後に階段を駆け上がったのはいつだ?/乃木坂46
批評家スコア:67点
読者スコア:63点 (レビュー有り:164名)
読者スコア:73点 (レビュー無し:2361人)
【読者評】
・池田瑛紗のビジュアルが、ミュージックビデオの裁断された世界を見事に繋ぎ合わせている。『Same numbers』と共にこれが新しい定番のスタイルになるのか、長期的な視点で捉えたい。
・「階段」を社会階層の比喩として読み解く。MVの世界を現実と虚構の狭間と考察する。作品を大真面目に「深読み」するファンの姿のほうが、なんだか現代アートに思えてしまう。
★既存の楽曲ではなく、既存のジャケットデザイン、アートワークをここにきて作品化している。
*楠木チェック
池田瑛紗の初センター作品ということだけあって、投票数はこれが一ばん多かった。意外にも、1期生と比べるレビューが多い。初期の乃木坂と比べ明らかに違うのは、音楽を演じているアイドルが自身の成功を確信している点でしょう。アイドルが自分の成功体験をもとに、一段と高い場所から、私に出来たんだからあなたにもきっとできる、と歌っている。これはファンがアイドルの成長を見守るというAKB的なアイドル観を裏切っていますが、それだけに乃木坂らしい一曲だと言えてしまうという点に、なかなかの批評性がありそうです。池田瑛紗がすごいのは、なんだかんだいって、良曲を作り上げている点、歌や踊り、演技の不得手な人物ですが、作品として見れば、意固地にも成立している点、なによりも、音楽のなかに立つと普段と打って変わって、美しく見える点です。

・君ばかり/乃木坂46
批評家スコア:62点
読者スコア:83点 (レビュー有り:31名)
読者スコア:71点 (レビュー無し:879人)
【読者評】
・淡々と過ぎていく時間が「変わらない恋愛感情」として表現されている。まるで聴き飽きない。アイドルとしてのキラキラした姿とはまた違う、等身大の表情がとても愛おしい。
・徹底的なアノニミティ(匿名性)が恋愛のパターンを無数に広げる反面、一部メンバーのキャラクター性が前面に出すぎており、楽曲の風味が薄れてしまっている。*ミュージックビデオに対して
★梅澤美波、遠藤さくらの演技が素晴らしい。5期生は演技が芳しくない。しかしこのMVで最も華やかなメンバーは、満場一致で中西アルノになると思う。グループの伝統が徐々に変わりつつあるのを肌で感じ取る。
*楠木チェック
これは、ファンは厳しく批判できない楽曲なんだと思います。グループと古くから付き合いのある、お笑い芸人のバナナマンが制作にかかわったことで、いまも昔も、会えば懐かしいと感じるような、そんな人間感情が音楽に芽生えている。音楽が聖域になっているんですね。技術的なことを言えば、恋愛をきれいごとに描き過ぎているようにも感じます。ノスタルジーというよりも、これは空想に近い。空想なら空想で文句はないですが、この楽曲の場合、空想の落とし穴にかかっていて、用いる言葉・感情表現がどこかで聞いたようなものばかりです。詩人の正岡子規は、理想は月並みなり、と言いました。この楽曲は、恋愛の理想を歌っただけのものに感じます。個人の体験、追憶がテーマでありながら、どうにも語り手の私情が拾えない。口にするのにもためらう、思い出すだけで赤面してしまうような、恋愛における個人的な恥部がない。当然、アイドルへの配慮も目につく。アイドルが歌うのだから、これこれこういう表現はやめておこうという配慮があったのではないかと、つい勘ぐってしまうくらいに詩情が無害です。恋愛を歌うとき、他者に配慮する必要がどうしてあるだろうか。恋愛はうつくしいものだけれど、無害なものではないはずです。無害なものを、どうして心の内にいつまでも沈めていられるでしょうか。

・是非に及ばず/乃木坂46
批評家スコア:10点
読者スコア:44点 (レビュー有り:123名)
読者スコア:32点 (レビュー無し:1520人)
【読者評】
・こだわりが強すぎるあまり初見でのキャッチーさに欠け、ポピュラーソングとしての親しみやすさは犠牲になっている。インパクト重視の戦略として肯定するが、作品としての耐久性を無視している。
・気軽に聴けないからと評価を下げるのは浅はか。すべての曲が作業用BGMである必要はなく、一度のリスニングでクセのある世界観に浸らせてくれる楽曲があること自体が、アルバムやグループの深みになる。
・話題性だけに固執し、楽曲が背負う動的な文脈を削ぎ落としては意味がない。メンバーの性格やストーリーとシンクロして初めて音楽が生まれる点こそが、アイドルソングの持ち味だと思う。
★「挑戦」と「破壊」を履き違えている。AI批判の多くは、AI自身が生み出した反響にすぎない。素人考えでAIに頼り、時代劇風のミュージックビデオを安易に作らなかっただけでも、まだ制作陣に分別があり、救いがあるが、本気で挑戦をするなら、作風に合わせて林瑠奈をセンターに抜擢するくらいの気概が欲しい。
*楠木チェック
読者の声を読むに、そのほとんどが批評への批評になっている。おそらく、ユーチューブなどで見て聞いたファンの感想に対してのアクションなのだろうと思います。言葉づかい、文体なども楽曲のスタイルに引っ張られているように感じます。ファンの姿勢を変える、ファンを身構えさせる作風になっている、ということでしょうか。「織田信長」を季語にして夏ソングにしてしまう点は、実に秋元康らしい発想ですが、身構えてしまったのはファンだけでなくアイドルもまた同じようです。たとえば、今作品における一ノ瀬美空の一連のパフォーマンスを眺めてみても、まあとにかく表情の硬直ばかりが目立つ。率直に言って、音楽に乗れていないと感じるのです。自分の歌に、自分が乗れていない。音楽に高揚していないのに、それっぽく肩を揺らしている。十八番であるはずの笑顔もひどくぎこちなく、すべてが苦笑いに見える。笑顔ばかり求められるアイドルの弱点が明るみになった、と言うよりも、どのような作品、どのような場面でもファンに笑顔しか求められないアイドルの限界が見えた、と云うべきでしょうか。笑顔の演技などやめて、アイドルは、山鳥毛のように踊り狂うべきだと私は思う。

・命の色/乃木坂46
批評家スコア:85点
読者スコア:92点 (レビュー有り:61名)
読者スコア:84点 (レビュー無し:784人)
【読者評】
・言葉だけでは唐突に思える心情の変化を、ポップソングの躍動感とセンター・長嶋凛桜の歌声によって違和感なく表現し切った。
・「生きるとは汚れること」という命題は批判なき肯定を生む。自身の不誠実や妥協までも「生きた証」として肯定してしまうこの自己愛は、他人事には思えないからゾッとする。
★「諦め」を諦めとしない姿勢が一種の諦念=救いになっている。しかし、そのこねくり回した「諦め」は、希望とも言うべき光を緑の大地に落としている。
*楠木チェック
これは近年どころか秋元康の後年の傑作として数えられる作品になったんじゃないでしょうか。これだけ成熟した、意味を難しくもせず、平易でもなく、複雑で深みのある言葉は、現代では、音楽シーンどころか文学シーンを見渡してもなかなか見つからないでしょう。眼には映らないものを、眼に映るものとして言葉と事象の内に探し表現しているという意味で、言葉の真の意味で「詩」を生み出している。どう生きて、どう命を燃やすのか、生きるということを考えることの逃れがたさ、またその際に抱く切実さを描き出すことで、成長の可能性を見せています。

・Kind of love/日向坂46
批評家スコア:55点
読者スコア:61点 (レビュー有り:90名)
読者スコア:58点 (レビュー無し:1557人)
【読者評】
・ラテンビートを採用して差別化を図ってはいるものの、これなら『クリフハンガー』のほうが100倍良い。結局のところ本楽曲においても大野愛実の独壇場となっており、本来目指していたはずのコンセプトは失敗に終わっている。藤嶌果歩をセンターに使うならもっと別の路線を作れたはず。
・絨毯の上で踊るのも、指を青く染めるのも、所詮は子供だましの仕掛け。ロケーションにもこだわりがない。総じて「幕間の作品」と評価するしかない。*ミュージックビデオに対して
★該当なし
*楠木チェック
この作品は不思議ですね。音楽と共に、選抜メンバーひとり一人の踊りを長時間、かなり意識的に眺めましたが、音楽としては振り返る部分がひとつも出てこない。情熱がテーマにあるようだけれど、楽曲のどこからもそんな熱は伝わってこない。駄作であれば、そう言い切ってしまえばいいのですが、駄作と言うほどクオリティは低くない。残酷だと思うのは、楽曲を駄作にせず、一定の水準までに押し上げているのが、センターに立つ藤嶌果歩ではなく、その近傍に立つ少女たちという点になるでしょうか。

・円周率/日向坂46
批評家スコア:92点
読者スコア:79点 (レビュー有り:65名)
読者スコア:83点 (レビュー無し:1547人)
【読者評】
・メンバー個々に役割を設定しているわけでもないのに、各々にキャラクターがある。主役を1人になんて決められない、そんな賑やかな気分にさせてくれるミュージックビデオ。
★数字が円を描いて永遠に並ぶことが、永遠に新しい発見がそこにあると保証している。
★感情を学んで成長していく主人公を描いたこのドラマを観たあとでは、他のグループのMVを観ても、「ここには佐藤優羽も松尾桜も、大野愛実も高井俐香もいないのだな」と、感情をロストしてしまう。
*楠木チェック
『円周率』は、音楽もさることながら、ミュージックビデオのクオリティが非常に高い。一人のアイドルの誕生が、他の多くの少女の感情に支えられているということを、ミュージックビデオの短く限られた時間内で語りきれるのはなぜでしょうか。それはきっと、演出、脚本が優れているという理由だけでなく、グループアイドルという、複雑に夢の絡み合った、人間感情の複雑な円居を少女たちがすでに描き持っているからではないでしょうか。昭和的なレトロ=過去への逃避がこれほどまでに陽気で、楽しげに見えるのは、過去の風景の素晴らしさにあるのではなく、今を生きる少女たちの本音の表情を目の当たりにするからです。ここで言う本音は、真実である必要はありません。隠れていたであろうものが、姿を現しているのなら、それでいい。たとえば、今楽曲の映像作品における佐藤優羽は、これまでのどの作品の、どの場面にも見たことのない相貌を見せている。ロボットが感情を得て人間になるという設定自体は王道で使い古されたものだけれど、それでいて心が動かされるのは、それを演じる少女のことが、画面に映される佐藤優羽のことが、ほんとうにロボットに見えるからではないでしょうか。彼女が役のとおりに感情を持たないロボットに見えるなら、それを囲む少女たち、彼女に未知の感情を分けあたえていく少女たちもまた、その役のとおり感情の豊かな人物として眼前に描き出されているのです。

・Lonesome rabbit/櫻坂46
批評家スコア:76点
読者スコア:77点 (レビュー有り:258名)
読者スコア:73点 (レビュー無し:1647人)
【読者評】
・振り付けに新しい要素を次々と放り込み、アイドルに鞭打つことが作品の質を向上し、マンネリ感を打破している。こちらが見慣れてしまっただけで、もしかすると彼女たちは凄いことをやっているのでは?
・的野と中川の両名によるボーカルが、サビ以上に強烈な中毒性を生み出している。的野の振り切った個性が中川の新たなアイドル性を引き立てている。
★動物を擬人的に解釈する。これはアイドル成立への批判にもなっている。
*楠木チェック
この楽曲はレビュアーの激戦区になりました。『What’s “KAZOKU”?』との両A面シングルですが、興味が半々になるというわけでもなく、『Lonesome rabbit』のほうがファンを多く引きつけているようです。楽曲そのものについては、見た目の愛らしさに反して生存戦略・生殖能力においてハイスペックなウサギのイメージを、櫻坂46が絶倫のアイドルだということのシンボルに役立てた一曲、とでも言うべきでしょうか。要約・編集の判断が難しく、上記で紹介できなかった声もある。たとえば、青春にわき立つ若者の感情を音楽に現すことに徹底する作り手の姿勢が、森田ひかるをセンターに配した際に作風の固定を招いているといった趣旨の声がありましたが、これは櫻坂46=大人への反抗=欅坂46=サイレントマジョリティーへの帰結がもはや音楽としては形骸化していることへの批判につながっているようにも思う。しかしこの批判はまた、櫻坂を櫻坂たらしめてもいる。櫻坂46が数あるアイドルのなかでも飛び抜けてアートであり得るのは、ライブパフォーマンスにおける技倆に端を発するのではなく、音楽を演じるアイドルたちが音楽にたいして当事者ではあり得ないという事態に直面し続けているからに違いない。秋元康の編み上げる音楽は、そのほとんどが内省の音楽だけれど、櫻坂で歌われる楽曲の作風を考えれば、メンバーの多くは、その内省の世界を外側から眺め、把握するしかない、そんな事態に直面しているはずです。それだけに彼女たちにとって音楽は世界の一面を形作るもの、再構築するもの、つまり表現の手段として懐に落とされている。

・What’s “KAZOKU”?/櫻坂46
批評家スコア:81点
読者スコア:76点 (レビュー有り:148名)
読者スコア:68点 (レビュー無し:1101人)
【読者評】
・社会的な反逆を叫んできた櫻坂46が、ここでは「個の孤独を肯定するための逃避的共同体」としての「家族」を描き出している。美化された絆を解体する、批評的なエッジが際立つ。
・ドライな言葉遣いの裏に多幸感を潜めることで、ポップソングの真価を発揮している。
★該当なし
*楠木チェック
家族そのものを、あまり考えたくないというファンが多いのでしょうか。作品の質に反して、おもったほど点数が上がらなかった。この作品のテーマは、いわゆるパラノイアでしょう。歌詞にあるとおり、家族というのは、どの家にも独自のルールがあって、それがその家では当たり前になっている。外の世界に一歩出れば、自分のなかで当たり前になっていたものが、実は当たり前ではないことを知る、自分の家族はどこか変わっていると気づく。自分の家族を、ちょっと奇怪に感じたりもする。そうした瞬間に私たちは自分のルーツを考え、それを否定したり肯定したりしながら自分というものを知り成長していく。この歌詞が素晴らしいのは、自分もいつか「家族」を作るのか、自分に「家族」は作れるのかと、ふと、漠然と想う若者の繊細な感情を拾っている点です。

・We got your back/櫻坂46
批評家スコア:38点
読者スコア:51点 (レビュー有り:34名)
読者スコア:55点 (レビュー無し:347人)
【読者評】
・センターを務める佐藤愛桜は、歌い踊ることが自分の使命であると信じている。歌と踊りを磨き上げることがやりたいことであり、それを通して得られる富や名声にはさして興味が無いように見える。しかし、彼女が歌い踊っている姿は、確かに人を鼓舞する力がある。
・行動を促す勢いばかりが空回りし、肝心の聴き手であるファンの内面に深く踏み込んで葛藤を紐解くような、歌詞本来の言葉の深みが置き去りにされている。
★該当なし
*楠木チェック
この曲は、曲調はもちろん、ミュージックビデオでも随所に、これが櫻坂46だと言わんばかりの演出を散らしていますね。時期的には、『静寂の暴力』と比較しても良いタイミングだと思いますが、どうでしょうか、『静寂の暴力』と比べると音楽に希求がなく、アイドルの表情にも衝迫を受ける部分がない。アイドルが、櫻坂のスタイルをとった音楽に立たされることで、アイドルとしての当為を高めてはいるが、それがなんら音楽の魅力に還元されていないという点が、致命的に感じる。それとも『静寂の暴力』と比較するのは酷なのでしょうか。初めて『静寂の暴力』を眺めたときの、あの衝撃を、私はこのグループの若手に期待し続けたい。

・FUNKY SUMMER/僕が見たかった青空
批評家スコア:81点
読者スコア:54点 (レビュー有り:6名)
読者スコア:65点 (レビュー無し:5人)
【読者評】
★腰砕けな音楽の過程のなかで、まだるっこくも明るいアイドルの笑顔が、”僕青”の現在地を指している。豪華なセットや衣装といった楽曲外の要素に潤沢な資金を注ぎ、楽曲の質を補い補いする乃木坂46の対岸に立っている。こちら岸で打ち上げられた花火は、上空で開かずに落下しつつある。
*楠木チェック
『FUNKY SUMMER』は音楽に関しては水準を軽く超えていますが、やはり映像作品に不満が残りますね。アイドルの表現にも課題があります。安納蒼衣、金澤亜美、工藤唯愛あたりを除けば、皆一様にして演技力に乏しく、精細がない。踊りを鍛えてきたグループであるのに、ここぞという場面でそれを活かさないのも不思議と言えば不思議です。それにしてもこの投票数の少なさはなんだ?!このグループのファンはいったいどこにいるのだろう。なによりも、坂道のファンが、ついでに投票しようという気さえ起こさないのはなぜだろう。青空を考える、ではなく、なぜ売れないのかを考えるグループになってしまいました。
あとがき、
この記事を作るにあたって一ばん頭を悩ませたのは、文体をどう統一するか、という点だった。『What’s “KAZOKU”?』にならうわけではないが、それぞれの家庭にそれぞれのルールがあるように、文章を書く際の文体、口調もまた人それぞれで、企画に寄せられた読者の声をそのまま掲載すると、どうも収まりが悪い。だから、読者にとっては不本意であるかもしれないが、私の都合で一部、あるいは人によっては大部分、読点、語尾の調整をした。もちろん、用いられる単語などは一切、手を付けていない。この点を、どうかご容赦いただきたい。
2026/08/20 楠木かなえ

