乃木坂46の「僕は僕を好きになる」を聴いた感想

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「これは『君の名は希望』の続編ではない」

僕はノートのまん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。

村上春樹 / 風の歌を聴け

日本テレビ系音楽特番『ベストアーティスト2020』にて、乃木坂46が新曲を初披露する、と耳にした。さっそく観賞した。本来であれば、批評を作り、記事をサイトにアップすべきだが、CDの発売日が2021年1月27日とのことで、それなりに間隔がある。批評を作るのは、歌詞やMV、ジャケット写真、フォーメーションなど情報が出揃ったあとになる。しかし、楽曲の輪郭に触れてみて、なかなかおもしろい、と感じたので、思いついたアイデアを書き留めておく、という意味でも、ここに一度、ふらふらとした感想を記しておこうとおもう。後日、批評を作る際、この「メモ」を再利用するかもしれない。

さて、『僕は僕を好きになる』を聴いてみた感想だが、まず、この楽曲を眺める際には、楽曲のタイトルを凌ぐ命題として眼前に置かれ通過を余儀なくされるもの、がある。それは、未来を作る、という命題である。作り手から発せられた、この大仰な決意表明を通してアイドルのパフォーマンスを見てみると、なるほど、笑顔が妙に硬直していたり、ダンスがあまりにも拙く、滑稽(しかも転倒するアイドルまでいる始末)でも、許容すべきなのかもしれない。映画『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』の序盤に映し出された、演奏に悪戦苦闘する若者の群像、それとおなじものが描かれているようで微笑ましくもある。ただ、残念におもった点もある。(今回の映像を眺めた限りでは)センターポジションに立つ山下美月の声が鮮明に聞こえてこなかった点である。上述したとおり、彼女の踊りがどこか”ダサく見える”のは、むしろ成長余白があって良いのだが、一番期待した「歌声」が聴けなかったことは残念に感じた。『路面電車の街』で作ったカタルシスに表題曲でも遭遇できるのならば、これ以上のものはない、とおもう。

次に歌詞。
断片的ではあるものの、『僕は僕を好きになる』の歌詞に触れたとき、これは『君の名は希望』の続編なのではないか、と乃木坂46の物語に意識的に振る舞うファンならば、きっとひらめくはずだ。背中を丸めた”僕”のその後ろ姿の描写が冒頭に置かれ、やがて”僕”が前に向き直る、この構図にはたしかに『君の名は希望』と通い合うものがある。しかしこれは続編ではない。『君の名は希望』の系譜にも与さない。もちろん、続編ではないからガッカリした、などと述べるつもりはない。続編が書かれたのならば、それはそれで胸が高鳴ったはずだが。
では、『僕は僕を好きになる』と『君の名は希望』の深い関係性とはなにか。

おそらく、作詞家・秋元康にとって乃木坂46の通史がはっきりと目に見えるかたちで眼前に映し出された瞬間が『君の名は希望』の完成時であり、つまり、そこが言葉の真の意味でグループのスタート地点になった、と捉えることが可能なはずだ。どうやったら未来を作れるのか、という情況から、校庭の片隅に座り込んでいる「僕」の足元にボールが転がってきたことで、未来を作る、という状況へグループが成長を遂げたわけである。『君の名は希望』以後、グループが豊穣な物語を描いたのはあらためて説明するまでもない。
そして、今作『僕は僕を好きになる』を制作するにあたり、もう一度、未来を作る、この決意をグループがいだいた。つまり、作詞家が、自己の枠組みを押し広げるためにも、もう一度、スタート地点に、あの校庭にもう一度座り込んでみた、と読める。家郷に戻る意味はおおきい。安易にこれまでの物語の続編を書くのではなく、これまでに記した物語の始まりの場所に戻り、そこからもう一度物語を書きはじめようと試みるのだから、文句なしにスリリングだ。あのとき描こうとしたけれど、結局描かなかったものや、描きたかったけれど、どうやっても描けなかったものを今度こそは描けるかもしれない、という可能性として残されたもの、可能性のまま死んでしまったものが、試練と希望がたしかにそこにある。平易に云えば、前回、『君の名は希望』から『何度目の青空か?』へと展開した物語が、今回はどうのように展開するのか、胎動の手触りが今作からは伝わってくる。そういえば、村上春樹も長編小説を書くとき、自身がこれまでに記してきた物語の断片、たとえば短編を拾い上げ、再構築する、という手法を多用している。たとえば、『ねじまき鳥クロニクル』が顕著だが、文芸評論家・福田和也をして「世界文学の水準で読み得る作品」といわしめたこの長編小説は、短編小説の集大、練り上げである。そしてなによりも『ねじまき鳥クロニクル』が書かれたのは、村上春樹のスタート地点となった『風の歌を聴け』の系譜に連なる一連の作品(『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』)を書き終えたあとなのだ。
作詞家・秋元康にとって、このような試みの原動力になったのが、ほかでもない、前作『Route 246』である。小室哲哉に向け、過去に戻り、そこをスタート地点にしろ、とメッセージを記した、作詞家・秋元康の思考実践が今作品に活かされ、引用されているのはまず間違いない。

次に楽曲。
しかし、これだけ周到に練られ、人間喜劇への期待を投げつけるのにもかかわらず、興奮しないのはなぜだろうか。それはおそらく、楽曲を演じるアイドル自身が興奮していないからだろう。『君の名は希望』を差し出されたとき、生田絵梨花や白石麻衣はブレイクを確信し、高揚したと聞く。そのアイドルの情動がファンに感染し、ファンは「これで乃木坂は大丈夫だ」と安堵した。『僕は僕を好きになる』からはそのような体験は、現時点では、得られない(このような体験とは楽曲に”はじめて”遭遇した瞬間にしか得られない体験かもしれない)。現在の、コロナ禍における不安状態のなかで、このような「安堵」が得られないのはなんとも残念な結果ではあるが。しかし、なぜ、楽曲を演じるアイドルが「興奮」を伝えないのだろうか。それは、乱暴に云ってしまえば、「楽曲」の”デキ”が悪いから、とするしかない。作り手に致命的な瑕疵がある、と云うしかない。
現代でアイドルシーンに関わる作り手のほぼすべてにみる瑕疵、それは、ファンへの過剰な配慮、と云えるだろう。かれら彼女らは、アイドルではなく、ファンに向けて作品を作っている。意識的にしろ、無意識的にしろファンの声量を過剰に摂取している。要は、ファンと同じ目線に立ってしまっている。作家でありながら、自分自身のため、ではなく、ファンのために作品なるものを作っているわけだ。壁に向かい、昨日見た夢を忘れないために一人落書きをするような芸術性を破棄している。ファン=大衆に向けて作っているわけだから、当然それは安物のエンターテインメントに成り下がってしまう。楽曲を演じるアイドルに洞察を求めるだけで、アイドルを楽しませる、アイドルに認められる、というあたりまえの使命がまったく果たされていないのだ。アイドルを演じる少女だって、名作と呼ばれる映画やドラマ、歌、小説を手にとる人間の一人なのだ。あるいは、日常を演じる人間であるから、文芸作品に対し一般人よりもつよい批評感をそなえているかもしれない。その日常風景を想像できるのならば、”彼女たち”に自身の作品を手渡す、それがどれだけ熾烈な挑戦であり、覚悟を求められる行為なのか、実感できるはず。
作家として、かれら彼女らが作詞家・秋元康に習うべきものがあるとするならば、それは情報に囲繞されてもなお俗悪さを捨てない姿勢だろう。秋元康という人物の俗悪さたるゆえんとは、自己の姿形や達成に”盲目”である、という点である。

と、ここまで書いたところでなぐり書きしたメモが尽きたので、ここで終わりにしようと思う。
いずれにせよ、山下美月「センター」がついに叶えられた、これは個人的には2020年のアイドル史のなかでもっとも鮮烈な出来事になった、と云える。

2020/11/26 楠木

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