櫻坂46の『死んだふり』を聴いた感想

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(C)死んだふり ミュージックビデオ

「山田桃実の才能をどう読むか」

本当にやりたいことを、やったことがあるか。心の底で、本当のところで、やらずにはいられないことが、自分にはあるのか。止むに止まれぬ、やらずにはいられないことを、やってしまったためしがあるだろうか。

福田和也/「志賀直哉」

もうかなり昔のことだけれど――週刊SPA!の連載だったはずだが、元X JAPAN・hideの自殺について福田和也が熱く語った場面がある。若くして時代のアイコンになること、それを演じ続けなければならない屈託を死へと結びつける福田和也の文章を読んだ経験が、僕のアイドル観の根底に流れていることに、最近、ふと、気づいた。
自殺は、近代日本文学におけるもっとも大きなモチーフだと、言い切ってもいい。夏目漱石、村上春樹など文学的アイドルたちの手によって、その物語の核心部分に自殺は落とし込まれてきた。自殺を小説に起こしてきた作家自身もまた、自殺し続けている。たとえば福田和也は川端康成と三島由紀夫の自殺を、一方を「衝動」、一方を「演劇」として、対峙させている。川端の弟子格である三島由紀夫の死は、割腹自殺というその成り行きを見てわかるとおり、三島自身によって徹底的に演出された「劇」であった。対照的に、川端の死は、まるで散歩に出るかのような、日常の延長でしかなかった。書きかけの原稿を机に残したまま、人生になにひとつけじめをつけることなく生死の境界線を越えた川端のあゆみを、ほんとうの衝動だと、福田和也は云っている。
なにやら話す事柄が大仰になってしまったが、今回はこの「衝動」の部分をアイドルに引用して、その作品の価値を、櫻坂46の4期生楽曲『死んだふり』のセンターに立った山田桃実の才能を問いかけてみる。

僕自身、衝動という言葉を、アイドルの評判記を書くにあたり、これまでに繰り返し、比較的には褒め言葉として、用いてきた。では、そもそも衝動とはなにか、なぜそれが褒め言葉になるのか、しつこく福田和也に学ぼうと思うが、ここでは福田和也の志賀直哉評を僕の実体験に照らし合わせながら、考えることにする。
シチュエーションは、学校でも工場でも、どこでもいいけれど、僕の場合は学校ということになる。
学生時代、僕は、中学校舎の入り口付近、下駄箱の横に設置された非常ベルのボタンを、特に理由もなく、前ぶれもなく、押したことがある。改めて思い返しても異常な行動だが、福田和也いわく、こうした行為こそ衝動にほかならないと言う。眼の前に赤いボタンがあって、それを衝動的に押してしまうことこそ、その人間の本音なのだと。
これを押したらどうなるのか、という好奇心で押したのなら、それは本音ではない。これをむやみやたらに押すのは良くないことだと知りながら、悪意に動かされて押すこともまた、本音とは遠い。後先を考えることなくそれを押してしまうことが衝動であり、つまり本音なのだ。気がついたらそれを押していて、まわりが騒ぎになっているなか、その事態がよく飲み込めない。なぜそれを押したのかと問い詰められても、答えることなどできない。でもあとから思い出してみて、その瞬間こそが自分の人生の愉快だと、浸る。
もちろんこうした行為は、社会的な立場を失う可能性を高くはらんでいる。でもそうした衝動を眺めた人間のなかに、それを羨ましいと思う、愕然とするのではなく、憧憬として、一目置く者が、たしかに存在する。あるいは、そうした人間は、衝動をめざとく見分けることができる、見分けてしまう人間だと、換言できるかもしれない。衝動に憧憬があるからこそ、衝動的に生きる人間の行為を真似して演じようとする者がいれば、それを見抜き、その嘘くさい芝居にうんざりするのかもしれない。めざとい読者であれば、この瞬間、僕がふたりの人間に分裂していることに気づいたんじゃないか。つまり、アイドルを演じる少女もまた、そうなのではないか。
前段と矛盾してはいるのだが、衝動が起きたとき、それを自分とは無関係な出来事として眺める自分がどこかにいる、ということなのだが、そうした精神が、作品にあらわされるからこそ、そこになにか異様なものを感じ取り、鑑賞者はこころを激しく揺さぶられるのではないだろうか。

欅坂46ひいては櫻坂46に所属する少女のほとんどは、『サイレントマジョリティー』を発表してから今日にいたるまで、この「衝動」と向き合い続けてきたのではないかと、僕は思う。音楽作品において衝動的な表情を描き出すことが、このグループにあっては登竜門になっている、と。とりわけ平手友梨奈の『アンビバレント』における笑顔、森田ひかるの『BAN』、藤吉夏鈴の『Start over!』などにおける衝動的な表情、異様な、愉快な笑顔は、これからさき多くの若手アイドルに試練を課すことになるだろう。
たとえば、新作シングルの表題曲である『Make or Break』を眺めてみると、的野美青の表情には、先行作品と同じ地平に立とうとする、チャレンジ精神が宿っていることがわかる。『Make or Break』に限って云えば、正直、物足りないように感じる。たとえば『流れ弾』を演じた田村保乃と同様の問題を抱えている。これはすでに述べたが、要するに、赤いボタンを押す際に、意識が冴え渡っているように、どうしても見えてしまう。
一方で、おなじ若手であっても『自業自得』を演じた山下瞳月には、平手、森田、藤吉と同等の衝動がある。もちろん僕がここで云いたいことは、どの作品が優れているのか、とか、こっちは衝動があって、こっちにはない、とか、そういう分析的なことではない。僕が伝えたいのは、ある作品を眺めるさいに、自分のなかで、物差しになるものを一つ準備するだけで、飛躍的にその音楽の魅力へ、つまりアイドルの魅力へと想到できるのだという意識のことだ。なぜ山下瞳月だけが欅坂的な登竜門をくぐることができたのかと考えれば、それは『静寂の暴力』において、そうした登竜門があることを、そうした試練がグループの若手メンバーに課されることを、アイドルを演じる少女自身、一般生活者の屈託というかたちを通して作品化した経験を持つからに相違ない。

こうした観点で4期生楽曲『死んだふり』を眺めてみると、やはり少女たちが、これまでの若手メンバー同様に、欅坂46のエクリチュールにどのように反応するのか、試されていることがわかる。ある者は、楽曲の世界観に忠実であろうと健気にふるまい、ある者は、強い自覚のなかで反抗らしきものを演じているように見える。言われるがまま、踊っているだけの少女もいる。自分のイロを出そうと、健闘している者もいる。衝動という物差しを準備した際にもっとも印象的であるのは、やはりセンターで踊る山田桃実だろう。彼女の表情には、たしかに衝動があるように思う。さきに公開されたドキュメンタリー作品のなかで、自分たちにはなにができるのか、少女たちは問われていたが、自分にはなにができるのか、問われるならば、自分がやりたいことを、問い返せば良い。自分がほんとうにやりたいこととはなにか、それが現れる瞬間こそ「衝動」なのだ。山田桃実にはその「衝動」があるようだ。


2025/06/17 楠木かなえ