処女性に鎖された、鈴木絢音の魅力

乃木坂46, 特集

鈴木絢音 (C) UTB 2017年2月号Vol.250

「処女性の有効性」

処女性の尊重には、いくつかの意味や文脈がある。強い所有欲なり、征服欲なり、あるいは他の男への嫉妬の感情に由来する先行性の価値、自分の性的な力量についての不安などから発する、さまざまな心理的、生理的、文化的なメカニズムが働いていた。だが、その本質にあるのは、やはりその一回性であり、基本的には反復できないという性格にある。一回性が、男女の結びつきを、決定的で取り替え不可能なものに変質をさせる。聖別をするのである。一回性のゆえに、その交わりは特別なものであり、互いを交換不可能なパートナーとして認めることになる。無論、処女膜といったフェティッシュに支えられた一回性といったものは、本質的なものではあり得ない。しかし、結婚という制度が、いまだに社会的にも大きな必然性を持ち、あるいは持っていると見なされていた時に、縁無き男女を結びつけて、生涯にわたる拘束を誓い合うための、取りあえずの指標としては有効だったのである。その有効性が、結婚が自由意志に基づくことになった近代においてむしろ増したのは当然であろう。その点からすれば処女性の有効性は、結婚の必然性と補助的に成り立っていたといえるかもしれない。誰もが誰かを生涯にわたる伴侶として選ばなければならないという強迫のもとで、精神とかあるいは経済的、社会的な、理由よりも、よほど説得力のある、賭けることのできる徴だったと。

福田和也 / 現代文学

あるアイドルファンが、数多く並び立つグループアイドルの中から一人の少女を選び、”推す”、と決意するとき、その判断材料のひとつに「処女性の尊重」があるのはまず間違いない。
黒髪、清楚、青春の犠牲を受け入れアイドルを演じる少女の横顔…、あえて説明するまでもなく、今日におけるアイドルの最高度の魅力として挙げられるこれらの要素のすべてが、「処女性」に帰結する話題である。
ファンが自身とアイドルとのあいだに信頼関係を見出すとき、それは往々にして「一回性」の有無であり、「処女性の尊重」とは、ファンがアイドルとの成長共有を試みる際につよく握りしめる「賭けることのできる徴」と云えるだろう。あるいは、仮想恋愛という、曖昧でかたちのないものを、アイドルとファンの双方が互いに成り立たせるための唯一の方法に「処女性の尊重」があるのかもしれない。
日常的に慇懃を重ねるアイドルを編み上げつつ、自身のファンにたいしてのみ破顔を見せる鈴木絢音の、その一連の所作に宿っているものもまた「処女性」に相違ない。

鈴木絢音がアイドルとして描き出す日常の立ち居振る舞い、仕草の内に一貫して示される生硬さ。それを目の当たりにすると、自己の青春時代の記憶が、否応なく、よみがえる。青春の回想の旅に、つい出てしまう。
精神の成長速度が男子よりも早かった女子。あるとき、いつものように戯けて彼女の日常に触れると、強い拒絶反応を示される。勝手にわたしの引き出しを開けないで!、と。こうした、少女特有の硬さに触れた際の動揺、また、女らしさ、とはどのようなものなのか、はじめて直面した際の興奮への回帰、つまりノスタルジックの提供こそ、鈴木絢音の、処女性のたかいアイドルの得物と云えるだろうか。
少女のフラジャイルに触れてしまったファンは、彼女の有無を言わせないその突然の拒絶を前に、思考を硬直し、その場に立ちすくむことになる。と同時に、それが自分の過去、かつて青い時代のなかで”遭遇したことのある経験”、しかし、”どこかの時点で忘れてしまっていた冒険譚”だと、逆走する静寂のなかに響く鈴の音に導かれるようにして、発見する。アイドルという非現実の存在をとおして、自身の現実の過去に立ち返るというその体験は、フィクションを現実の体験をもって読み理解しているつもりになっている人間の常識を逆転させ、フィクションに触れることで私たちは現実を学んでいたのだ、というあの事実、あのカタルシスに遇会させる。
風に吹かれながら読書する少女、という、処女性に満ちた光景がそのままアイドルの物語に取り替えられていくその瞬間を、ファンにリアルタイムで共有させたことは、ファンの幻想に生きるアイドルとして、その妄執の矛先に選ばれたことへの、「賭けることのできる徴」を見出されたことへの文句なしの応答と云えるだろう。

 

2019/08/27  楠木かなえ