秋元真夏 × レイモンド・カーヴァー
「ささやかだけれど、役にたつこと」
感受性の豊かさによって溢れ出る涙、それがアイドルを演じる人間特有の心の繊細さを映し出す場面も少なくはないが、秋元真夏は日常を演じるという行為を強く要求する昨今のアイドルシーンにおいて、朝、目覚めてから眠りに就くまで、アイドル=自分ではないもう一人の自分を演じきる力量を把持する、”タフ”な人物である。
明晰な頭脳とは、理性的な立ち居振る舞いを作り、挫けぬ心を育む。グループアイドルとしてはやや特殊な、1.5期生なる立場からアイドルの物語をスタートした秋元真夏。彼女は、寒さや寂しさ、暗さ、人間性の貧しさに囲繞される、女学生的な順位闘争の場に独り置かれ、ある種の閉塞感を味わったようだ。
けれど、彼女のマスコットキャラクター的な愛嬌が損なわれる、アイドルの笑顔に硬直を見る、という場面は、これまでほとんど描かれていない。涙を流すとしても、それはほとんどの場合、自己に向けた悔しさを原動力としたものであり、他者の働きかけによって揺さぶられる、という醜態=弱さを描くことはほとんどない。
きっと、芯が強いひとなのだろう。本音を守り勇敢に闘おうとする、アイドルを演じようとする彼女の姿勢からは、素顔との遠い距離を想わせる一方で、青春の犠牲、つまり当たり前の日常を喪失する人間固有の寂寥を見出すことが可能である。アイドルを演じる日々のなかで少しずつ本来の自分を見失っていくという意味では白石麻衣と通い合う性(さが)の持ち主であり、その物語はたとえば、アイドルになる前の少女の屈託を打ち出した、自己啓発としての「夜明け」を歌った『夜明けまで強がらなくてもいい』を迎え撃っている。
秋元真夏が編み上げるアイドルには、グループアイドルを演じることになった少女たちの横顔に宿る現代的な儚さを象徴するような佇まいがある。とくに、このひとには、孤独の深さからえぐり出されたような陽気さがあり、言い様もなく、深く希求される。
換言すれば、秋元真夏は、自身の生きる時代に呼応する資質を持ったアイドル、と呼べるだろうか。
グループアイドルとして時代に呼応する能力、それは、日常生活における役の演じ分けの巧さ、云うならばドラマツルギーの鋭さと表現するのが妥当だろう。日常生活における演じ分けが巧みなアイドルは、与えられた境遇に左右されることなく自我を模索し夢を育むことができる。
秋元真夏にたとえれば、秋元本人はきわめて純文学的な人物=自己の可能性を切り開くために行動できる人物だが、彼女が作り上げる架空の世界の中に屹立する「アイドル・秋元真夏」はエンターテイメントタイプ、つまり大衆向けの商品としての完成度を追究する人物に映る。真夏に降る雪。この倒錯=イメージこそ、彼女の、日常の演じ分けの巧みさを証明する一つの徴になるはずだ。
アイドル人生のスタートこそ周回遅れであったが、スタートを切ったあとはトップランナーに迫る文量であたらしい青春を縦横に書き、野心的なタフさのなかに怒りや葛藤、傷つきやすさを孕んだ豊穣なコケットを組み立て、未だグループに存在しなかった虚構(偶像)を発掘し、仮想恋愛というジャンルに特化したアイドルとして、確固たる地位を確立した。
秋元真夏が作り上げる虚構の中に暮す「アイドル・秋元真夏」のふるまいは、ファンの心に在るピュアな部分を容易く鷲掴みにする。言葉どおり、ファンに夢を、活力をあたえる登場人物であり、とくに現実と仮想をすり替える恋愛空間の実現、その手腕は、AKB48発足以降の、その多くのアイドルのなかでもトップ3に入るのではないか。ファンの瞳の内奥をのぞくように見つめる仕草はきわめて魅了的で、”彼女”と目が合った、ただそれだけで取り返しのつかない恋に落ちることを可能にしている。
なぜ彼女はそこにいるのか、と、デビュー当時、あまりにも強く過剰な問いかけを向けられる場所に立たされるも、気づけば、彼女は、グループにとってもファンにとってもそこに居るのが当たり前の存在になっていた。ドラマツルギーへの理解に基づくブルーオーシャン戦略を成功に導いたアイドルの代表格と見做すべきだ。
もちろん、彼女がアイドルを演じることは「虚偽」ではない。「やさしさ」ですらないだろう。たとえば、アイドルを演じるという所業は、人を愛することを諦め、人に愛されることをやめてしまったパン屋の店主が、たいせつな子供を亡くしたばかりの夫婦に熱いコーヒーと焼き立てのロールパンを食べさせるみたいに、ささやかだけれど、役にたつことなのだ。秋元真夏のあたたかい”手料理”によって救済されたファンは多い。彼女の作るアイドルはきわめて、現代的な日本人のこころを、その存在理由を満たす偶像なのだ。
また、このひとには、アイドル=日常を演じることのみならず、映像作品における演技にも、深い洞察を可能とする、まばゆい光がある。これまで、演劇の分野においては正当な評価をまったく受けていないようだが、現存するアイドルの中でならば間違いなくトップクラスの才能の持ち主と云えるだろう。『超能力研究部の3人』や『水槽の中』では拙い表現ながらも、すでに日常の再現を可能にしていた。早い段階で現在活躍しているジャンルではなく、演劇の分野に精力的に踏み込み経験を積んでいたら、という、if、つまり可能性に向けた憧憬を思わず描かせるほどの、資質を具え、投げつけている。
この秀でた演劇の才を横に移動させた結果、仮想恋愛の成熟化に成功したと読み解くこともできるのだが……。だが、このような「できたかもしれないけれど、やらなかったこと」の集積こそ、乃木坂46の描く群像の豊穣さ、多様性の表象なのだろう。それを明確に教えてくれる秋元真夏が桜井玲香のあとを継ぎキャプテンに選ばれた、これはもう当然の帰結と云うほかない。彼女もまた、とびきりに乃木坂らしいアイドルなのだ。