乃木坂46の『おひとりさま天国』を聴いた感想

乃木坂46, 座談会

(C)おひとりさま天国 ミュージックビデオ

「アイドルの可能性を考える 第二十八回 おひとりさま 編」

メンバー
楠木:文芸批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。

今回は、久しぶりにアイドルを話題にしたので、その部分を抜粋。日向坂の正源司陽子、乃木坂の新曲のミュージックビデオ、映像作家の伊藤衆人など、少し、触れた。

「批評に向いている人、向いていない人」

島:今回の持ち込みは、楠木さんがカーティス・フェイス『タートル流 投資の魔術』、OLEさんが柄谷行人『トランスクリティーク』、横森さんが柄谷行人『坂口安吾と中上健次』、僕が佐藤友哉『デンデラ』。
楠木:柄谷行人がブームなんですか。
OLE:最近、貸し借りして回し読みしてるんだよね。学生時代に戻ったみたいで楽しいよ。
横森:海外にしばらく滞在したあと、日本に帰ってきたらまず手に取りたくなるのが「柄谷行人」なんだよね。
OLE:日本を問うことを「帰郷」のなかで考えるって、読ませるよね。
楠木:『デンデラ』も帰郷と言えば帰郷ですよね(笑)。姨捨山から生還して故郷を奪還しようとする物語でしたよね。「羆」の登場でエンタメ的に脱線しますが。
島:はい。でも僕はこれ、全然おもしろくなかった。ポップ文学ってどうも苦手。楠木さんは今回批評でも小説でもないんですね。
楠木:僕はもう今は読書どころじゃないので(笑)。投資・投機の方で正念場を迎えている。ドル円が今145円付近でしょう。僕はこれ、120~130円辺りまで落ちると判断しているので。断続的に売っているんだけど、なかなか下がらない。150円を上抜けることはないと思うんだけどね。カーティス・フェイスに従えば、今は買い増し続ける場面ではあるから、短期では回転買いして日銭を稼ぐ。でも150円が上限、底が125円と考えると、ここはどう考えても売りだよね。大きなチャンスだと思う。まあ、そうなると売り狙いが多くなるから、やっぱり容易には下がらない。僕が思うに、FXというのは心理戦ですから、上がっても下がっても問題ない、という状況を準備しつつ、売りと買い、どちらかに絞らずに回転させることが重要なんじゃないか、と。要するに一つのポジションに拘ってはいけないということですね。
OLE:そういうスイッチの切り替えができるかどうかって、結局才能なんだろうね。
横森:彼にFXの才能があるかと言えば、間違いなく無いけどね。これまでに何度口座を飛ばしてきたことか。連載が増えたって原稿料を全部つぎ込んじゃうんだから。
楠木:連載って言っても、取材と資料集めでほとんど赤字だから。
OLE:スイッチかどうかはわからないけど、門脇実優菜とか早川聖来とかさ、友人の”推しメン”でも文章を書くとなると馴れ合いから脱して鋭くやっているでしょう。そういうところを見ると、やっぱり生来の批評家なんだなって思っちゃうよね。
楠木:まあ、身も蓋もないですが、現実的な問題として、批評家としてやっていこうと決心した際には、そうした葛藤は誰でも直面する問題かもしれませんね。付き合いのある小説家は貶せないっていう批評家は、それなりにいるようです。アイドルシーンで言えば、二つパターンがあるんじゃないかな。友人の”推し”は貶せない、という人と、そもそもアイドルを貶すことができない、という人。楽曲やMVは貶すくせにアイドルには一切口出さない、とかね。そういう精神の弱い人は批評に向いていないのかもしれません。
横森:SNSなんかわかりやすいじゃん。これから批評をやりたいんだって奴はさ、自分のフォロワーの”推し”を貶せるかどうか、試してみればいい。
島:貶した時点でフォローを外されるだろうし、これまでの関係が完全に壊れるでしょうね(笑)。
OLE:フォロワー数を惜しんで批評に躊躇するようじゃ作家としては絶対に食えないでしょう。自分が作家として食えるかどうか、こんなに簡単にテストできることは他にないな。
楠木:読者が真に受けなきゃ良いけど。
OLE:楠木君にドキッとさせられるのは、自分に対して突然他人化するところ。批評的に言えば、「公」と「私」の切り替えと言うのかな。自分の本を眺めながら「酷いこと言ってるなあ」とかね、よくつぶやいてる(笑)。
楠木:その「公」と「私」ですか。これ、その分類を用いる場面を誤解している人が多くて、批評・文章における「公」と「私」を、公平な視点と私情の発露、としか捉えることができない人間が多いように感じる。「公」と「私」というのは、ほとんどの場合、たとえばフローベールか、バルザックか、という、形式の問題です。小説のなかに作者である「私」が当たり前のように登場するのがバルザックやゾラですが、一転、フローベールは小説世界に姿を現しません。つまり小説世界が「公」になる。批評において「公」を打ち出すというのは、フローベールの枠である場合がほとんどなんですよ。それは僕の好みではないですが。もちろん、これは批評への向き不向きとはまったく別の話題で、批評をやる際に定める、自己のスタイルの話題になりますが。

「正源司陽子 100点で起きること」

ずっと前に失くしたと思ってた  僕にとって大事なものを  胸の奥で見つけたんだ  ねえなんか嬉しいよ

シーラカンス/秋元康

楠木:「アイドルの値打ち」のなかで、作家である僕自身が読者に発見される場面って、往々にして、アイドルにたいして高い点数を付した瞬間なんだと思います。
OLE:高い点数を付けるのが一番むずかしいんだよな。説得力がないとダメだから。
楠木:説得力に関しては実はほとんど気にしていなくて、高い点数を付けたアイドル、人気アイドル、を語るときに気をつけるのは、そのアイドルが特別に優れている点を書くのはもちろんなんだけれど、その特別さは、凡庸なアイドルにとっても自己の内にありえるものでなければならない。人気アイドルが語られている、しかしそれは同時に自分のことを語っているように見える、という文章でなければならない。凡庸なアイドルを代表しているような、そんな存在として描き出さなければならない。誰にもできるようで誰にもできないことを当たり前にできてしまえる人として、印さなければならない。ただ、最近、日向坂の正源司陽子に100点を付けましたが、ここはもう別次元で、実際に100点を付けたことの実感は、これまでの自分の批評のすべてを裏切ったというか、覆した、別の言い方をすれば、台無しにした、価値のないものにした、ということなんだけど、そうした実感に襲われたときに、果たしてこのアイドルはそれに見合うのか、自問自答する羽目になる。正源司陽子は見合うように思う。『シーラカンス』を聴いて確信しました。
島:『シーラカンス』も作風としては「他人のそら似」ですよね。ミスチル云々は別にしても。
OLE:うん。
楠木:僕は乃木坂の『他人のそら似』を、新しいアイドルと過去のアイドル、という話題に落とし込んだけれど、『シーラカンス』はまったく違って、これは、自分の過去をアイドルが呼び覚ます。作風というか物語は『人は夢を二度見る』の再利用で、夢を見ていて、眼が覚めた後の問いかけです、これは。君は誰ですか?、というのは夢の中で強烈な存在感を与えたのに、眼が覚めたらそれが誰だったか思い出せない、その際の問いかけに見える。要するに「批評」にならないというか。音楽を前にして誰も思考を飾っていないというか。
OLE:ナイーブなんだよね、この曲。
楠木:この「傘を持っている女性」は別に誰でも良いんだよね。過去に好きだった人との再会というシチュエーションとして捉えても良いし、過去に好きだった人の面影をもった人でも良い。面影なんかなくても良い。ただ「出会い」がそこにあれば良い。昔好きだった人、好きだったけれどどうにもならなかった人、付き合ったけれど結局別れてしまった人…、”恋する痛み”を思い出せればいい。とにかくシチュエーションの作り方が上手い。とくに、「傘を持っている女性」が一緒に雨宿りしているという状況を思いつくところなんかね、舌を巻く。彼女が横に立ったことには理由があるのかもしれないし、特にこれといって理由はないのかもしれない。そういう不思議さ、もどかしさが恋愛の機微につながっているのは言うまでもなく、その不思議さは「アイドル」の出現にもつながっているように感じる。こういう詩を書けるのは秋元康だけでしょう。
島:「胸の奥で見つけたんだ」の後に「ねえなんか嬉しいよ」と書けるのは秋元康だけでしょうね。
楠木:そう。前半部分は秋元康個人の視点というか主人公の「僕」の物語ですね。でも後半の部分は、アイドルを強く意識している。アイドルが歌を唄うことを意識している。これ、狙ってやっているのだとしたらやはり天才でしょう。指原莉乃じゃこれは書けませんよ。というか、この歌って、乃木坂の『おひとりさま天国』への回答になっているんじゃないかな。「おひとりさま」に向かって秋元康が一番言いたいこと、それが「恋する痛み」なんですよ。

「『おひとりさま天国』のミュージックビデオを観てみる」

OLE:もう楠木君が言っているけど、皮肉を皮肉にしないところにポップの力があるんだろうね。
横森:これ、言っちゃなんだけど、カップリング曲のクオリティだよね。質、じゃなくて、クオリティ、って意味ね。
OLE:たしかに表題っぽくないね。歌もMVも。
横森:カップリング曲の方が表題より評判が良いことが多いでしょ。だから今回はそれを逆手に取ったんだろうな。MVの監督もカップリング曲専門の人でしょ、たしか。ここのスタッフってやっぱり頭が良いんだな。
楠木:付き合いがあるのかは知らないけど、池田一真の影響を受けているよね、この人。
OLE:池田一真と比べると個性がないかも。
島:才能はあるんじゃないですか。これだけしっかりした映像を撮れるのであれば。
OLE:まあ。
楠木:才能はありますよ。この人の才能はファンを嫉妬させるところです。この人の作品は常にアイドルと距離が近いですよね。だからファンの目線でアイドルを語れるんだけど、それが転じて、ファンの嫉妬を買いやすい。ファンの目線に立っているくせに、ファンの誰よりもアイドルに近い場所に立っていますから。しかも今作のテーマは「おひとりさま」ですから、おもしろいことになります。アイドルに没頭するアイドルファン=おひとりさまのその大切な時間をMVが破壊してくるわけですよ。作家への妬心が、誰にも邪魔をされない心地の良い空間をぶち壊しにするわけですね。これはものすごく批評的で、愉快に思います(笑)。
OLE:楠木君がよく言っているよね。自分のやりたいことをやってる。
楠木:アートですね。
横森:たださ、「おひとりさま」への解釈がなんかズレてるのかな、浅いというか。こんなこと言うのもなんだけど、もっと本を読んで「言葉」への解釈を鍛えないとダメなんじゃないか。「作家」だからね。
OLE:この映像を見ると、「おひとりさま」への解釈が、多様性の甘受、でしかないよね。
楠木:「おひとりさま」というのは、要するに、歌詞に書かれているとおり、部屋のなかで一人きりで過ごす時間こそ本当の自分でいられる瞬間だ、嘘偽りのない自分だ、という確信を意味するんでしょう?ただ、現実を見れば、けしてそんなことはなくて、人が本性を剥き出しにする瞬間というのは他人とぶつかったときですよね。恋愛なんかはその最たるものです。恋愛中って、誰でも必ず、自分でも思いもよらなかった行動を取ってしまう。衝動、ですね。そういう経験を通して人は自分というものを知っていくわけだから、「おひとりさま」はその「自分」を逃した状態と言える。なぜそうなったのか。たとえば、主人公・井上和で、恋愛に一喜一憂している自分。部屋のなかでスマートフォンを覗き込んでいる自分。どちらが本当の自分なのか、みたいなね。安直だけど、そういうドラマでもおもしろかったんじゃないかな。一人焼肉ですか、自分へのご褒美というか、そういう一種の健気さって他人から見ても自分から見ても可愛くもあるし、どこか切ないと言うか、部屋でアイスを食べるのを楽しみにしている自分、とかね。可愛いし、切ないよね、なんか。そういう機微を映像化することはできないのかな。
横森:どれも本当の自分なんだ、みたいなところに落とし込んだらつまらないよね。
島:そういう啓蒙ですか、説教とも言えますが(笑)。そういうものに背を向けたくなる。鬱陶しさを感じてしまうことの動機を表現すれば。
横森:そうなるともう完全に若者としての「おひとりさま」に絞られる。
OLE:動機なんてないんだよ、きっと。

島:大前提として、「アイドル」を絡めなきゃいけませんよね。
OLE:そうだね。そこがむずかしいんだよな。「おひとりさま」を知りたいだけなら綿矢りさの小説でも良いし、能年玲奈の映画でも良い。
楠木:前に松村沙友理が乃木坂用の老人ホームを作りたいって意気込んでいたけれど、あれは要するに「アイドル」を通した「おひとりさま」へのアンコンシャスですね。

横森:井上和が「アイドル」と出会うことで「おひとりさま」ではなくなるのか。はたまた「アイドル」と出会ってしまったことで「おひとりさま」になってしまうのか。
楠木エゴサーチをしている自分と、ステージの上でキラキラと笑っている自分、どちらが本当の自分なのか。
OLE:そのシチュエーションだと山下美月を主人公にしたほうが(笑)。
楠木:ただ、いずれにしても、行き着く先は「白石麻衣」だと思うんですよ。自分というものがわからなくなるから、結果、しあわせはどこにあるんだろう、と迷子になる。アイドルとして売れることが、破滅への待機にしか見えない。なら今はただ我武者羅に、陽気に踊っていよう、と。そうやって見ると、このミュージックビデオは、素人である僕たちの想像力を先回りしているのかも。

 

2023/08/12  楠木かなえ
2023/08/15 誤字脱字を修正しました