鈴木絢音「センター」を検証する
「鈴木絢音という人」
実を云えば、私は鈴木絢音というアイドルのことをほとんど知らない。彼女について語れることと言えば、不遇の2期、であること、「文章」を書ける数少ないアイドル=文学少女、ということ、自身のファンに対する歩み寄り、その歩幅が他のアイドルよりも大きく、かつ、その前進が齎す独特な存在感をデビュー以来しっかりと保っていること、くらいなもので、アイドルを演じる少女の、その素顔への想到といった個人的体験つまり想像を持たない。表面的な感慨しか用意できない。
しかし幸運なことに鈴木絢音というひとは、アイドルの未知の魅力を知っていく過程そのものにアイドルとしての魅力があるという、不可逆性を真正面から貫くような、そんな物語を編んでいる。ゆえに、アイドルの物語のどの場面から読んでも、どのページを開いても、その横顔・魅力を語らうことが可能である。
このひとには、どこか常に一定の孤独を抱えているような、本音を潜行させた佇まいがある。融かすことのできない雑作な笑顔を備えており、自分のことを眺める者の側に立ち、その視点にすべり込み、どう笑うべきか考え行動しているようにみえる。立身出世に対する無関心の提示もその一環なのだろうか。あるいは、不遇の物語化、なのか。日常のヒステリックな一面を覆い隠した、アイドル的パフォーマンスに見えなくもない。
しかしまたその鈴木のアイドルとしての有り様には確かに到達点の不在した、否定的に表現すれば冗長、好意的に解釈するならば、不遇の残照に導かれた尽きることのない可能性を見出すことが可能である。
端的に云えば、その佇まい、たとえば、文彩の多様さを育む慇懃の積み重ねによって裏付けられる、ファンとアイドルのあいだに致命的な裂け目を引くような危うさによって、多くのファンにアイドルの素顔への遠さを確信させ、やがて誤解されてしまった、自ら寂寥に加担するアイドルと呼べるだろうか。
要するに、このひとにはドラマツルギーの徹底がある。
たとえば、ある喜劇のワンシーン。”肝試し”企画において「幽霊」の役割を与えられた際の、それに打ち込もうとする鈴木の、ユーモアを著しく欠如した真面目さ愚直さには、彼女の場面々々における役の演じ分けに対する徹底さを、多くのファンが垣間見たのではないか。
日常の様々な場面における過剰な役の演じ分けとは、その場面々々で役割を得ようと渇望すること、つまりそこに自分が居ることの理由を見出そうとする試み、存在の証明にほかならない。やはり、というよりも、まさしく、ここにも、少女による不遇の物語化を目の当たりにするわけである。
とはいえ、ドラマツルギーが鋭ければ鋭いほど、「役」の境界線がはっきりとしていればいるほど、日常の所作にぎこちなさが出てくる。それを眺める者をして、違和を抑えられない。それはおそらく、家族の前で振る舞う仕草と友人や恋人の前での仕草の差異、というよりは、彼女にとって自分は家族や友人といったあいだ柄ではなくあくまでも他人にすぎないのだ、という懸隔をはっきりと他者に意識させてしまう。鑑賞者は眼前に立つアイドルに一種の「硬直」を見るわけである。
こうした鈴木の硬さは、おなじく2期生としてデビューした佐々木琴子の生硬さつまり純潔や処女性といったアイドル的香気の発散と通い合っているようにおもわれる。鈴木絢音の特質とは、佐々木が「アニメ」に対してならば硬直せずに満面の笑みを作ったように、きわめて私的な部分において硬直が解ける場面をもつ、ではなく、鈴木の場合、自身のファンに対してのみ硬直を解く点にある。
普通、(普通、などと言ったら語弊があるかもしれないが)演じ分けを意識するならば、なによりもまず、自身のファンに対し硬くなるはずである。しかし鈴木にはそれが一切ないように感じる。むしろ自身のファン以外の”他者”に向け過剰な演技があるようにうかがえる。逆転しているわけだ、演技が。これまでに数多くのグループアイドルを眺めてきたが、鈴木絢音のようなドラマツルギーの徹底とその逆転を描くアイドルは、ほかに知らない。
なによりも驚くのは、鈴木は、そうした心地の良い空間、自我を肥大させる甘やかな場所から抜け出て、自身のファンの前でだけ見せていたやわらかな笑顔を、テレビカメラの前でもつくれるようになった、多くのファンに向けその魅力を教えられるようになった点である。アイドルの自伝が浩瀚(こうかん)であることがあたり前になりつつあるシーンにあって、たとえば、加入5年目にして表題作の歌唱メンバーにはじめて選抜されるといったグループアイドル的カタルシスによって、欠くことの許されない存在になったのはもちろん、『口ほどにもないKISS』を演じてからは、アイドルの表情に自己表現としての”くすみ”が出てきたようで、彼女の言うところの「湿度」を感じられるアイドルへと成長を遂げた。
この「鈴木絢音」に「センター」としてどのような可能性が秘められているのか、希望の糸を手繰り寄せてみようとおもう。もちろん、「センター」を検証する、これは、”彼女”が「センター」になれる可能性はあるのか、とか、どうやったら「センター」になれるのか、という分析ではなく、彼女がセンターに立った際に巻き起こる風をもう一つの現実として想像する試みであり、彼女の魅力を発見あるいは再発見し、より彼女のことを好きになっていくという意味である。
「もし鈴木絢音が『Actually…』のセンターだったら」
すでに六百年前に、世阿弥は「秘すれば花」と云った。ただ花を花として書けば、花が立ち現れるという安易な意識からは、やはり本質的な文学など現れはしない。*1
29枚目シングル『Actually…』において、あたらしく11人の少女が第5期生としてグループの物語に登場し、またその5期生の一人、中西アルノがセンターに立った。
新作『Actually…』には、忘れがたい過去を想いつつ眼前に立つ新しい”恋人”の魅力を知っていく、より好きになっていく、君は君でしかないのだ、という『他人のそら似』ひいては『君に叱られた』を下敷きにした憧憬が込められており、中西アルノだけではなく、5期生の多くがそうしたテーマの元に集められた、ともすれば、宿命的に乃木坂の地に集まったようにおもわせる、そんな希求がある。
現在、乃木坂46には10年分の物語=過去がある。その厚みの上にまったくあたらしい、素性の知らない少女が立ったとき、その少女のことを語る際にファンが役立てるもの、工具として用意するものとは一体どのようなものだろうか。それはきっと、過去の登場人物の面影にほかならない。
瑞々しい少女の横顔と過去の登場人物の横顔を重ね合わせることで、ファンは辛うじて新人アイドルに対する私情を育むことができるし、その過程で、ファンは、より一層過去の”恋人”の魅力を思い知り、彼女のことを深く愛していくことになる。あたらしく登場した少女に看過できないキズがあれば、過去の人を想うその偏愛はより激しいものになるだろう。しかし、過ぎ去った恋人の魅力を今ならば他者に向けて説明できる、という情況に至ったからこそ、あたらしく出現した少女のその無限の魅力を発見できるのだ。
こうしたファン感情を撃った物語が『他人のそら似』ひいては『君に叱られた』であり(そのプロローグとして過去との決別を歌った『ごめんねFingers crossed』を挙げるべきだろうか)、また、一連の物語が帰結するところ、つまり過去をどう乗り越えるのか(当然、この「過去」とは、乃木坂46の過去であり、またアイドルを演じきる少女個人の過去である)、というテーマ、アイドルの物語が生まれる瞬間を歌ったのが『夜明けまで強がらなくてもいい』である。つまりは第4期生の登場以降に語ってきた乃木坂46のストーリー、アイドルを「夜明け」と詠んだ作詞家・秋元康の詩情の結晶として中西アルノを主人公とした『Actually…』が編まれたわけである。
中西アルノを主役に据えた新たな一篇、平手友梨奈を想起させる、天才とのフュージョン。過去の登場人物、季節の記憶となった「天才」を、まだ輪郭を持たない少女に重ね合わせる、つまり過去と現在をフュージョンさせることで未来へと行動する、過去を吹き払おうとする力強いストーリーには、たとえば、『絶望の一秒前』に記された詩情、希望なんか見えない、という、『君の名は希望』からはじまった「希望」の物語の破断には、人間喜劇の豊穣さと活力の横溢がたしかにある。
しかし忘れてはならないが、過去を想う、の「過去」とは、通り過ぎ失った「過去」のみに縛られるわけではない。『Actually…』を通し強く握りしめる「過去」とは、遠い記憶となった過去だけではなく、今なおシーンに生動する「過去」も、もちろん含まれる。
今なお生動する「過去」とは、説明するまでもなく、第1期から3期までの現役メンバーを指し、当然、鈴木絢音もそこに与する。未来へと突き進むために過去を想うのならば、今なおアイドルの物語を編み続けるその「過去」にも、思いを馳せるべきだろう。
他人のそら似、これは、他者とのとけ合いであり、赤の他人と重なり合うことで個人の魅力を発見するという奇跡の物語である。しかしアイドルの場合、フュージョンする相手は何も他人に限った話ではない。アイドルとは、とくにグループアイドルとは、ほんとうの夢を探し叶える為に、青春の犠牲の元に日常を演じる、自分ではないもうひとりの自分を作り上げることによって自己の可能性を探る、模索の劇である。ならば、他人ではなく自己とのフュージョンによって描かれる成長、アイデンティティの確立もあるのではないか。たとえば、西野七瀬が主役を演じた『帰り道は遠回りしたくなる』のミュージックビデオにおいてはその模索の劇が克明に描かれ、アイドルになった西野七瀬と、アイドルにならなかった西野七瀬つまりもうひとりの自分が邂逅しフュージョンするまでの日常と非日常の過程を眺めることで、ファンはアイドル・西野七瀬の内に秘められた、アイドルを演じる少女の素顔、魅力を発見・再発見した。
つまりは他者と入り混じることで個人の魅力が浮き上がる、という物語がある一方で、自己を問い続けることで、ひとりの少女だけを眺め続けることで、発見される魅力もある、ということだ。
「鈴木絢音」に話を戻せば、自身のファンにのみやわらかな表情を広げてきた鈴木絢音のその笑顔がグループの多くのファンに披露されたとき、どのような動揺と興奮が生まれただろうか。
グループのファンが鈴木絢音の未知なる一面に触れ、彼女はこんな風に笑えるのか、実はこんな素顔をもっていたのか、と舌を巻き動揺・狼狽するとき、予てから鈴木絢音を推していたファンは、それはすでに知っていたよ、と静かな興奮を覚える。つまりグループのファンと鈴木個人のファンのそれぞれが前を向いた感興に浸ることになる。おそらくこうした感情は「他人のそら似」という劇薬によってはもたらされない。
それはなぜ可能なのか。こうしたストーリー展開、言わば「秘すれば花」がなぜ実現されたのか。そこに鈴木絢音の、彼女の、グループの、もうひとつの可能性があるのではないか。グループアイドルにほとんど興味を示さない人間に向け、シーンに打ち込むアイドルファンですら未だ発見しない未知の魅力を特効薬的に打ち出すのではなく、まずアイドルファンがアイドルに没入する印としての既知の魅力を、アイドルに興味をほとんど示さない人間に教えるべきなのだ、という考えは、あまりにも無垢にすぎるのだろうか。だが鈴木絢音「センター」にはそのような可能性を実現させるだけの力があるようにおもう。たとえば、彼女がセンターに立った、自己の内に秘めていたものを表に出す決意を歌った『新しい世界』は、鈴木絢音のアイドルとしてのストーリー展開を、予知、ではなく、強烈な期待感として描いていたように感じる。新しい世界、これは、自分も他人もすべての人間がまだ知らない世界に旅立つ、という意味をそなえるだけでなく、自分の内にすでに秘められている魅力を、それをまだ知らない人間に教える、伝えるという意味も持つのだ。
2022/04/07 楠木
*1 福田和也 / 作家の値うち