久保史緒里「センター」を検証する

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久保史緒里(C)オリコンニュース

「耽溺」

今日、久保史緒里を取り巻き、闊歩する、同世代、いや、同時代のアイドルたちを圧倒し打ちのめす”本格”への評価=過褒、つまり”天才”という称揚を前にして、我々アイドルファンはなにをおもうべきだろうか。たとえば、あるアイドルに対しセンターつまり楽曲の、グループの物語の主人公になることを期待する、これは過去から現在まで、グループアイドルを演じるすべての少女とそのファンのあいだで揺れ交歓される”期待”なのだが、久保とそのファンのあいだで揺れる炎には、他のアイドルを末端的登場人物へと仕上げてしまう、不気味な妄想の肥大がある。しかもおそらくは、その大きく歪んだ虚飾とは、アイドル本人の働きかけによって作り上げられた幻想ではない。それは、彼女を耽溺する人間の所業である。

恋愛というものは、個人の主体性を越えて運動する、計算外のことが次々と起きる、賢明さを越えたところにしか現れないものです。だからこそ面白いものであり厄介なのです。自分とはこういうものだと思っていた枠からはみ出てくるものがある。それも多くは、嫉妬といった見たくない、認めたくないといった愚劣な部分が出てくるのではないでしょうか。

福田和也「福田和也の文章教室」

恋愛における「嫉妬」の厄介さとは、衝動的に出現する「愚劣な部分」、それが自己の内に芽生えた妬みを原動力としている事実を受け入れるのがむずかしい点だろうか。突然、目の前に立ち現れる、愚行をくり返す醜い自分。それが生来の、本当の自分にみえてしまう……、だからなおさら受け入れることができない。
アイドルとの仮想恋愛においても嫉妬は生じる。その際に表出する「愚劣な部分」とは、より邪な嫉妬である、と云えるだろうか。とくに、恋愛スキャンダルを起こしたアイドルに向けるファンの「嫉妬」の作り方ほど「愚劣」なものはないだろう。もちろん、仮想恋愛がアイドルの存在理由に設定されること自体は、現代のアイドルシーンのなかにあって特別な現象とは云えない。耽溺をメインコンテンツと定められたアイドルが「個人の主体性を越えて運動する」ファンの妄執に囲繞される、これは
当然の成り行きである。ファンは”彼女”の物語を読み、恋に落ち、空扉をひらき架空の世界の住人となる。そこでは妄想の翼を広げることが許可され、彼らは現実世界で遭遇できなかった願望を叶えてもらう。やがて、眼前に拡がる架空の世界が現実を上回るリアリティを獲得し、「愚劣な部分」を表出させる。だが、久保史緒里の場合、彼女のファンが滲み出す願望とは、多くのアイドルファンが少女たちに向ける、”彼女はこうであってほしい”、”こうあるべきだ”、という主人公の抱える不完全さ故の希求=欲、そこに芽生える身勝手な期待が裏切られた際の妬み、口撃とは異なるようだ。久保の物語を読むファンは、アイドルを耽溺するあまり、”彼女は、こうだ”、という既成、義務的で瑕疵のない偶像を置く。あるいは”自分の所有物にしたい”という願望をにじみ出す。アイドルのもつイメージが純白にすぎるのだろうか。であれば、この少女は、アイドルとファンの成長共有、その要件を満たさない。いや、満たせない。ファンにとって久保史緒里とは、その姿形が画面に映し出された瞬間から努力やポテンシャルという範囲の余白部分を埋め尽くした、清廉潔白な天才であるのだから。そして、この完結した、自らが積み上げた偶像を前にしてファンはもだえ苦しむのだ。それは鈴木絢音的な処女性の尊重、つまりある人間があるアイドルを”推す”と決心する際に身勝手に求める約束事=かけることのできる徴を希求する際のふるえ、ではなく、深川麻衣的なアモールと酷似している。久保史緒里が遭遇する、ファンの「嫉妬」の特徴とは、ファン自らが置いたその完結した偶像が、いつか崩落してしまうのではないか、身勝手にふるえる予感なのだ。
さらに興味深いのは、ファンは自身の抱える拙く邪な感情や悔悟、日常の不安や不幸を払拭するために用意した”主人公”を『久保史緒里』というタイトルが付けられた虚構の中から、架空の世界で暮らす久保史緒里にではなく虚構の外側に立つ”現実世界”の久保史緒里に投射する点にある。久保史緒里がどれだけ真剣に演技をしても、フィクションを作っても、ファンが眺め、批評の矢の的となるのは、アイドルの演じる役ではなく、あくまでも久保史緒里本人なのだ。彼女の演じた役が、どう生きたのか、なにを物語ったのか、ではなく、久保史緒里がどう演じたのか、それしか見ていない。だから、フィクションと現実が混ざり合う。イメイジと実像の乖離したアイドルがステージ上でライトに照らされ、浮かびあがる。”天才”が堆く積み上げられていく。
なによりもおもしろく、やっかいなことは、彼女に耽溺を向けるのは、ファンだけにとどまらず、作り手、同業者、そして親近者までもそこに含まれるという点である。彼女は格好の投射素材なのだろう。”アイドルに憧れてしまった天才少女”という物語を編むことで、彼女がグループアイドルとして呼吸している、ただそれだけの事実が奇跡との遭遇を叶えてくれるのだ。久保史緒里とは、収斂の訪れを告げつつあるシーンを彷徨い歩くファンが(あるいは作り手や同業者が)やっと発見できた”逸材”なのだ。自己主張しない垂れ目、溌剌する清楚、フラジャイルな日常の仕草など、彼女のビジュアルが投影への入り口として機能しているのかもしれない。
こうした受動的な求心力の発揮、久保のその独特な存在感をあえて好意的に評価するならば、自身を”天才”と他者に妄執させる天与の才を持つ者、つまり天才と呼べる訳だから、久保はパラドクスなアイドルと呼べるかもしれない。であれば、過去と未来をつなぐ、という命題のもとに集められた第三期生にあって、センター・久保史緒里とは、その命題に合致した存在と扱えるかもしれない。
しかしながら、かように”天才アイドル”を作りあげるファンの声量、ギニョールはアイドルの自己超克を妨げ、ともすればグループ全体の衰退につながる一つの前兆ではないか、という感慨さえある。

イメージが先行すること自体は、悪いことではない。
悪いのは、具体的なことは何一つともなわなず、イメージのみが独り歩きする場合である。

塩野七生「ローマ人の物語」

久保史緒里の演劇について。
彼女の演劇を批評しフィクションを作るとき、やはり、久保史緒里というアイドルを囲繞する耽溺、つまり天才を作り上げる声と対峙する姿勢を貫かなければならないだろう。久保史緒里の演じるアイドル、その演劇を端的に言い表すならば、何でもできるけど、何もできない人物、と云えるだろう。それをある人物が天才であるかどうか、といった話題に落とし込むならば、表現できるけれど、表現できない人物、と言い表せるだろうか。たとえば、久保の同期でもある乃木坂46の第三期生・大園桃子の吐き出す物語のタイトルと並べたとき、久保の虚構には不安定な官能性こそ内在するものの、大園の観者の心を握り潰すような迫力や儚さ、不気味さなど、アンダーグラウンドを虜にする異物感の伏在を読むことは叶わない。映像作品や舞台の上で見せる久保史緒里の演技は、バランス感覚の良い仕草を残すが、伊藤純奈や秋元才加と同じく日常の不在を提示している。あるいは日常を自壊している。彼女たちがどれだけ虚構のなかで咆哮しても、それは闖入者の存在に怯える飼犬の威嚇にしか見えない。一方で、大園桃子の”嗤い”は、その視線のさきに何が映っているのか、想像もつかない、底気味悪さを”神秘”へと変質する古典がある。
両者の隔たりを乱暴に表現するのならば、大園桃子が非日常の境域で日常を溢し現実世界では伝えられなかった素顔を、あるいは日常生活者が現実において見落としてしまった大事ななにかを提出しているのに対し、久保史緒里は仮構という非日常のなかで”非日常”を演じてしまっているのだ。例えば、『劇団桟敷童子』の東憲司の作り出すフィクションのように、時代の距離感を無視したエンターテイメント的な優等生感の押し付け。つまり、これは絶対に表現しなければならないという前提のもと表現するのではなく、あくまでも表現できるものだけを巧みに表現する清潔さにこそ久保史緒里の演技の核があり、「天才」から引き離される動機がある。自身の演技が粗雑であろうとこれは絶対に今ここで表現するべきだと衝動的に行動できてしまう人間を天才と称賛するならば、久保はその真逆の性格の持ち主に映る。彼女は、自身の演技がある一定の水準に達しなければ表現したいものがあってもみずから表現しようと思えないではないか。そのような高い精神性によって描かれる演劇には、たしかにスリルや感涙経験を鑑賞者に与える快適な刺激がある。その刺激が眼前に立ち現れたアイドルに完結性を付与し、その気品への依存が今日の久保史緒里を囲繞する異常な賛辞を生みだしているのだろう。快適な刺激を与えられた人間は情動を引き起こし冷静な判断を下せなくなるものだ。だが
我々がほんとうに観たいものとは、非日常のなかで演じられる”日常”であるはずだ。仮構のなかでアイドルが自身の日常を千切り取って捨てて行く光景は、救いがなく正視するに耐えないひどく不快な物語にみえるかもしれない。しかし同時に、アイドルが身を置く世界の残酷さや煌やかさを描くことができるのは、異物感をもつ”彼女たち”だけだと覚らされる。儚さ、つまり宿命的に喪失の完成を描く行為のみが、グループアイドルとの成長共有の成立にタッチする、という現実にファンは直面させられるのである。

2019/05/12  楠木

 

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