AKB48 小栗有以 評判記

「2万年に1人の美少女」
小栗有以、平成13年生、AKB48のTeam8のメンバーであり、14代目センター。
次世代ホープ、新センターの称号を持つ、AKB48の、いや、AKBグループのあたらしい主人公への呼び声が高い人物。ファンや作り手から、2万年に1人の美少女、と呼ばれ、並ではない熱意を向けられている。だがそうした誇張された表現よろしくアイドル本人の資質は至って平凡である。
小栗有以という人がこれまでに記したアイドルの物語、そのどの場面を読んでも、ドラマ、MVにおける演技、ライブステージにおける踊りと歌唱表現、インタビューにおける言葉の魅力、それらの情報・資料を蒐集し漁っても、平成のアイドルシーンを決定づけたAKB48のセンターとしての香気、そこに漂うはずの希望に触れることは叶わなかった。夢見る少女の横顔からグループの未来を見出す、という可能性は開かれなかった。
もちろん、「小栗有以」の実態が、傀儡のエース、であるからそう感じるのではない。彼女自身の作り上げた偶像に、衰退・索漠の色の濃い常闇のようなシーンを転覆させるだけの力量が、未来を切り拓く能動性が一つも内在しないから、つまりアイドルの横顔に才能・魅力を感じないから、である。
この人は、とにかく平凡で月並みなアイドルである。ビジュアル、演技力、多様性、物語性…、今日のアイドルシーンにおいてファンをもっとも魅了し得るステータスのほとんどが平均かそれ以下の実力しかなく、存在感に乏しい。しかし、あくまでも「小栗有以」は、少女の成長を倒錯した恋愛=シチュエーションによって歌った『Teacher Teacher』においてセンターに抜擢された日から今日に至るまで、あいも変わらずグループのエースとみなされているようだ。そこに見る埋めがたい溝こそ、今日のAKB48の混迷の証しと云うべきだろうか。とくにビジュアルに対するメディア展開、その過剰なまでの称賛と賛辞には、もはや異様さすら感じる(2万年に1人の美少女、となにやらものすごいことになっている)。本当はだれもそんなふうに思っていないけれど、喜劇を前提にして、アイドルを売り出すためにそういった称賛が作れてしまう点に、なにかグロテスクなものを見る。
ただ、そうした過剰な賛辞に惑わされず、真正面からしっかりとアイドルを眺めることができれば、その平凡なビジュアルにもある程度の魅力が秘められていることに、気づけるかもしれない。
たしかに、余人にはない魅力をそなえたビジュアルだ、とは評し難い。齋藤飛鳥のような高貴さ、とびきりの華をもったアイドルとは比ぶべくもないけれど、日常を演じることへの意志の強さ、つまりアイドルの矜持、のようなものならば、その横顔に見出すことが可能で、そうしたプライドの高さがファンにはチャーミングに映る、という点は、あるいは特筆に値するかもしれない。異なる要素を秤にのせて遊ぶような、思い込みの強い女性特有の沈鬱さもあり、それがアイドルを演じる少女の屈託を醸し出しており、なかなか興味が途絶えない。
もちろん、前田敦子や西野七瀬のようにグループアイドルシーン=群像劇の内に多角的な系譜図を作り出すほどの魅力には程遠い。けれど小栗有以の場合、井口眞緒という喜劇アイドルにそのビジュアルが迎え撃たれ、魅力の在り処が浮き彫りにされるという一種の逆説、冷笑を描き出しており、その点はおもしろく思う。星の数ほどいるアイドルの中から引き上げられ、注目を作るのは、それなりの理由がある、ということなのだろう。
この「小栗有以」というアイドルの内に、平均を凌ぐだけの実力、を探るならば、それはライブ表現力になるだろうか。ステージの上で作る踊りならば、凡庸を凌ぐポテンシャルを感じる。ウィットを欠いた、華奢で弱々しい退屈な日常風景を裏切るように、ステージの上では、大胆な踊りを編み上げる。感情の振動が身体の先端に達するまでけして崩れない、安定性の優れた踊りを彼女は披露する。それが舞台上での存在感の強さにつながっているらしく、ファンは、彼女がいま、ステージのどこで踊っているか、容易に見つけることができる。こうした存在感の出し方は、グループアイドルにとって、ひとつの才能と呼べるだろう。
とはいえ、それだけではやはり、センターの器、とは云えない。
センターというポジションに対し、小栗有以に致命的に欠けているのは、作詞家・秋元康の編み上げる音楽へのなりきり、言わば、演劇表現力、だろう。この人は、兎にも角にも「演技」が不得手で、センスに欠ける。
映像演技一般における表現力については、彼女が過去に出演した舞台、テレビドラマ、ミュージックビデオを眺めれば一目瞭然で、身振り手振りの大げさな、アナクロとしか言いようがないその勘の鈍い芝居はもはや取るに足らないが、それは踊りにおける演技でも変わらない。彼女の踊りをどれだけ眺めても、たとえば平手友梨奈がそうであったように秋元康の記す詩的世界と融和する、つまりアイドルの踊りを眺めることでそのアイドルの物語が辿れる、そのアイドルの物語が語られていく、という憧憬を、一度として叶えない。センターに立つことの、楽曲世界の中央に立つことの感情の機微、メランコリーに始まり、反動、不敵さ、など、主人公に選ばれてしまった人間の孤独感とは無縁であり、次世代アイドルの代表格として、まったくあたらしい物語を、しかし、たしかに過去と連なる物語を描こうとする意志、たとえば平手友梨奈という大きな存在を真正面から受け切る森田ひかるのような、シーンにあたらしい枠組みを作り上げるだけの使命感と行動力、つまりは、アイドルの物語化、への意識がきわめて希薄であり、無関心にすら見える。
総じて、鑑賞者に批評空間を作らせる原動力の欠如したアイドルだ、とみなすべきだろうか。裏を返せば、それでも小栗有以の踊りがそれなりの数のファンに称賛されているということは、それだけ眼力のないファンが増えた、という事実を明るみにし、AKBに魅力がないから眼力のないファンが集まる、眼力のないファンが集まるから、才能のないアイドルが称賛される、という、循環に陥っていることを、この人の踊りは教えている、と云えるかもしれない。たとえばそれは、一人の天才の誕生によって主流の発想が覆されるのではないか、といった、現在の困窮するAKB48におけるセンターに強く求められるであろう憧憬の欠乏によくあらわれている。とにかく現在のAKB48は、ファンのみならず作り手もまた、一人の天才、言わば寵児の出現を願わずに、すでに可能性に対し答えを出し切った、平凡なアイドルを好む傾向にある。ゲーム・チェンジャーの登場を恐れている。その不安の結晶が、柏木由紀であり、また小栗有以なのかもしれない。
才能を持たない人間が周囲に持ち上げられるとき、往々にして”勘違い”が発生するものだ。グループアイドルの場合、センターに立つ資質のない人物が、なにかの間違いで、作り手の気まぐれで、物語の中央に立ってしまうと、本来芽生えるはずのない自意識を獲得してしまうことになる。例えば、わたしがグループを引っ張る、革命を起こす、と。そして、その”勘違い”は本来彼女が輝くはずであったジャンルでの才能をも枯らせ、アイドルから個性を欠落させて行く。今日では、小栗有以をして、渡辺麻友の真の後継者、だとか、王道アイドルの本命と謳うが、それはまったくの誤り、勘違いだろう。渡辺麻友の王道さとは、日常を演じることによって本来の自分を見失ってしまうアイドルゆえの儚さに見るのであって、自分らしさとかAKBらしさを守ろうと鼻息を荒くする小栗とはアイドルの性質がまったく異なる。
小栗有以と類似したアイドルを挙げるとすれば、受動性が命題として重くのしかかるタイプのアイドル、自己の可能性を他者の想像力の一切に委ねるアイドルだとする視点から、たとえば宮脇咲良になるだろうか。小栗有以から批評を作るための原動力を受け取れないのは、宮脇同様に、センターポジション=主人公を意識するあまり、自己の内奥をさらけ出すきっかけを前にしても、潔癖さを守るために”放棄”を選択するからである。しかもその構えすらも、ギニョールのワンシーンに過ぎないのだから、痛々しい。
もちろん、そこに示される、想像の枠からはみ出さない物語の安心感は一定のファンの獲得に成功するのだろう。この人には抜群の純潔さがある。処女性においてファンの信頼を裏切らない、これは今日のシーンにおいてもっとも強く過剰に求められるふるまいであり、信頼感を獲得するための日常の所作なのだろう。また、この純潔さが、ファンに、浅薄にも小栗有以と渡辺麻友を重ねさせるのかもしれない。
すなわち、AKB48のあたらしい時代の主人公と目される少女の物語がきわめて平板で月並みである、という事実は、公式ライバルである乃木坂46のブレイクを前に一つのフィクションを作り上げる、という能動性の欠如を浮き彫りにする。おそらく、AKB48が乃木坂46にシーンの「主流」を奪還され、後日、アイドルファンの多くがその事実を確信した日、AKB48の中央に立っていたアイドルこそ、この小栗有以であり、AKB48を背負う主人公が乃木坂46の主要メンバーに対しまったく歯が立たない、悲観を彼女は証し立ててしまった。
しかしあくまでもAKBグループのあたらしい主人公に選ばれた彼女の、その安心感ある平坦な物語をまえに、ファンは、乃木坂46ひいては坂道シリーズの大ヒットに対し無感動・無関心をつらぬけるようだ。あるいは、無関心である”フリ”を作れるようだ。けれどそれは逆説的に、小栗有以というアイドルがシーンの表通りを歩くアイドルと並ばずに、彼女たちから遠く離れた場所に立つことへの、シーンの主役を演じるアイドルの実力に遠く及ばない登場人物であることの証明になっている。
果たして、小栗有以を眺め、このアイドルが乃木坂の齋藤飛鳥と対等に渡り合えると考えるアイドルファンは、どれだけの数いるだろうか。おそらくは、ほとんどのファンが、勝負などする必要はない、と間の抜けた顔を見せるのではないか。ファンは”推し”に似る、と言われてしまったら、それまでなのだが。
総合評価 52点
問題なくアイドルと呼べる人物
(評価内訳)
ビジュアル 12点 ライブ表現 13点
演劇表現 7点 バラエティ 8点
情動感染 12点
AKB48 (Team 8) 活動期間 2014年~
2020/07/17 再評価・加筆しました
2021/01/23 再評価、加筆しました ビジュアル 11→12