乃木坂46 理想の「選抜」を考える 40th シングル版

「アイドルを演じることは、人生最高の経験になるだろう」
「君はいろいろ悔悟の種を抱え込むことになる」ミスタ・ジョンは以前ニックに言った。
「それは人生最高の経験と言っていい。悔悟するかしないかはいつも自分で決められる。とにかく肝腎なのは、そういうものを抱え込むことだ」
ヘミングウェイ/最後の原野
39枚目シングルのセンターには4期生の賀喜遥香が選ばれた。タイトルは『Same numbers』。数字にかかわる偶然の一致を奇蹟や運命に結びつけ「希望」を歌う、乃木坂46のレジティマシーを汲んだ一曲となっている。オレンジの皮を現実の皮膜にたとえて歌った前作『ネーブルオレンジ』にたいして、今作ではその皮膜を主題に上げることで、現在と過去の間隙にその身を投じようとしている。
センターで歌い踊る賀喜遥香個人の内面を含んだうえでの楽曲評価、音楽としての評価を述べるなら、そもそもなぜアイドルは希望を歌い上げるのか、この問いかけに端を発し、その「希望」の伝達手段として「笑顔」があったのだということを、ある種、童心にかえる形で教える点に今作品の見どころがある。
笑顔の魅力にあふれ出た少女を前にして、ただ虜にされるのではなく――もちろんそうしたファンの純粋な姿にアイドルの本望があるのだろうけれど――、笑顔に魅力があるということは、そのアイドルにとって「笑顔」とは複雑で深い意味をもつのだということを、想像したことがこれまでにあっただろうか。笑顔のほんとうの価値を知っているからこそ魅力的な笑顔を描き出せるのだという当たり前の事実を、考えたことがあったか。
こう問いかけてみると、「アイドルと笑顔」という、語り尽くされた話題であっても、じゅうぶんに成熟した、遠大な憧憬が立ち現れるように思う。たとえばアイドルの側が、人生の暗かった部分、青春の屈託をとおした笑顔を、困難を乗り越えたものとして提示したとき、その笑顔に活力を得る人間もまた、今まさに人生の暗い場面に直面していたと考えられるからだ。自分の暗い部分を、こころの内で茶化して考える人間など、いるはずもない。
翻って、たとえば少女たちは、自分の人生に強い影響を与えた人間が、自分の生活とはほとんど関係のない場面で、かつての輝きをも失い、ほとんど人知れず死んでいくという出来事を経験したことがあるだろうか。その「人」がこの世を去っていった日、そんなことはつゆ知らず、自分はあいも変わらず仲間とバカ騒ぎをしていて、その人が死んだことさえもあとになってから知るような、そうした悔悟を抱いたことがあるだろうか。アイドルを演じ、ファンに笑顔を向けるということは、そのどちらの立場も経験するということだと思う。そういう「人」になる覚悟をもつということなのだと思う。だから、アイドルは、儚く、尊く見えるんじゃないか。
ということで、この「儚さ」を捕らえるべく今回もまた乃木坂の理想の選抜を考えてみる。
理想はイコール予想ではない、ということをあらかじめ付言しておきたい。ここで言う理想は「妄想」と言い換えることができるかもしれない。批評のかなめは「élan(エラン)」すなわち「飛躍」だと言った、フランス文学に精通した編集者がいたが、そのエランの原動力こそ妄想にある。妄想だから、現実にはとても起こり得ない「選抜」に映るだろうけれど、現実から遠く離れて見えるからこそ、それは理想と呼べるのだ。
五百城茉央
写真集にテレビドラマにと着実にキャリアを積んでいる。素朴な少女だと思っていたら、いつのまにか、都会の風に吹かれたデオドラントな女性に。それでも仕草の端々に見るみずみずしさはデビュー当時と変わらないから不思議だ。それも彼女の演技力の賜物なのだろうか。久保史緒里、遠藤さくらに迫る力をもっている。
池田瑛紗
『ネーブルオレンジ』『Same numbers』などを見て分かるとおり、ロマンチックな、耽美にかかった踊りをつくれるようになった。感情を忍ばせる場面と、感情を音楽にひらくべき場面とを、心得ている。6期生に紛れ、若手と変わらないテンションで文章を提示しつづける姿も頼もしい。
一ノ瀬美空
『Same numbers』でフロントに立った。ミュージックビデオでは、過去の自分に現在の自分の心が引き離されないように、感情のせめぎあう人間の表情を、個人的な思惑のなかで上手に描き出している。
伊藤理々杏
小ぶりではあるけれど完成度の高いアイドルを提示している。「演劇の乃木坂」を面目躍如している。
井上和
写真集が大ヒットした。『ネーブルオレンジ』では、中西アルノをアクセントにして生来の主人公感の強さを音楽に打ち立てた。シーンを牽引するアイドルとして盛名を馳せつつ、勝者の倨傲を見せつけている。
岩本蓮加
恋愛スキャンダル後、存在感がない。腐っても鯛と言うべきか、アンダーの中では頭一つふたつ抜けたメンバーだが、自分のファンだけを見つめるアイドルへと堕落しつつある。
梅澤美波
言葉の明晰さ、遠回りした、また時には近道する言葉の感情の使い分け、平易であったり、複雑で深みがあったりする、その言葉の多彩な表現力は、たとえば他のアイドルグループのリーダーやキャプテンの憧憬の的になるべきものだろう。現在のシーンにあって「アイドル」にもっとも通暁した存在だと言い切っても良い。演劇にアイデアを得たであろう踊りと、ビジュアル・イメージへの細やかな気配りは、アイドルの美しさを日々洗練している。キャリアのなかで、常に今がもっとも美しいアイドルであり続けている。
遠藤さくら
実力、才能のいずれも乃木坂にあって随一に思われるが、好不調の波が大きすぎる。『Same numbers』で多少は持ち直した感があるが、『歩道橋』以降、音楽作品において本来の魅力を出し切れていない。
岡本姫奈
『Same numbers』で初の選抜入りを果たした。悟性に感情を沈めた、威厳的な踊りに定評がある。ライブなどで偶然その姿を見かけると、これほどまでに美しいアイドルだったのかと、驚くこともままある。そうした「驚き」が大衆的な評価と結び付けられるものなのか、次回作で真価が問われることになるだろう。
小川彩
幼児性と成熟性を紙一重にしたアイドルとして、独特の様相を帯びている。演技の仕事をとおして改めて自身の日常と、その周りに起きた出来事を仔細にふり返ってみたり、一ノ瀬美空以上に自覚的なアイドルに見えるが、自覚的であることで青春の居所を見失い戸惑っているように見える点がなによりも微笑ましい。こうした少女の屈託が、思春期に立った若者の思料をリードするものであるのは言うまでもない。
奥田いろは
感性を換発させた歌、情熱に走った踊りなど、譲らない個性をもつ。演技=言葉への意識も高い。ファンの眼には直接映らない、「アイドル」と「アイドルを演じる少女」とを結ぶ部分を、感情の鮮度を損なうことなく言葉にして伝えようとするその姿は非常に好感の持てるものだ。
賀喜遥香
グループアイドルのセンター=主人公とはどのような人物を言うのか、この人を眺めればおのずと答えは出るだろう。自分が笑顔でいることの意味を「乃木坂46」へと直接結びつけ「アイドル」の奇蹟力を証すそのモノローグの大胆さ、無垢さは、そのまま音楽のちからとなって、楽曲の世界を押し広げている。
金川紗耶
『不道徳な夏』でアンダーのセンターに選ばれた。時々刻々と変化するシーンにあって踊りをもって安定した評価を得ている。一方で、評価の確立が、役割の固定に転じる汎用性へとつながってしまったきらいもある。
川﨑桜
乃木坂で最も踊りの練達したメンバー。演じる楽曲に応じて、またその楽曲の場面ごとに、多様な表情を描き出す。『Same numbers』では、一口にはとても語れない、一筋縄にはいかない人間感情のけいれんを描き出している。アイドルシーンがつねに抱えてきたエンタメとアートの対決という解決の不可能な問題を、たとえば踊りの内にファムファタルを取り入れたり、素顔の一面を音楽に落とすことで奇蹟的に回避している。
久保史緒里
もはや古色蒼然としたアイドルだというイメージすらあるが、体内の炎がまだ燃え尽きていないらしい点に、まず驚かされる。それはやはり、グループアイドルという境遇のなかで遭遇する、次代を担う才能の出現という出来事に直面しつづけ、なおかつ、それを凌ぎ続けてきたことの、アイドルとしての真髄の開花なのだろう。言葉・作品を通し考えてもらうアイドルから、考えさせるアイドルへと成長を遂げた。
黒見明香
旺盛で、野心の点々とまたたく意外性あるメンバー。「野球」に関わる際のブッキッシュな姿勢も心地良い。
佐藤璃果
岩本蓮加以上に存在感がない。むしろ存在感がない理由に思い当たらないことが深刻だ。
柴田柚菜
『交感神経優位』では演劇と歌唱のチャレンジを作品に両立させた。いつのまにか、アンダー常連になっている。清宮レイ同様に、乃木坂における逆転劇のむずかしさを教える存在だという意味では興味深いメンバー。
菅原咲月
副キャプテンとして、その役割を果たすべく、日々、梅澤美波の立ち居振る舞いに学んでいる。道半ばということで、たとえば歌やダンスなど、かつての梅澤美波とよく似て、動作・表情の硬さなど、弱点を多く残している。言葉に軽妙さを欠く点も目立つ。今後の成長に期待。
田村真佑
総合力の高いアイドル、また平均値の高さにとどまらず、笑顔を媚びに傾けることで個性を強く出すアイドルだが、新表題作においては楽曲構成への当為になりえないメンバーだと、作り手に判断されたようだ。――あとづけ、こじつけでしかないが――たしかに、『Same numbers』のMVを見ると、その作風は田村のイメージにはそぐわないものであるように感じる。そうした意味では、弱点がないようで弱点の多いメンバーなのかもしれない。
筒井あやめ
マイペースに、歩調を乱すことなくアイドルを演じている。写真集では、視線のうつくしいアイドルを見せつけた。欲を言えば、プライドを破り野心をむき出しにするような、感情の強烈な一面を音楽作品を通して見てみたい。
冨里奈央
音楽作品における影の薄さには釈然としないが、無邪気さと美貌のらんまんした踊りは捨てがたい。
中西アルノ
『ネーブルオレンジ』では、現実の歩みが、いつのまにか仮想の歩みへと取り替えられてしまうような、ともすれば現実への帰還を許さない、現実を平板なものに変えてしまう、魅惑的な世界を音楽の内に広げたが、その仮想空間で踊るアイドルたち、特に中西アルノの踊りの表情、口を結び微笑む、可憐で、艶のある姿は、聴き手の心に深く入り込み個人的な痕跡を残すほどに「印象」として優れたものに感じる。「アイドル」のテーマに夢や希望があるのだとして、中西アルノは、ファンの寝てみる夢にじかに登場するような、本来的な力を有している。
林瑠奈
平手友梨奈を意識しているのか、それともただ単に似ているだけなのか、わからないが、アイドルのビジュアルに中庸さが濃く出てきた。その中庸さにかもし出されたであろうナルシストな一面が、吉と出るか凶と出るか。 
松尾美佑
ファンに期待される場面であっさりと空振りしてしまう点はあい変わらずのようだ。そうした間の抜けた部分を”愛せる”かどうかが「推す」という言葉の岐路になっているという意味では、ハードルの高いメンバーと云える。
矢久保美緒
基本に忠実に、しかし一定のこだわりをもって一貫してダンスを作り上げている点、どの楽曲でも抜かりなくステージに望んでいる点はかなり好感が持てる。
弓木奈於
この人も存在感がない。存在感がないということは、人気がないということだが、アイドル本人もそれを痛感しているようだ。乃木坂で人気者になるためには、美しくなければならない。アイドルの美とは、歌や踊りを鍛え、音楽のなかで、ステージの上で輝くイデアルにある。弓木はその条件をその身をもって再提議している。
吉田綾乃クリスティー
固陋なアイドルとしてむしろ存在感をいや増している。敗者の倨傲などと言ったら一笑に付されるくらいヌエの境地に達した笑顔をファンに差し向けている。
愛宕心響
山崎怜奈によく似ている。言葉の調子から表情のつくり方までよく似通っている。顔が似ていると、行動も似るということなのだろうか。だとすれば末恐ろしい存在だ。
大越ひなの
世に通じた人に見える。アイドルになった自分と、アイドルになる前の自分を接続することで現れる感情がそのまま「アイドル」を意味することになるという点で乃木坂らしいメンバーと云える。もちろんこれは6期生のほとんどに言えることだろうけれど、大越ひなのはその傾向が顕著に感じる。
小津玲奈
休業中のため除外。
海邉朱莉
目の表情が良い。歌が話題らしいけれど、演技も取るに足るアイドルだと感じる。
川端晃菜
おそらくファンだけでなく作り手のこころをも満たす、乃木坂46の初めての「子供」ということになるだろうか。自分たちが作り上げたアイドルグループに強い影響を受けながら育った少女をメンバーに迎え入れその成長を見守ることは、作り手にこれ以上ない興奮・喜びをもたらすだろう。
鈴木佑捺
穏やかな外見と、感情が湧きあがった際の落差が特徴的。インタビューや文章においても、言葉にしっかりと息づかいがある。コアなファンに受けるタイプのアイドル。
瀬戸口心月
素朴さとエロティックというギャップのわかりやすいスタイルを武器に人気を博している。
長嶋凛桜
アイドルを演じることの歩幅の大きさ、発熱した前傾姿勢が印象的。
増田三莉音
乃木坂の地に天降った、あらたな主人公。
森平麗心
ビジュアル良し、度胸良しの情操高き少女。
矢田萌華
生い立ちではなく、アイドルの像として「季節」を強く想わせるという意味で、6期のフラグシップ的なメンバー。これまでの乃木坂にはなかったタイプのアイドルとして、これまでのグループには見られなかった美を投げている。その美貌に反し、まだ17歳と若く、増田三莉音とは異なる方向性で高い可能性を示している。
よって、私が考える理想の「選抜」は以下のようになった。40thシングルのセンターには増田三莉音を選んだ。

3列目:五百城茉央、奥田いろは、森平麗心、池田瑛紗、筒井あやめ、冨里奈央、梅澤美波
2列目:遠藤さくら、井上和、小川彩、川﨑桜、矢田萌華、久保史緒里
1列目:賀喜遥香、増田三莉音、中西アルノ
2025/07/20 楠木かなえ

