僕が見たかった青空の『FUNKY SUMMER』を聴いた感想

僕が見たかった青空, 座談会

(C)FUNKYSUMMER ミュージックビデオ

「アイドルの可能性を考える 第六十八回」

メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:写真家・カメラマン。

「若者にとっての『昭和』は、あり得たかもしれない未来像」

楠木:脚本を書くことが多くなって今更ながら痛感したのは、やっぱり嘘をつくこと、フィクションを作ることって、ものすごくワクワクすることなんですね。世界を自分の思い通りにできちゃう。僕は自分の体験をベースに物語をつくるタイプなので、自分の人生では起きなかったパターンをどんどん書いていく。それが最終的に映像=作品になるのがすごく楽しい。現実に復讐してるような感覚です(笑)。僕は、批評よりも創作のほうが向いているのかも。批評はどうしても現実と対峙しなきゃならないから。
横森:帚木蓬生がさ、実在する人物を小説内に書いて、その扱いが問題になったじゃない?小説も現実を持ち込むとなるとなにかと問題が起きて大変だよね。
楠木:あれは名前を変えればそれで済む話だと思う。でもきっと、妥協することができなかったんだろうね。
島:編集者の責任が大きいですよ。作家は編集者に向けて書いていると言い切ってもいいくらいで。もちろん、文章の責任は作家にあるんでしょうが、それを世に出すのは出版社なので。
楠木:僕のやり方は、まずモデルにした人物の本名で書いていって、書き上げたあとに架空のものに変えますね。でもたしかに、変える瞬間、なにか大切なものがすっと消えていくような感覚はあります。というのも、文章は文字を追っていくわけだから、名前そのものがある種、記号的にもその人物を表しているので、その記号を変えるというのは、大変なことなんですね。
島:アイドルに着想を得た登場人物ってこれまでにいるんですか?
楠木:それがややこしい点で、横森に下読みさせるときに、名前がアイドルと同じだった場合、横森はそれをアイドルをモデルにしていると言うんですね。たとえば「ヨウコ」だとまず間違いなく正源司陽子を想起するはずです。だから、誤解されたくないので「ヨウコ」が使いたくても少し変えて「ケイコ」にするとかね、そういうことがある。僕の私生活では、幼馴染に「ヨウコ」という名の子がいる。でもそれは使えないし、幼馴染に「ヨウコ」という名の子がいるから、正源司陽子を高く評価したわけでも決してないんだけど、でもこういう情報を出した瞬間に誤解されるのは必然ですよね。だから名前のもつ力というのは途轍もなく大きいんです。しかしアイドルはたくさんいますから、名前が被らないようにするだけで一苦労なんですよ(笑)。
横森:アイドルを現実=仕事に持ち込まないっていうスタンスに一貫しているよね(笑)。
楠木:というか、僕はロマン・ガリーのようなことをやりたいだけなので。
島:僕が興味があるのは、脚本を書くことが批評にどのように影響しているのかという点です。
楠木:話が戻りますが、やっぱり批評は脚本と比べると制限が多いように感じますね。文体にしても。あと、これは意味が変わりますが、脚本を書くことで単純に批評を書く時間が減りました。そういう意味での影響がいちばん大きいです、いまのところは。書かないってことは、それだけ力が落ちるってことですから。しかも僕はいま、小説を書きたいとも思っているので。これは脚本と違って、商売じゃなく、自分のためだけに、自分が読みたいと思う、トーマス・マンのような、時代錯誤な小説ですね、そういうのを一本、書いてみたい。たとえば『魔の山』のスタイルって脚本と似ている部分があって、断章的ではないんだけれど、章の切り替えがそのまま地続きにされた場面の切り替えにされている。場面が地続きになっているとき、どのように話題を変えるのか、メリハリをつけるのか、という問題を、章を変えることで対応している。たしかにこれは目新しいものではないし、これが当たり前に感じるとすれば、テレビドラマや映画といった映像作品に僕たちが慣れきっているからです。映像を暗転させれば、同じ場面であっても、次の展開に移ったことを視聴者は無意識に感じることができる。文字でそれをやるとなると、文字で説明するのではなく、章を変えるのが手っ取り早い。福田和也は向田邦子の文章を引いて、場面の切り替えに一行を空けて書くという脚本家としての技術は実は小説の初心者に真似しやすいものだというようなことを言っていた。実際に脚本を書いてみて、それで小説を構想してみると、たしかに、それがよくわかる。一行を空ける、章を変える、これは場面展開を容易にするので、書きやすいんですね。
横森:今、小説を書くとなると、AIの世界をどう落とし込むかってことなんだろうな。SFってことでもなく。
楠木:AIの世界を物語りたいなら、パラフレーズの世界=ありふれた言い回しだけの世界を物語ればいい。AIは誰かの言葉を直接的に換言して出力しているわけだから、いずれ平易な言葉に収束するはず。
横森:それって、なにげに貴重なアドバイスになってるよね。
楠木:どうもAIの影響で執筆依頼が増加したような気がするんだよね。チャットAIの登場以前にデビューしている作家というだけで信頼があるのかな。いつもなら、ゴールデンウィークはフランスなりなんなりに遊びに行くんだけど、今年はずっと仕事でした。そう考えると、これからデビューする作家は気の毒だね。本人の主張とは無関係に、AIのちからを借りた作家というふうにどうしても見られてしまう。まあ読者からすれば作品に魅力があれば良いのであって、AIを使っていようがいまいが関係ないのですが。
島:人間とAIの文章の大きな違いってもうないですよね。
横森:考えてみれば、AIは「パターン」だから、違いはありえないんだよね。違いがあるとすれば、できあがったものをどう読むかという点だろうな。この点では人間と並ばないかな。だって人間は生きているから、読むたびに作品の色を変えることができる。AIは生きていないから、それができない。「パターン」でAIの回答が変わるのとはまったく別だね。極端な例を出せば、小説は、死ぬ間際に読むのと、青春の盛りに読むのとでは、作品の風景がまったく変わる。それが作家が自分の作品に求める姿だろうし。
楠木:マーティン・ジマーマンという脚本家がいるんだけど、この人は脚本ができたら役者に電話して、君は死ぬことになった、と告げるらしいんですよ。これは凄まじいことだと思うね。フィクションにおいて生きるとか死ぬってことを現実に当たり前に持ち込んでいる。
島:見方を変えれば、役者にとっての人生の「IF」にしているということですよね(笑)。
横森:「IF」と言うよりはデジャブに近い。幻想=フィクションっていうのはデジャブと表現しても良いと思うんだよね、俺は。要は、脳が情報の処理をミスして起こる出来事じゃなくて、光の情報を覚醒的に処理して起こっているっていう解釈で、これは、俺はカメラに限定されない無垢な視点だと思う。
楠木:光の記憶というのを考えると、たとえば赤ちゃんが前世の誰かの記憶を持っているということがある場合、それは生まれ変わりではなく、赤ちゃんが光の中から誰かの情報を見たというだけのことなんじゃないか。僕はこれは、芸術における表現では、レトロフューチャーなんかも結局は同じことだと思っているんだよね。過去の人の理想=記憶を見ているわけだから。たとえば昭和レトロというのは本来レトロフューチャーであるべきなんですね。歌にしろ何にしろ。坂倉準三の作品を見ればよくわかるんじゃないかな。昭和と聞くと頭ごなしに否定する、発想の固い人間が多いように見えますが、僕らは昭和をほとんど知らないわけだから、それをあり得た未来像として見てもいいわけです。昭和を実体験として知らない世代にとって、昭和レトロは、単なる「過去の再現」ではなく、今の日常とは別の理屈で動いている、もう一つの世界つまりパラレルワールドのように映っているという側面があります。つまり真にレトロフューチャーということです。
島:それを音楽でやろうとすると、そうとう難易度が高いのでは?建築とは比べ物にならないくらい。
横森:そうかな?音楽だってミュージックビデオがあるからね。
楠木:音楽だけでも問題なくできるよ。たとえば「僕が見たかった青空」の新曲はどことなくではあるけれどレトロフューチャーな印象を作っている。この「どことなく」というのが肝腎で、レトロのなかに若者がしっかり立っていて、それが音楽になっているんだね。間違いなく今年の当作に入ると思う。
横森:『FUNKY SUMMER』は曲が良いね。『卒業まで』は批評家連中やコアなファンには受けが良いものの、ライトなファンにはいまいちだった。そこが改善されたように見える。でも、MVはもうひとつかな。
島:池田一真を口説けば良いんですよ。
横森:伊藤衆人とかね、まあ難しいんだろうな。
楠木:作品数はそこまで多くないけれど、横堀光範はその二人と並ぶくらい才能があるだろうね。柳沢翔とか、別格な作家もいるので、そういう人をどうにかしてもう一度アイドルシーンに引っ張ってこれたらね。
横森:アイドル界隈でもしがらみがあるのかね、文壇みたいに(笑)。
島:異なるグループでやったほうが作家としては成長しますよね。新潮と文藝春秋じゃ、おなじ作家でも作風が大きく変わるじゃないですか。そういうのと同じで。
横森:しかしこのグループは話題がないね。新曲が出たときくらいしか。
楠木:それはほかのグループでも同じだよ。
島:ダンス動画で点数をつけるやつは面白かったですけどね。
楠木:あれはボイスレコーダーから書き起こして記事にするのがすごく大変だったので、頻繁にはできないですね(笑)。座談会の記事って一回読まれたら基本的にはもう読み返されないので、労力に見合わないというか。
横森:「僕が見たかった青空」はダンスに力を入れているグループだろうから、面白そうだけどね。
島:このビデオを見る限りでは、そういう部分があまり出ていないですね。
楠木:岩本理瑚かな?ジャンプしてベンチに座るシーンがありますが、これって真似しようにもできないことだと思うんですね。なかなか凄いことをやっているんだろうけど、なんというか、意味のない部分で凄いというか。このグループの経緯が凝集してよく出ているというか。
横森:このグループが苦戦している理由はもうはっきりした。乃木坂と比べると、たとえば白石麻衣や齋藤飛鳥みたいなビジュアルに力のある子がいない点が大きいんじゃないかな。めちゃくちゃ可愛い子がいないのに、おそらく、グループのファンはそうとは思っていないって点も大きい。世間とまではいかないが、乃木坂っていう超メジャーなグループのヲタクの審美眼とズレていることが、そのまま人気の差になっている。乃木坂のファンから見て可愛いと思えるメンバーが一人もいないからファンが流れてこない。
楠木:吉本此那だけは乃木坂と同じ水準にあると思う。乃木坂のトップ層と並べても遜色ない美意識のなかに立っている。乃木坂とは異なった、別の魅力がある、乃木坂にはできないことをやっているという意味では、八木仁愛、工藤唯愛、杉浦英恋などが独自的に見える。金澤亜美は……どちらとも言えない。見れば見るほど西野七瀬ですね(笑)。乃木坂にいてもおかしくないし、いるはずもないし。別格ですかね、やっぱり。そういう意味でも西野七瀬に似ています。乃木坂らしくないということが乃木坂らしさという意味になっているという意味で。西野七瀬以降、西野七瀬みたいなメンバーが乃木坂にすら1人も登場していない。そう考えると貴重な存在です。レトロフューチャーという言葉をさきほど使ったけれど、金澤亜美はレトロな印象が強い。いまさら西野七瀬を引っ張り出してきてどうするんだよ、という声が、そのまま音楽の作風に落とし込まれている。西野七瀬の面影をまえに、ありえたかもしれない未来、過去のもうひとつの続き、続編を見てしまう。過去のパーツを組み替えて、現在にはない別の可能性を構築する作業は、人間が持つであろう想像力の最も強い使い方だと思う。そういう意味では『FUNKY SUMMER』は壺にはまっているように感じる。金澤亜美を考えることは「僕が見たかった青空」を考えることにつながる、そういう状況になった際には、重要な位置を占めるんじゃないかな。


2026/05/16 楠木かなえ