アイドル批評の書き方

座談会

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「アイドルの可能性を考える 第六十七回」

メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。

横森:写真家・カメラマン。

「現実にはあり得ないことを、現実にあり得るものとして描き出す」

2時過ぎに窓の外を見ると、太った黒猫がベランダの手すりに乗って、部屋の中をのぞき込んでいた。青年は窓を開けて、退屈しのぎに猫に声をかけた。
「よう、猫くん。今日はいい天気だな」
「そうだね、ホシノちゃん」と猫は返事をかえした。

海辺のカフカ / 村上春樹

楠木:アイドル批評にかんしては、8年ですか、それくらい書いて、ようやく一区切りついたというか、脚本家的に言えば、チャプター1が終わったというか。パーカーの『ボルドー』、福田和也の『作家の値うち』を出発点にしてアイドルへの批評を書き始めたわけだけれど、まず最初にぶつかったのは、ワインや小説を眺めるのとおなじノリで批評しても、どうにも違和感がある、言葉の響きに滑稽さがある、つまり対象に、つまり「アイドル」というものに重みがないことがわかった。そこで世に出版されているアイドル批評なるものを読んでみるんだけど、どうにも僕が考えるいわゆる言葉の批評、つまり文芸批評ですね、とくにクリティックにはほど遠くて、どうやらアイドルシーンには批評家と呼べる人間がいないということがわかった。もちろん、それは今も変わりません。そこで自分の立場、言い換えれば、アイドル批評の立場を明確にしようと考えたわけです。僕は、今、アイドル批評をやるというのは、たとえばロラン・バルトの『神話作用』と同じだと考えました。プロレス、ストリップ、洗剤の広告といった低俗なものを、あたかもギリシャ神話や高度な古典を分析するかのように緻密な論理で批評したバルトの真意を端的にとらえれば、単にそれは、その対象が好きだからというのではなく、自分の知性を試したいから、というだけにすぎない。たとえば文芸批評として、ハイデガーやカエサルを語るよりも、小説や映画といった娯楽品、目の前のアイドルを語る方が、ある観点では、はるかに難易度が高いんですね。とりわけアイドルなどは、対象に威厳がなく、言葉として、意味が強固にされていない。その重みがないものに強引に価値を乗せて、論理を崩さずに記述しきることは、批評家としての卓越した技量を示す絶好の機会になりえる。批評になじみのない読者には、これは不純だと思われるかもしれないが、でも、そうした高度な知的訓練を経て、小説や映画は批評における「市民権」を得たんです。今日の社会において、小説や映画、ジャズやロックなどの音楽だってそうですが、これらを批評する行為に、ためらいがないのは、先人たちの筆力の賜物なんです。プロレスも、今日では、批評してもさして笑われることはないでしょう。でもアイドルはちがう。たしかに宝塚少女歌劇や、1970年代当時のアイドルならば、あるいは威厳があるかもしれないが、平成以降のアイドル、「モーニング娘。」「AKB48」「乃木坂46」、つまりグループアイドルを語ることは、ストリップを語ることと未だ変わりない。洗剤やらストリップやらを大真面目に語る人間を、どうして笑わずにいられるだろうか。とりあえずこれが現在の「アイドル批評」の立場ということになる。
横森:バルトはSNS時代を先回りしていたと思うんだよね。掲示板なんかもそうだけど、「批評」を語るべきではない場所で批評を展開してしまう滑稽さ、みっともなさみたいなのがそこかしこにあるじゃない?かしこぶった口を利いて、語尾に「である」を付けてみたり、場違いに批評ごっこをする人間に感じる滑稽さが「批評」をするという行為へのハードルになっている。そのハードルを考えたのが『神話作用』なんじゃないか。
島:バルトのミトロジー・批判を一般的に整理すると、神話とは、特定の時代背景で作られたルール=歴史を、当たり前の自然現象であるかのように錯覚させることを指す。物語の結末部分ではなく物語の起伏が神話を作っている。プロレスはわかりやすいですね。結果よりも過程に意味がある。これは「成長」に価値を求めるアイドルにも引用できるはずですが、言われてみれば、それは批評におけるクリティックでもあるんですね。
横森:バルトと小林秀雄の対峙に口出しする気はないけど、クリティックということなら、江藤淳はやっぱり無視できないんじゃないか。江藤淳にエポックを認めるなら、それは小説世界に現代の背景があるっていう読み方の啓蒙が一般的なんだろうが、それよりも、私情に説得力をもたらすことが批評たり得るというのを成立させた筆力にあると思うんだよね。とは言っても批評は何も気持ちの悪いものであるべきだとは思わない。ただアイドルってジャンルを考えると、そこにある私情ってのは、やっぱり気持ちが悪いものになるんじゃないのかな。
楠木:アイドルの言動を眺めていると、どうやらアイドルから見たファンというのは気持ちの悪いものであるらしい。ヲタクというイメージを超えて、よりリアルに気持ち悪いんだと思うんですね。しかも、アイドルがファンを気持ち悪いものだと堂々と表明することが、ファンにとってはネガティブに映らない。むしろファンはそれを喜んでいるフシがある。そうなると、ただ気持ちの悪い視点を描き出しても、批評としては弱いんだと思う。だから、アイドルが、ファンは自分たちのことをこう見ているのか、という視点を描き出す際に、ひどく薄気味の悪いイメージを描き出さなきゃならないと僕は思うわけです。そうなると、たとえば、グループアイドルの最大の魅力に「他人のそら似」があるとして、自分の過去の恋人に似ているというだけじゃロマンチックから出ないので、その恋人の子供のようだ、と書いたらどうだろうか。これはなかり薄気味悪いし、でも幻想もある。しかし肝心なのは、そういった思料を僕にどうやって、どのアイドルがもたらすのか、もたらしたのか、という点にある。要するに、過去の恋人の子供のようだ、という文言が先にあったわけではなく、あるアイドルを眺めていて、そういうことが頭に浮かんだということが、大事なわけです。そして、どのようなときにそれが浮かんだのか。それはアイドルの「美」を考えているときに起こったのだけれど、それなら僕は、やっぱりアイドルというのは「美」が最も高い価値になるんじゃないかと考えていくわけですね。最近、乃木坂の現役メンバーを並べて、ビジュアルについて一人ひとり評価してみた。これはわかりやすく言葉の訓練、知的教養、眼力を養う行為だったと思います。アイドル批評をやるなら、まず、美について考えをめぐらせなきゃ、始まらないんでしょう。でも、もっと大事なのは、「アイドルにしかできないこと」を考えることだと思います。たとえば、「小説にしかできないこと」とは何でしょうか。それはおそらく想像させること、映像は、そこにある物をすべて映し出してしまいますが、文字ではそうはいかない。そうはいかないことが、想像の余地をあたえ、物語の可能性を無限に広げます。じゃあ、映像、たとえば「ゲームにしかできないこと」は何でしょうか。仮想の体験でしょうか。それよりも、自分で操作しているのにも関わらず、キャラクターが倒れてしまったら、プレイヤーはそのキャラクターに向けて、怒ったり、呆れたり、悲しんだりしてしまう、ということがある。これはおそらくゲームにしか起きないことです。ではアイドルはどうか。アイドルというのは、人が成長することの魅力を職業化したものだと現代的には定義されている。これはアイドルという言葉がもつ本来の意味の一部にすぎないが、一旦は、ここでそう定義する。成長する姿、ということは、そこにあるのは成長する前の姿であるから、当然それは未熟だったり幼稚だったりする。この幼稚という部分から発せられるもの、幼稚でなければ発し得ないものはなにか。たとえば代表的なのは、高橋みなみの「努力は必ず報われる」というのがありますね。要するに、現実にはほとんどありえないと思われることを、現実に当然にあり得るのだとするその姿勢が、アイドルの魅力をもっとも鮮明に伝え得るんだと思う。アイドルくらいは、時代に囚われず、そうした純粋で無垢な言葉を発して良いんじゃないか。そこにアイドルの存在理由みたいなのがあるんじゃないか。現実にはあり得ないのに、しかしそれを現実のものとして映す、これは「幻想」と表現すべきかもしれません。だから、アイドルは幻想的であるべきだと僕は唱えつづけているし、そういう少女こそアイドルだと云うことが、アイドル批評をつくるんだと思います。


2026/04/25 楠木かなえ