「アイドルの値打ち」の使い方 ライブ表現力 編
「アイドルの可能性を考える 第二十回 「アイドルの値打ち」の使い方 ライブ表現力 編」
メンバー
楠木:批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。
今回は、アイドルのライブ表現力について、触れた。
「偶然と整合性」
(相場における)テクニカルというのは過去の値動きを元にしてあれこれ考えて線を引いていくツール、都合よく言い換えれば過去の情報をもとに未来を予測するツールです。つまりテクニカルそのものが未来を決定することはまずあり得ない。あくまでも過去の傾向から未来を予測するにすぎない。テクニカルが現実に打撃を与えることはあり得ませんから、レートがテクニカルに影響されることはない。もちろんローソク足にはじまり一目均衡表や移動平均線の200日線、ピボットなど一部のメジャーなテクニカルに限定すれば、それらをチャート上に表示しているトレーダーはそれなりの数存在するでしょうから多少は値動きに影響している可能性はありますが、それが大勢に影響することはまずあり得ない。わかりやすく言えば、価格が200日線を下から上に突き抜けた、だからここからさらに上がっていくだろう、とか、200日線に支えられて下降が終わった、とか、そうした捉え方はズレている、ということです。価格が上がるのはあくまでも現実の働きかけであって、過去の集積である200日線に反応して価格が決まるわけではない。とはいえ、実際にはこれまでも、これからも個人トレーダーはテクニカルを頼りにトレードし相場から金を引き出していく。じゃあそれはなぜ可能なのか、考えると、答えは明白で、200日線に価格が接近した際に、現実世界でかならずなにかが起きるから、です。
テクニカルが未来を決めるというのはあり得ない。しかし同時に、テクニカル上で重要なポイントに価格が到達した際に、現実世界において偶然なにかが起きる。たとえば、最近ならドル円が200日線に回帰した直後、シリコンバレー銀行経営破綻のニュースが流れた。そういうオカルトじみた現象が無視できないレベルで起きる。当然、チャート上では200日線に価格が反応して動いたような絵ができあがっている。
ここが興味深い点で、理由はどうであれ過去チャートを検証すると200日線を前にして価格がアクションすることが多いという優位性がたしかに認められる。しかしその時々の値動きの理由を探ると、テクニカルが意識されたのではなく、その時々で世界で相場に影響を及ぼすニュースが流れていた、つまり偶然にすぎない。しかしその偶然がことごとく200日線の付近で起きているならば200日線をあえて無視する必要はない、200日線に価格が接近したらトレードを考える、つまり、テクニカルを頼りにしてトレードをする、という行動が生まれる。テクニカルが未来を決めるなんてことはあり得ないという現実の感覚のなかで、しかしテクニカルで未来を読もうと試みるという、倒錯が生まれる。
これは小説もおなじことで、過去の集積=テクニカルをフィクションにあてはめて考えれば、現実は現実の働きかけによって現実を作っていくわけだけど、現実を作るイベントが発生したとき、そこにはフィクションがすでにあってフィクションが現実を迎え撃っているかのように見えるときがある。しかしそれはフィクションを情報として取り入れた人間がそのとおりに現実再現したのではなく、フィクションが置かれた場所で偶然それと同じことが現実で起きたにすぎない。今、僕の関心は、この「偶然」をどう捉えるのか、というところにある。どうやら、才能のある作家はこの「偶然」を物語の内に起こせてしまう、ようだ。
楠木:これ、例の三茶の勉強会で僕が準備した課題なんだけど、この「偶然」はアイドルを語る際にも効力を失わないんじゃないか。とくに楽曲とアイドルの関係性つまり歌や踊りですね。
OLE:それはもう偶然ではなくて必然と言えるんじゃないのか。小説を起こしていくなら、その物語の中では必ず何かイベントが起きなくちゃいけない。ならそれは必然でしかあり得ない。
楠木:観察者効果、と表現すべきか。必然になってしまうとそこではもう何も起きないんですね。あくまでも偶然なにかが起きるかもしれないという気配、今回はなにも起きないだろうという予感があるから、そこでなにかが必ず起きるわけです。
横森:マーフィーの法則=茶番にしか聞こえないけど(笑)。
島:文章で言うところの整合性のことですよね。
OLE:整合性を取る必要があるのは研究者だからね。小説や批評はまたちょっと性格が違う。
楠木:とはいえ、新潮の新人賞で整合性を問題にされて落とされちゃった人もいるんですよ。
OLE:作家が意図的にやっているなら問題ないと判断されるんじゃないのかな。
横森:それ、読者に関係ある?
島:作為的であったり無作為であったりする点はさして意識されないと思いますよ。小林秀雄の『モオツァルト』なんかは専門家に言わせればめちゃくちゃらしい。でも『モオツァルト』は日本の音楽批評のバイブルですよね。『モオツァルト』を読まずに音楽批評を書いている作家なんて一人もいないでしょう。
楠木:僕は、矛盾したこと、よく書きます。上の段で断定したことを次の段で裏切る。しかもその裏切りって書きながらの裏切りで、最初は裏切るつもりなんてなかったんだけど、書きながらつい裏切ってしまった。ならそれは変えずにおこう、と意図的にやります。それが功を奏するのか、僕にはわかりませんが。これはあるいはアマチュア精神かもしれない。整合性といえば、最近、文字起こし機能付きのボイスレコーダーを買ってそれを使ってるんだけど、いまいちですね。ボイスレコーダーが起こした文字を読みながら文章にかえるって、やってみるとすごく作業的になってしまって、つまらない。従来の、録音を聴きながら自分の言葉=文章にかえていく方がおもしろいし、記事としてもおもしろいものができる。それはやっぱり整合性なんだとおもう。
OLE:インタビューなどの文字起こしって似顔絵描きのようなセンスがいるからね。対象のキャラクターを理解してそれをうまく引き出すような文章・言葉にしないといけない。記録した話し言葉をそのまま文字に起こすだけでは記者・ライターは名乗れない。それじゃライター・記者という役割を担っていない。記者には作家性が求められる。
楠木:そういえば、ルバテ、ガルシア・マルケスから帚木蓬生まで、記者から作家に転身した人間って時代背景を問わず、多い。まあこれは偶然ではなく必然なんだろうけど。
横森:『モオツァルト』に話を戻せば、あれは批評であると同時に伝記でもあるんだよね。これも整合性だよね。
OLE:文体が伝記を想わせてそれを作るんだろうね。100年後、読者の多くは『モオツァルト』をモーツァルトの伝記として読むのかもね。そういう意味では『アイドルの値打ち』も伝記なんだよな。文体でアイドルを語っていくところとか。射程の長さとか。
楠木:評判記=批評、つまり物語をそのまま「伝説」と変換するのは乱暴ではあるけれど、ある物語が伝説になる、ある人物が伝説になる場合って、往々にして、実像からはなれた偶像で、ぬれぎぬを着せられたり英雄に仕立て上げられたり、している。でもその伝説=フィクションがなぜ編まれていったのか、考えることがその人物の内奥への接近を許したりもする。評判記、批評を書く人間がそうした甘えをもつことは許されないのだろうけれど、読む側が情報の精度を過剰に気にするような文章を書くこともまた避けなくてはならないのかもしれない。小林秀雄の『モオツァルト』に対して情報の誤り、つまり整合性の有無を指摘するのは批評の読み方としては僕はもったいないと思ってしまう。
横森:『アイドルの値打ち』を伝記として捉えて読むと乃木坂の4期が一番好き嫌いのフィクションができあがってるよね。4期が一番登場人物の性格付けができていて物語性があるよ。結婚するなら田村真佑、激しい恋愛をしたいのは遠藤さくら、放っておけない幼馴染・賀喜遥香、でも現実に好きなのは筒井あやめ(笑)。
「秋元康を天才たらしめる中西アルノ」
OLE:最近なら、中西アルノの過去と対峙する大衆の関心が『Actually…』のミュージックビデオにおいて迎撃された一致もまたこの「偶然」として語れなくもないよね。必然としての仕掛けなのか、まったくの偶然なのか、という。細かい時系列は作り手にしかわからないんだけど、もしMVを企画したあとに彼女の過去が無視できない問題として挙がってきたのだとすれば、フィクションと現実の偶会だよね。
横森:仕掛けでしょ。
島:もし仕掛けではないとすると、作り手が一番驚いているでしょうね(笑)。
楠木:仕掛けなのかどうかを考えることは幼稚すぎて意味を感じないんだけど、仮に、仕掛けではないとして、それで「偶然」が起きたのなら、作り手のなかで中西アルノというアイドルは別格の存在感を放つでしょうね。齋藤飛鳥が「偶然」というのを強めて言っていたと思うけど、あくまでもフィクションだ、って。ああいうのを聞くと純粋な読者なんだなって思うよね。純粋に小説を読んでいる人なんだな、って。文章を書くようになるとそうはいかないからね。現実とフィクションを切り離して捉えることはどうやら不可能らしい、と想到することになる。だからフィクションと現実がぶつかり合う場面、つまりこの「偶然」というのは注目してしまうし価値があるんだね。
横森:逆に、狙って「偶然」を書こうとするって、これ以上の無能さはないよね。
OLE:紙一重なんだよな。仕掛けではないとすれば作り手にとって中西アルノというアイドルは自分たちの才能を証してくれる存在ということになる。これは大きいよ。
楠木:作り手、と書きますから、天才を描くべきですよね。そして描き出した天才がその作り手の内にある天与の才を証明するわけです。どんなアイドルでも作り手の思惑次第では「天才」として描ける、というわけではないんですね。
横森:『絶望の一秒前』もね、あれはセンターが井上和だけどさ、どう考えても中西アルノが原動力だよね。
楠木:なら中西アルノに運がなくて井上和に運があった、というだけのことだよ。
OLE:失敗してるよね、この点は。絶対に中西アルノセンターでやるべきだった楽曲でしょう。
横森:『Actually…』って中西アルノである必要がないよね。
OLE:あれは誰にも合わないから。
横森:アートとしては完全に失敗してる。
OLE:逆かもよ。
島:「着想」は一人いればそれでもう事足りるんですよ。中西アルノさえいれば5期生は楽曲に困らない。中西アルノを原動力にして秋元康が曲を書く。運営がそれを他のアイドルに渡す。分担する。合理的ですよこれ。
OLE:そう考えると結局平手友梨奈=天才に着地するんだよな。着想としての「平手友梨奈」が少しずつ枯れてきて、それを現実に呼び戻したのが中西アルノ。ならやっぱり中西アルノは天才なんでしょう。
楠木:秋元康が天才であることを裏付ける存在ですね。
横森:5期生楽曲の質って欅坂に比肩するからね。秋元康のやる気が違うでしょ。これを狙ってやったのだとしたら、乃木坂の運営にはものすごく頭のキレる奴がいる(笑)。
楠木:『心にもないこと』は池田瑛紗と通い合っているように思えるけどなあ。
横森:それは皮肉にしか聞こえない(笑)。
「ダサくならない石田千穂」
楠木:渡辺美優紀、門脇実優奈、生駒里奈、西野七瀬、生田絵梨花、大園桃子、平手友梨奈などの過去のアイドルをふくめてダンスランキングを作るとしたらどうなるか、という質問が読者からあったんだけど、そうした、勇将並び立たず、を崩していくときにもまた、フィクションと現実の偶会、という視点は役立つんじゃないか。踊りのなかで起こりうる「偶然」ですね、これを考えることはアイドル鑑賞の幅を広げるんじゃないか。
島:その7名に加え、村山彩希、本間日陽、齋藤飛鳥、清司麗菜、石田千穂ですか、机に並べるなら。
OLE:ダンスランキングということなら生駒里奈、西野七瀬、生田絵梨花、大園桃子は落ちるよね。1位の村山彩希は不動としても、2位に平手友梨奈か渡辺美優紀か。歌唱力を加味するなら生田絵梨花とか大園桃子もおもしろいけどね。ダンスランキングということなら、まあ外れる。
横森:門脇実優菜って衝動力のあるダンサーなんだけど、衝動だって「偶然」だよね、捉えようによっては。
島:ダンスって演技ですよね、一種の。なら衝動は抑えるべきものでは?
楠木:たとえば、普段大人しい子供でもバスケットボールでシュートを決めたときにガッツポーズが出たりする。これは衝動ですね。自分でもなぜそうした行動をとってしまったのか、わからない、驚く。それが衝動ですね。隠れていたものが顔を出す、と表現してしまうと陳腐ですが。志賀直哉の小説だったか、散髪屋が客のヒゲを剃っているときに不意にそのカミソリで客の首を切ろうとしてしまう、そういう行動力を衝動と呼ぶ。アイドルの場合はまず演奏演技という前提に立たされていますから、パフォーマンス中に衝動が出るというのは考えにくいけれど、でも出る人もいる。ならそれは評価に値するでしょう。考えるまでもなくその衝動が教えるのはアイドルの素顔であるはずですから。
OLE:仮に、門脇実優菜に衝動があったとしても、でもそれは素顔ではないはず。もし素顔が踊りに現れていたのなら、もっと売れてたよ。俺が思うに、門脇実優菜の衝動は演技なんだよ。久保史緒里とか北野日奈子と同じで演技が上手いだけ。門脇実優菜とまではいかなくても、石田千穂も演技だよね。
楠木:石田千穂と門脇実優菜なら、今なら僕は石田千穂のほうが上手いと思いますけどね、踊り。『息をする心』に見どころがあるとすれば、まず間違いなく石田千穂の踊り=演技です。アイドルファンが『息をする心』のMVを眺めてまず想起するもの、それは乃木坂の『ここにはないもの』の齋藤飛鳥の横顔ですよね、きっと。ここまで真似する必要はあるのか、と呆れるんじゃないか。まあその是非はともかく、真似することで浮かび上がってくるものもあるわけです。『ここにはないもの』は次の夢へのチャレンジとして、活力を歌っているわけです。たしかに前を向いている。じゃあそれとまったくおなじシチュエーションを乃木坂ではないアイドルが演じた際にどのような感慨が打ち出されるのか。石田千穂で言えば、ダンスが上手い、歌も上手い、そしてそのとおり人気が出た。写真集も出した。センターにも立った。名実ともにSTUの主人公として描かれている。その彼女が夢へのチャレンジを歌ったときに、現実としての彼女はフィクションどおりの未来を手にすることができるのか、齋藤飛鳥のような未来を、つまり芸能界でどれだけやれるのか、という未来ですね。これを問うと、まあ売れる見込みはないわけです。アイドルをやりきってそれでおわり、とするしかないような、暗さがある。全盛期のAKBグループで人気メンバーになれたのなら、イコール、芸能人としても売れた。けれど今のSTUで人気者になってもそれはありえない。石田千穂でだめならじゃあ自分なんかもっとだめだろう、とSTUに所属するアイドルは無意識にしろ意識的にしろ、確信しているんじゃないか。石田千穂の踊りはそうしたアクチュアルさをそなえているんですね。
OLE:これは前に楠木君も言っていたことだと思うけど、石田千穂が凄いのは、振り付けに忠実じゃないって点もある。ダサい振り付けってかなり多い。で、ダサいものをそのとおりに踊ったらやっぱりダサくなるから、アイドルにセンスが求められるんだ。石田千穂にはダサい振り付けをダサく見せないセンスがある。瀧野由美子は真逆でね、ダサいものをさらにダサく見せてしまう。下手ではないのに下手に見えるのはそれが原因だよ。
楠木:それは要するにナルシストかどうかってことだとおもう。
横森:齋藤飛鳥も極度のナルシストだからね。
楠木:その意味だと小嶋真子はそうしたフェーズからさらに抜け出て表現をしていたと思うけどね。
OLE:ある時期から前髪を一切気にしなくなったよね。
横森:見てくれを気にするってのは、歌じゃなくて自分を表現してるんだよな。まあアイドルの場合はそれが正解なんだけど。
楠木:佐々木琴子なんか、面倒くさい、って言って髪型を固定しちゃった。
OLE:別格だね(笑)。
楠木:順位を付けるなら、1位村山彩希、2位小嶋真子、3位平手友梨奈、4位渡辺美優紀、5位石田千穂。
「乃木坂46・5期生のなかで一番ダンスが上手いのは?」
島:乃木坂の5期生をランク付けしてみたらどうですか。今のアイドルシーンで一番話題性があるのって乃木坂の5期ですよね。
横森:純粋に上手いのは一ノ瀬美空だろうなあ。
OLE:うん。ただ、「偶然」ってテーマの上でなら中西アルノだよね。
横森:そういう情感を加味しても一ノ瀬美空が頭一つ抜けてるよ。”ヘタクソ”なのは池田瑛紗、川﨑桜。
楠木:川﨑桜はダンス中に真顔になるのが気になるね。楽曲の世界観を毀している。池田瑛紗は目もあてられないくらいに未熟だけど楽曲の世界観は毀していない。演技が徹底している、ということなのかな。仕草とか、日常とまったく気配が変わらない。この点は並外れているように思う。
OLE:川﨑桜も同じような演技をしているとおもうんだけど。
横森:媚びてるよね。
楠木:「媚び」が問題というよりも、その媚びの最中に不意に現れる真顔=素顔が魅力的に映らないことが問題だよ。生まれながらに他者に媚びへつらう人間なんていないからね。とくにあれだけの美貌をもっているとなるとその手の性格の持ち主なんかではないのはあきらかで、要するに自己韜晦がある、ということだね。ここがおもしろい点で、アイドルとして売れるだけの才能をそなえているのに、その才能を隠しごまかして、ファンに媚びへつらうことで人気者になろうとしている。生来の魅力をひた隠して大衆人気を得ようと奔走する。しかしステージの上で嘘をつくことはむずかしいから、隠した素顔が踊りのなかで、音楽のなかで否応なく姿を現す。その際に、本来破格に魅力的であったはずのものがむしろマイナス要素に感じてしまう、という。なかなか苦境に立たされているように見える。冷淡な顔、アイドルなんてバカバカしい、という顔ができて、なおかつそれが魅力的に捉えられるだけの美貌をそなえた唯一のアイドルだと思うんだけど。いまのところ、これでもかってくらい類型に堕してる。あと致命的なのはやはり「偶然」の欠如で、『心にもないこと』をもらえなかった点だね。運がなかった、と云ってしまえばそれまでなんだけど。
横森:まあ「媚び」はともかく、エロは必要だよ。ダンスって要は求愛行動だから。渡辺美優紀のダンスが良かったのは「媚び」るんじゃなくてエロかったからだね。
楠木:そうやってベリーダンスに遡っていく必要はないと思うけどね。音楽を前にして、自然と身体が動く、頭をちょっと振るとか、そういうことだとおもう。以前、ウクライナでイワンクパルを眺めたとき、あの少女たちって祭りの儀式として踊っていると最初思ったんだけど、眺めているとどうやら違う。日常の所作のなかに踊りがふくまれているような、そんな仕草を見せるんだよね。座る際にくるっと一回転したりね。ああいうのがダンスなんだろうな。踊るために動作をあらかじめ準備するんじゃなくて、行動のなかにダンスがある、みたいな。妖精なんだよね、言葉どおり。ダンスに過剰な技術なんかいらないというのがよくわかる。
OLE:乃木坂だと星野みなみがそれだろうね。5期なら一ノ瀬美空。
楠木:ダンスの準備行動が現れてしまうのは、要するにアイドルになるという意識の間断さがあるからで、常にアイドルである人にはそうした間断・間隙は生じない。ダンスのなかで準備行動を取ることはない。
横森:星野みなみって常にアイドルだったからな。スキャンダルのあと、ブログで「ごめんなさい」だからね(笑)。
楠木:だからアイドルのダンスを眺めるときには、動作の準備をしているな、とわかってしまう子はやっぱり評価が低くなる。音楽に身を任せて踊れ、という意味ではなくてね。表現をするということは意識的に身体を動かすわけだから、それがアートであるならば、純粋に音楽に身を委ねるというのは詭弁で、身振り手振り、動作に澄んだ意識がなければならない。鑑賞者がそれを眺める際に、音楽に身を委ねている、あるいは任せるような動きであったほうが良い、ということにすぎない。ダンスが不得手とされるアイドルに共通する特徴の一つにこの「動作準備」があるとおもう。髪を触るというのは一番わかりやすくて、次の動作までの時間に余裕があると判断しているから髪をさわれるし、次の動作のためにも邪魔な髪をかきあげておく。いずれにせよ鑑賞者からすればその行動は「現実」でしかない。幻想のあいだに現実を垣間見るんだね。フィクションと現実の偶会をテーマにするなら、その偶然から自ら離れていく行為と言える。例外的に、まるで振り付けのごとく髪をかきあげるアイドルもいるにはいるんだけど。本間日陽とかね。
OLE:フィクションと現実の偶会を評価するなら岡本姫奈はかなり良いよね。フィクションに現実をすり合わせていくその瞬間を今まさに提示しているように見える。
横森:バレエをそのまま『sing out!』に持ち込んで活かそうとするのは安易だけどね(笑)。
島:僕は『心にもないこと』のMVのなかでは一番良いと思いましたけどね。笑顔が魅力的ですよ彼女。
楠木:なんかファンの想像の及ばないレベルでしっかり考えているんだろうな、という雰囲気はありますよね。ギャップですか、楽曲によって表情が様変わりするのは思惟が深いところにあるからだとおもう。
島:機能的に見えませんか?彫刻とか建築って機能的になっていくことが芸術だったわけでしょう。岡本姫奈さんの踊りって機能的に見える。ここをこうしたらもっと良くなるぞ、って考えが収斂を生んでいるように見えますよ。
OLE:アートって機能的であって良いものなの?
横森:いや、アートこそ機能的であるべきでしょ。機能を振り捨てた作品なんてアートとは呼べないよ。
楠木:モーゼルピストルという古い拳銃があるんだけど、その銃身には装飾のために用意されたかのようなスペースがあって、実際にそこに彫刻を施したものも多くて、趣がある。じゃあこれは機能的なのか、と。もちろん専門家に言わせれば機能美にほかならないのかもしれないけど。僕には作り手が美術を意識した結果あのスペースが生まれたんだと思えてならない。まあそれはともかく、銃というのは当然人を撃つためのものですから、余計なものはいらない。機能こそすべて、であるはずで、事実そうやって試行錯誤してテストを繰り返して洗練されてきたはず。じゃあ最新式のピストルとモーゼルピストルを眺めた時に人はどちらに芸術・美術を感じるのか、ということですね。答えは明白で、どちらもあり得る。と云うのも、どちらも高貴さがあるからです。高貴というのは、触れることに躊躇するような、そういうものですね。そうした意味では僕は五百城茉央が今一番高貴に感じる。『心にもないこと』を眺めるに、笑顔の編み方から指の動かし方まで、とにかく細部まで意識が行き渡っていて、洗練された美術作品のような趣がある。今順位を付けるなら、1位五百城茉央、2位一ノ瀬美空、3位小川彩、4位岡本姫奈、5位奥田いろは。
2023/03/18 楠木かなえ