無関心とは?

「無関心は個性を剥奪する」
今、私はある友人をモデルにした主人公の物語を書いている。彼は「アイドルの値打ち」を立ち上げる際にも助力してくれた、実質の初代・管理者とでも言うべきだろうか。もうかなり以前に都市部を離れ、田舎で自適に?暮らしている。数年前に、いちど彼の元を訪ねた際に、その村の周辺を散策したのだが、神社だったり、廃校になった小学校だったり、関所跡だったり、いくつか記憶に残った風景を、今回、本を書くにあたってもういちど確かめるつもりで、ふたたび彼の居所を訪ねた。村の駅はもう廃線が決まっていて、かつては1時間に一本・一車両走っていたのが、今では3時間に1本あるかどうかというところまで本数が削られていた。
余裕をもって出発したおかげで昼前に着いた。周囲を一通り、どこになにがあるのか、メモ帳に手書きで地図を描きながら、歩いた。途中、歩きながら、主人公のモデルにした人物にあれこれと話を聞いてしまうことで物語の構成が大きく変わってしまうのではないかと思案し始め、会うのはまだやめておいたほうがいいだろうと決断した。彼についての情報は、今あるものだけで十分だ。ただ単に、歩き疲れて、人と会うのが億劫になっただけなのかもしれないが。数日滞在する予定だから、どうせどこかで連絡が来て、勝手に出会うだろうという思いもあるにはあった。
ここで私は、ひとつ、メモを取った。「幸せのために行動を起こさないことを孤独と言う」。
予約をしていた民泊の宿に着く頃には、もう小雨が降っていて、辺りが暗くなるにつれて風と共に窓を強く打ちはじめた。19時頃に停電した。予期しない事態に襲われたら、私はまず書きかけの原稿の保持に努める。原稿は、2箇所に送信する。自宅にあるサーバーと、知己の編集者に向けて。田舎だから、と言うつもりもないが、やはり、とは言っても許されるだろうか、施設にはモバイルバッテリーなど気の利いたものは準備されていなかった。近隣から、おそらく発電機だろうか、けたたましい音が聞こえてきたが、私が滞在する宿にはその種の備えは不十分であった。一応、ライト機能を備えた小型バッテリーをいつも持ち歩いてはいるが、それが尽きたら、もうそこまでた。
執筆にあたっては、インターネットを意図的に長時間オフにすることが多々ある。だが、強制的に遮断される時間は、それとはまったく異質なものに感じる。当たりに前に使えたものが使えなくなることは、すくなからず人を動揺させるようだ。施設内は思いのほか明るかった。いたるところにランタンが灯され――ランタンと言っても、ランタンを模した電灯にすぎないが――、トイレに行くにも、食事をするにも、不自由しなかった。数時間で復旧するとタカをくくっていたが、どうにも復旧する気配がない。そうなると、ノートパソコン、スマートフォン、ウォークマンのバッテリーが気になってくる。パソコンと携帯はもう開かないほうが良いだろうと思った。音楽プレイヤーは、電車の中、村の散策中にずっと使用していたから、あとどれくらい音楽を再生することができるだろうかと考えた。あと数曲しか聴けないのだとして、何を聴こうかと考えた。
評点は、批評家のそのワインに対する総合的な質的位置づけを、読者が理解するために重要であると共に、ワインのスタイル、性格と可能性に関する記述を理解するためにも重要だと私は思います。ただし、どんな評価方法も中世の街サンテミリオンを見渡すレストランで、ジロンド河で獲れた魚を使った、赤ボルドーソース添えのランプロワという地方料理と一緒に出された1本のささやかなボルドーを味わう喜びを充分に伝える事はできません。このような時には極く普通のワインでも素晴らしい、忘れがたいものになるのです。(ロバート・パーカー/ボルドー)
素晴らしい音楽があるとすれば、素晴らしいアイドルソングがあるとすれば、このような場面で、最後に自分が選ぶもの、この瞬間を、忘れがたい経験にするもの、ということになるのではないだろうか。そしてこれは、ある程度、想像できることでもあるように感じる。しかしまた一方で、ほんとうにこうしたシチュエーションに置かれたときに、はたしてほんとうに人は事前に想像していたとおりの楽曲を再生するのだろうかという問いも残る。
夜が明けて、昼になると、今度は水道から水が出なくなった。地域一帯が断水したとのことで、給水車がどうのこうのというアナウンスが屋外スピーカーから聞こえてきた。空はこれでもかというほどに青く晴れ渡っているのに、電気も水道も止まっているのだから不思議だ。外を歩いてみると、たしかに道路は泥水で茶色く染まり、ところどころで倒木も確認できた。非日常と言えば非日常だが、セミなどの鳴き声が、もうそこに日常の影を落としている。数日も経てば、人間たちも馴れてしまうのだろうかと考えると、不気味に感じもした。
いずれにしても何もすることがなくなったので、持参した小説を読むことにした。オルハン・パムクの『雪』という小説を久しぶりに手にとった。小説というのは、本当に集中できるのは最初の数ページだけで、あとはもう文字を追っているだけで、ほとんど別のことを考えている。『雪』を読みながらこのとき考えたのは、こうしたシチュエーションにおいてどう時間を過ごすのかが、その人の個性ということになるのではないか、ということ。しかし最近は特にそうなのだが、アイドルにしてもそうだが、「個性」というものを考えることが多くなった。個性的なアイドルが極端に減ってしまったのはなぜだろうか。とか、よく考えている。
人から個性を奪うのは「無関心」にほかならない。無関心な人には絶対になってはいけない、ニル・アドミラリを格好いいものだと思うのは結構だが、本当にそうはなるな。無関心というのは、ある事柄について、本来あった好奇心を忘れて、それに出くわした際に、なんら反応を示さない、これといってどうとも思わなくなったその瞬間を言うのだろう。しかもそれは、その事柄への経験、おなじ体験の繰り返しなどによってもたらされているのではなく、まったく別の要因において自己が変わっていくなかで失ったものの一つとして現れているにすぎない。それは飛躍すれば、精神的な成長の一切を拒んだ、ある種の時間の麻痺という連続した生活にほかならない。
無関心な人ほど、自分は無関心な人間ではないと信じている。涙を流すこと、緊張すること、つまり感動さえしていれば無関心な人間ではないと、固く信じている。人前に出て、話したり、歌えば、自然と涙が出てくる。けれどそれは一時的な生理反応にすぎない。漫画や映画を眺め、感動をする。これも目の前の出来事への興奮、刺激を楽しんでいるだけに過ぎない。無関心は、ある事柄についてそれを深く理解しようとする、自己の想像力において突き詰めようとする、行動を起こそうとする姿勢や意識によってようやく置き去りにできる。
たとえばトーマス・マンの『魔の山』は、結核患者のためのサナトリウム(療養所・病院)を物語の舞台としているが、物語の中盤に、その世間から隔絶された場所での暮らしに馴らされてしまった主人公の身を案じた叔父が主人公を病院から連れ戻そうと画策する場面が描かれている。しかし叔父は数日滞在したのち、院内で確立された生活様式、人間関係、とりわけ死生観の超越した高い精神性を宿した思想に自己が囚われてしまうことに恐怖し、夜逃げするように、主人公には何も言わず黙って出ていってしまう。主人公は叔父の失踪について、院内の誰にも特になにも説明しなかった。さて、こうした場合、世間から隔絶され、圧倒的な精神の世界に馴染んでしまった主人公と、世俗の代表として、社会で生きることを忘れない叔父とで、無関心であるのはどちらだと言えるだろうか。
夕刻、給水車の前に並ぶ列の中に、友人の顔を見つけた。私も彼も、おもわず笑みをこぼした。
2026/09/25 楠木かなえ

