「推す」という言葉の意味・価値をいまいちど考える

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「『承認欲求』はネガティブな言葉ではあり得ない」

――されば、まことに最後に思ひ出でむこと、かならず遂ぐべきなり。
今日は入滅という日に、寝床の中から弟子に命じて、碁盤を取り出させ、助け起き直らせてそれに向かうと、碁を一枰打たん、と細い声で甥にあたる聖人を呼んで、呆れる弟子たちの見まもる中、念仏も唱えずに石を並べはじめる。たがいに十目ばかり置いたところで、よしよし打たじ、と石を押しやぶり、また横になる。
多武峯の增賀上人の往生の話である。甥の聖人がおそるおそる今の振る舞いの訳を聞くと、むかし小法師であった頃、人の碁を打つのを見たが、ただいま念仏を唱えながら、心に思い出されて、碁を打たばやと思ふによりて、碁を打ったのだと答えた。
心得はないままに石をただ並べてみた。人が碁に興ずるところを、むかし、通りがかりにうち眺めたことがあるのだろう。それもおそらく、生涯でたった一度の関心だった。(中略)
往生をあながちにもとめる。あながちとなればこれはもう、ひとえになどという控え目のものではなくて、痴癡すれすれの境まで押し出す。ひとつ堕ちれば妄りごと、いや、もともと妄りごとであるのだ。しかしそこから尊き験があらわれるのは、ヲコがまことに超越まで貫かれるその結果か、それとも衆の気紛れな観念情念の振れの、協力もおのずと必要とするのか。
芝居がかりというものを、自分は徹底して嫌って生きてきたので、生涯の土壇場ではあんがい無残な芝居がかりに熱して人を悩ませるおそれがある、と今から心配していた人もあったが――。(古井由吉/仮往生伝試文)

ところで私は最近、おそまきながら「承認欲求」という言葉の意味に考えをめぐらせている。承認欲求と聞くと、ネガティブな言葉にどうしても響いてしまうが、そもそもこれはネガティブなのか、と思うわけです。たとえば物を書いてそれを世に出すことは、それがいかなるジャンルであろうと承認欲求のなにものでもありませんが、では物書きとはネガティブな存在・仕事なのでしょうか。トーマス・マンは、放縦な生活が病気をもたらすのではなく、また病気が放縦をもたらすのでもなく、病気と放縦は同一のものであると言っています。こうした逆接的なものの見方は、私に勇気をくれます。あらゆる営為において、そこに承認欲求がある以上、人間と承認欲求は同一である、とするなら、そもそも承認欲求というのはネガティブではありえないということですね。生きることのすべてがネガティブであってはなりませんから。承認欲求へのカウンターの極地として無関心・無感動があるように思われますが、他者からどう思われても構わないという思考こそが、最も強い承認欲求であることはまず間違いありません。
この「承認欲求」を「入滅」に持ち込もうというのも何とも悪ふざけな、幼稚な言動に見えますが、死を考えたり、それへの備えが演技にほかならない場合、この「演技」は「承認欲求」とある点で通じているんじゃないか。

さて、冒頭に引用した文章ですが、これは引用・中略されたものだという点を差し引いても、この文章を、この短い一節であっても、これを一読でよめてしまう人間は、そうはいないんじゃないか。一見すると、古い小説なのか、比較的現代の作品なのか、どうにも区別できない、気味の悪さを読者は感じるんじゃないか。それでも、何度か繰り返し文字をなぞっていると、不意に、そこにはとてつもなく言葉の深い意味が、だれの人生にとっても身近な出来事として沈んでいることに、きっと、誰でも気づくはずです。この『仮往生伝試文』は内向の世代の傑作と言われています。内向の世代どころか、日本の文学史の頂点に立つ文章だと言っても、それに異を唱えることができる批評家、小説家はもはやどこにもいないでしょう。私自身の思い出を述べれば、初めてこの作品を手に取った際には、これは膨大な引用に支えられているぞ、と考え、引用元を探りつつ、時間をかけて読んでいたら、師匠筋にあたる作家の先生から「これは刀のような芸術品だから、引用元を分析するように読むべきではない」と叱られたことがあります。時間をかけて読む、読むのに時間がかかる、以前の問題だと言うのです。そういえば、古井由吉は蓮實重彦との対談のなかで、すらすら読めてしまう小説はだめだというようなことを言っていたけれど、それにしてもこの『仮往生伝試文』は美文だとか、難解だとか、そういう次元では語れない凄みがあります。「ラストまで一気に読みました!」というようなセリフは、すくなくとも純文学作品においては痛烈な皮肉、侮辱になりえるということですね。話がそれてしまいましたが、この作品というのはタイトルどおり死をあらかじめ考える、死にそなえる、この点が命題にありますから、そもそも作品そのものが「時間」であるということです。

死を考える、というのは、死を準備する、というわけではないが、しかし死に向かった演技であることは確かなようでもある。人はきっと、だいたい25歳くらいから、時間の流れの唐突な変化から、死というものを考えるようになる。30を過ぎれば、今度は「死」というものをほとんど現実的な問題として考えるようになる。自分は何歳くらいで死ぬのか。どこでどうやって死ぬのか。どう生きたのか。これからどう生きるのか。自分に何ができるのか。自分は何を残せるのか。とか、考えているうちはまだまだ希望がある。「死」が悩みになる最初の、そして最後の一歩とは、結局のところ、死ぬ瞬間に自分は何を見るのか、ということではないだろうか。そして私たちは、いやおうなく、そこに向かって演技をしていく。こうした疑問の発生と、それにたいする答えを考えるということを、冒頭で引用した一節のみにおいても『仮往生伝試文』は提示しています。
人生において掛けるに値すると判断した、特別な修行や深い思索ではなく、通りがかりに見た、ただの暇つぶしのような、何の価値もないはずの記憶が、往生の際には最も純度の高い関心として立ち上がるというのは、往生を考える、つまり死を考えるという「仮往生」から真っ向から対立しているという点で、まさに「仮往生」と言えるのです。そしてこうした裏切りを提示することこそが純文学の姿勢なのです。

こうした関心から最も距離があるのがアイドルを「推す」という言葉・行為ではないでしょうか。ところで私はこれまでに、推すという言葉の意味からアイドルの魅力を考えてきたフシがあるが、それは誤りで、推すという言葉はアイドルと同一であるのかもしれない。つまりこのアイドルはこれこれこういった魅力があると言葉にした際には、その言葉そのものが推すという言葉の意味になるのではないでしょうか。というか、「仮往生」に話を戻せば、仮往生というのは要するに死に向かっていく行動を指すわけだけれど、アイドルはどうでしょうか。もちろんアイドルを演じる少女はたしかな人間であって「仮往生」にあてはまるけれど、アイドルそのものはどうでしょうか。たとえば日向坂46の『円周率』のミュージックビデオの設定にしてみても、ロボットが人間の感情・言語を学ぶことでその存在を変化する、アイドルになるというベクトルは、すくなくともその瞬間にかぎって言えば、仮往生とすれ違うことすらしないのではないか。成長というものが、未完成というものが、つまりアイドルというものが、無垢にも希望的でありえるのは、つまりそういうことなんじゃないかと思うわけです。
ここで冒頭の「承認欲求」に戻れば、誰かを推すという行為、またそれを表明する行為ほど承認欲求に満ち溢れたものはないが、仮に承認欲求が逃れがたくもネガティブなものだとするとき、そこには決定的な矛盾が生じる。なぜならば、推すという行為ほど希望的で、ポジティブなことはないからです。

2026/06/13  楠木かなえ