オールドスクール・アイドルソングを聴く

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(C)ロンリー・ガール ジャケット写真

「ロンリー・ガール」

歩道橋に座っているよ
ねじの切れた人形みたく

松本隆/ロンリー・ガール

音楽というものの価値を、音そのものの内側に認めるのではなく、それが世に現れるまでの経緯に認めるということが、この現代ではしばしば起こる。たとえば、アイドルは、その代表的な存在と云えるだろう。歌そのものではなく、その歌がいかにして世に差し出されたか、その過程を眺めるという状況をそのまま音楽の魅力に定義したものが――音楽シーンにおいては――「アイドル」ということになる。一般的には、それは1970年代の出来事とされている。音楽の前に歌い手の存在があるのか、それとも音楽の後ろに存在が立ち現れるのか。あるいは、音楽と同時に、そこに歌い手がいるのか。職業としてのアイドルにおいては、明らかに前者である。歌い手の存在がまずあり、その周囲に作曲家、作詞家、プロモーター、プロデューサー、出版社といった様々な手が加わり、一つの作品が仕立て上げられる。人が先にあり、音楽はその結果に過ぎない。極端に言えば、曲名すら知らぬままに大量のCDが売れてゆく、今日のシーンの現象も、この構図の延長にある。つまりアイドルとは、音楽以前にその存在が承認され得るもの、ということだ。この定義されたアイドルという存在が提示する歌のことをアイドルソングと呼ぶ。つまりアイドルソングというのは、音楽的な様式こそ様々な広がりを見せてはいるが、基本的には、70年代の残響の中に立っていると言っていいだろう。たとえば小林明子や坂井泉水といった歌い手をアイドルとして見ることができないのは、この「アイドルソング」という音楽の形式に彼女たちがどうやっても当てはまらないからに相違ない。
問題は、存在が音楽に先行しすぎたとき、肝心の音楽が――あるいは、肝心なのは音楽ではなくアイドルであるのかもしれないが、ここでは音楽に価値を求めることにする――長く生き延びず、短期間のうちに消費されてしまうという点だろう。アイドルソングとは、「誰が歌っているか」、その存在が音楽を規定し、その存在が旬を過ぎれば音楽もまた同様にその役割を終えるのが、通例になる。にもかかわらず、ごく稀に、その順序を裏切るものが現れる。すなわち、存在が先にあったにもかかわらず、音楽としてなお生き残るものがある。アイドルというパッケージを突き抜けて音楽そのものが自律してしまう、そんな瞬間がある。佐東由梨の『ロンリーガール』は、その稀な例の一つであるように思われる。1983年に発表された、アイドルソングとしては古典的とも言うべき作品だが、その実、古びているようでいて、決して古くはない。新しいとも言い難いが、どこか絶えず新しく感じられる。そのエフェクトの曖昧さ、単調さは、アイドルとしての演出の乏しさは、時代に属しながら時代に回収されない、音楽そのものの不思議な持続を示している。そこではじめて、存在と音楽との順序が、静かに入れ替わっているのに気づくことになる。佐東由梨の歌声には、自分の内面をとにかく問い詰める、孤独だと開きなおるその孤独さを、むしろ他人のこととして受容しているような、明晰な意識が根付いているように感じる。この逆転は、すくなからず私の心をゆさぶる。逆転と言ったのは要するに、歌い手というのは、つまり何者かの言葉を歌において代弁するアイドルというのは、多かれ少なかれそこに印された歌詞を、音楽を自分のものとして表現しているはずだが、佐東由梨の『ロンリーガール』にはそうした情緒の一切を排した、ある種、感情の、音楽の乾きのようなものがあるからだ。


2022/08/25  楠木かなえ