STU48 溝口亜以子 評判記

STU48

溝口亜以子(C)stu48.official*/instagram

「フィクティブ」

溝口亜以子、平成13年生、STU48のドラフト3期生。
ドラフト3期生のダークホース。都会の喧騒から離れた、ある種の素朴さをレインコールのように全身から放つ、精悍な少女。アイドルとしてどの時代に誕生しても、それを眺めるファンに現在と変わらない印象を抱かせるのではないか。そのビジュアルのイメージは、STU48というアイドルグループの特色に則しており、なかなか期待が持てる。ダンステクニックも平均を凌ぐものがある。ただ、表現行為という観点に立つと、限定された語彙によって感情がつくられているような若者特有の拙さ、答えの数があらかじめ決められた乏しさが目立ち、まだまだ希求がない。踊ることで自己のアイドルを物語ろうとするような気迫がない。また、そういった試みそのものにも気付いていないように見える。
ダンステクニックは高い、けれどそれが自己表現につながらない。そしてそれがどうやらアイドルとしての人気の有無にも繋がってしまいそうだ、という予感、屈託がすでに顕在しつつあるようだ。

かつて、戯作者近松門左衛門は「真実は虚実皮膜にあり」といいました。真実は、現実と虚構との微妙なはざまにあるということですが、「嘘」を通過しない限り「実」には行けないという、物語を創るうえでの肝がこの言葉にはあります。どんな真実も嘘=虚構の助けを借りなければ、真実として輝くことはありません。他人に真実を伝えたいと望めば望むほど、「虚構をつく」技術に、あなたは長けなければならないのです。

福田和也/福田和也の「文章教室」

アイドルを演じる少女が、自身の作り上げるアイドルの物語をファンに語り、物語性を把持するアイドルへと成長するためにくぐり抜けなければならない課題、それにはまずアイドルとしての矜持の育みがあり、その土壌に虚構の構築、つまりはもうひとつの別の世界の準備があるのは間違いない。溝口亜以子や彼女と同世代の多くのアイドルは、おそらく、この虚構への入り口の扉を発見できないままでいる。
卒業理由として、いまいち要を得ない言葉を並べ立て、朝露のように芸能の世界から消えていく多くの少女。彼女たちは、そもそも一度も「文芸=虚構」の世界に足を踏み入れていないのだ。

アイドルとしての人気を獲得するための戦略の一環にせよ、同時代人でありながら、自身の立場、境遇を看過し同業者への憧れをはばからず口にするアイドルは多い。職業としての「アイドル」に成ることがこの少女たちにとっての「夢」であり、自己の可能性を追求する、夢を追いかける、という立場でありながら、その場所に立つだけでも特別な運を求められる、ハードな時代になってしまったから、アイドルがアイドルに過剰な憧憬を抱いてしまうのもの当然の成り行きともいえるが。しかしアイドルに成る、この一点を、宿命ではなく奇跡としてのみ、アイドルを演じる少女自身が処理してしまうのは、あやまちに映る。なぜなら、恋い焦がれた憧れのアイドルが立つステージと同じ場所に少女がたどり着くとき、奇跡との遭遇がアイドルのストーリーを積上げる一方で、その憧れのアイドルとの交流によって稚気が描かれる可能性が、奇跡に対する実感よって消却されてしまうからだ。たとえば、前田敦子と大島優子、横山由依と川栄李奈などが描いた稚気とは、互いの力量を認めあった、あるいは激しく否定しあった間柄だからこそ、描かれた物語である。
ドラフト3期生の中でもっとも注目する溝口亜以子も、アイドルに憧れるアイドルである。おそらく、それが、彼女にとっての、虚構の発見をおくらせるクライシスあるいはアイロニーになっている。彼女はアイドルとしての矜持を育む境遇に立っていないのだ。

クライシス、深刻と表現する理由は、溝口亜以子が憧れの存在として名前を挙げるアイドルと、彼女自身の資質・可能性にほとんど隔たりがないからである。これほどのアイロニーはないのではないか。アイドルに成った瞬間に、他のすべてのアイドルは同業者でありライバルであり対等の存在である、というあたり前の事実に若手アイドルたちはなぜか想到することができないのだ。この想到の有無がアイドルとしての現実的な人気の有無につながってしまうのだから、なおのこと皮肉的に映る。
たとえば、溝口亜以子と同じようにアイドル好きであった齋藤飛鳥は、エースという期待感に包まれている自覚を得た現在、”アイドル好き”という態度をひけらかすことはない。寵児ともてはやされる平手友梨奈と対談した際も、その並々ならぬ才能の出現を前にしても、歯牙にもかけない態度をとり笑ってみせた。まさしく王者の風格(矜持)と云える。どれだけ綺麗事を並べても、グループアイドルは「順位闘争」から逃れることはできない。同業者の食い扶持を奪うつもりで生活しなければ、やはり「アイドル」は大成しないだろう。
なによりも、この燦然と輝く少女にもアンダー時代=くすんだ物語があったことは忘れてはならない。
齋藤飛鳥がまだアンダーでくすぶっていた頃の、テレビに映るグループのなかに自分が含まれない葛藤を抱えていた頃の話。ある日、彼女がいつものように自宅の部屋で(出演者を選抜メンバーで固めた)乃木坂46の冠番組を眺めていると、「齋藤飛鳥」が話題に挙げられた。それを観た彼女は情動を引き起こし、涙を流したという。齋藤飛鳥の凄さとは、そういった感情の流路、涙の存在をファンにしっかりと言葉にして伝えてしまえる大胆さ、行動力にある。もちろん、こうしたエピソードが本当か嘘かということは問題にはならない。肝心なのはファンに向けてしっかりとアイドルのストーリーを作れるか、という点にある。彼女が涙したというエピソードにふれたファンの多くが、その文章から情動を貰い、その涙の理由を探求し、アイドルの物語へと没入することになった。齋藤飛鳥のブレイクのひとつのターニングポイントであり、このエピソードひとつで数え切れないほどの読者を獲得している。売れるための境遇とはこのようなウソ=虚構によって手繰り寄せるものなのだ。

現在の溝口亜以子の精悍さが、むしろ飄々と映るのは、少女が自身の内にある本心を隠そうとする意識の働きかけ、その溢れである。彼女はファンの前で、まだ、心を裸にしていない。それは、彼女がまだファンに素顔を伝えるためのウソを付いていないからだ。自身の日常を溢せても、物語を作ることはできない、というのは今日のシーンにおいて恒常的に示されるものになったが、たとえば、沖侑果は自身の情動をファンの無理解に押し殺されたことにより、虚構との遭遇のきっかけを掴んだ。溝口亜以子の場合、そのきっかけはどのようなものになるのだろうか、という期待感がたしかにこのアイドルにはある。溝口のようなノスタルジックさを持つ少女が、虚構を作る、ウソをつく、という行為をもし身に着けることができるのならば、自己の可能性の枠組みを貫く、グループの抱えるイロをあたらしく塗り替える登場人物になりえるのではないか、といった展望が。

 

総合評価 46点

辛うじてアイドルになっている人物

(評価内訳)

ビジュアル 12点 ライブ表現 12点

演劇表現 6点 バラエティ 8点

情動感染 8点

STU48 活動期間 2018年~2019年

 

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