筒井あやめ「センター」を検証する
「アンダーであるべきか、センターに立つべきか」
どうしたというんだね。きみは自分の部屋に閉じこもって、返事をするかと思えばただイエス、ノーだ。
カフカ / 変身(訳 高橋義孝)
アイドルの可能性を考える、と銘打った座談会を通して、女優とか、言葉の魅力とか、たとえば沢尻エリカの「別に」を話題にするなかで僕が想起したのは、と言うかこれは、「日向坂46の理想の選抜を考える」という遊びをやった際に発見した感慨でもあるのだけれど、僕は最近、物語化、というものにナイーブになっている。
と云うのも、以前、批評は哲学にかぶれてはならない、しかし哲学に支えられていることを否定することもできない、という話をしたその夜に考えたのがハイデガーのナチ加担における物語化で、今日では、ハイデガーと聞けばまず多くの人間が、ナチに加担した恥ずべき哲学者、というイメージを抱き、その動機への問いに馳せるのではないか。ファリアスがハイデガーをナチにからめ大々的に糾弾したことで世に放たれた、どれだけ高名な哲学者であってもナチに加担してしまう、その手先になってしまう、というスキャンダルの報は、大衆の内にまたたく間に広がって、やがて、ハイデガーの哲学そのものを考える、という思考が消却されてしまった。
この、ハイデガーとナチ、という関係性のなかでハイデガーの哲学を考えてしまう行為こそまさしく「物語化」なのだとおもう。その誘惑はハイデガーの哲学を遥か遠くへ置き去りにする。20世紀最大の哲学者はなぜナチに加担してしまったのか、このタイトルはとてもスキャンダラスで大衆をとりこにする。そうした大衆に切り返すべく、ハイデガーのナチ加担とハイデガーの哲学は切り離して考えるべきだ、と唱える反撃もまた、物語化から逃れていないし、ハイデガーのナチ加担の動機を詰めることが思索そのものになってしまっている。
僕は最近、この物語化から逃れる、というよりも、この物語化から離された部分とはどこにあるのか、どうやって見出すべきか、考えているんだけれど、答えはなかなか見つからない。
以前、座談会で権威性について遊んだ。どこの誰が書いたのかわからない文章を読むことは、権威性からの脱出にほかならない、という遊び。これはすごく突飛で安易な発想ではある。けれど、もしハイデガーのナチ加担を知らないままに『存在と時間』や「転回」に触れたのならば、それは純粋なハイデガーへの接触を叶えるのではないか、と唱えることは、なかなかロマンチックに感じる。この純粋さを小説的に表現すれば、カフカ的、となるのだろう。カフカの書く小説の特徴は、ある朝、起きたらムカデになってしまった主人公を描いた『変身』が象徴しているように、カフカはその「変身」に意味をつけず物語を起こしていく。保坂和志の言を借りるのならば、現前性、つまり、ただ「表現」がそこにあるだけ、という文章を、小説を書く。
多くの人間は、きっと、芸術作品にふれるときに、これは何をあらわしているのか、とか、これはなにを言おうとしているのか、とか、考えてしまう。けれど、そうした接触は致命的に間違っていて、作品はただそこにある、だけだ、とカフカは教えてくれる。グレゴール・ザムザがムカデに変身したことはなにかの比喩ではなく、ただムカデに変身したにすぎない。そこに意味はない。
では、音楽に触れる際に、アイドルにふれる際には、この現前性というものをどこまで無視すべきだろうか。あるいは、どこまで無視できるのだろうか。アイドルシーンにたとえれば、センターで踊るアイドルを眺め、楽曲世界とは直接関係のない事柄、つまり日常風景としてファンの前で描かれてきたアイドルの性格やキャラクター性を作品の世界に持ち込むことは、果たして作品にたいして純粋に接触していると言えるのだろうか。いや、問うまでもなく、それは純粋な接触ではない。しかしまた、指摘するまでもなく、人気者になるアイドルとは、「アイドル」を物語として語れる存在であり、その「物語」を支えるもののひとつに音楽があり、また秋元康の言葉・詩情があり、その音楽を支えるもののひとつに、アイドル自身の日常があることは、疑いようのない事実だ。楽曲世界の内に見知ったアイドルの横顔を窃視するからこそ、ファンは楽曲にのめり込むし、各々がその想像力のなかでアイドルのことをより深く知っていくのだ。
と、ここでようやく「筒井あやめ」に想到することになる。フランツ・カフカという作家の存在感を前にして抱く違和感、不気味さ、不思議さ、どれだけ言葉を尽くしても説明することのできない無機質さに醸し出されるその神秘的イメージ、逃げも隠れもせず、ありのままにそこに立っているだけなのに、鉄壁に守られた素顔という評価のなかで深読みされてしまう、さらには、その深読みの末に、価値のあるものを拾えなかったと、読者の多くに落胆されてしまったカフカの横顔に、筒井あやめはどこか重なって見える。とりわけ、アイドルの日常風景のなかにアイドルの性格を確信させるだけの材料が提示されず、その隠された素顔=喜怒哀楽を音楽のなかに拾うという、筒井あやめというアイドルの性(さが)、ストーリーの起こし方は、アイドルつまり作品に直に触れている、というカフカ的状況を生み出しているかにおもわれる。
問題は、そうしたアイドルは人気者になれないだろうと容易に想像できる点なのだが。カフカを、その小説を、物語を、おもしろいと感じることができる読者は、かなり”まれ”な存在だ。それと同じように、筒井あやめという人に無限の魅力を感じるアイドルファンもまた、かなり”まれ”な存在なのだろう。
すでに述べたが、ただそこに表現されているだけのカフカの小説の魅力を言葉にかえて説明することはほとんど不可能に近い。読者のそれぞれが、個々に作品に触れ、個々に考えることでしか、それは姿をあらわにしない。筒井あやめもまた、アイドルとしての彼女の魅力を堪能するには、たとえば、『夜明けまで強がらなくてもいい』のミュージックビデオで表現された、赤色の傘をさした少女の、世をすねたような屈託にもたらされるその希望に褪せた瞳の美しさに、ファンのそれぞれが、個々に接触するしか手は残されていない。
カフカの小説に希望を見出すとすれば、それはやはり、たとえばムカデに変身したという状況に意味を付さないことで、ムカデに変身した主人公という状況が物語のゆるぎない前提になり、その前提のもとに主人公がどう生きるのか、物語がどのように動くのか、という純粋さを作品に与えうる点になるだろう。
要するに、今ここにあるものがこれから先どうなるのか、という物語が、つまり過去に囚われない、ただ未来だけを向いた純粋な物語=希望がそこに立ち現れる、ということだ。
もしこの「物語化から離れた筒井あやめ」がこれから先シングル表題作のセンターに立ち、人気者になれるのならば、それはあるいはアイドルとしてひとつの達成と呼べるかもしれない。カフカが文学に計り知れない打撃・ダメージを与えたのと同じように、などと表現してしまうと、これはかなり大げさに聴こえてしまうかもしれないが、たとえば、筒井あやめという、素顔をプライドで守った神秘のアイドルがヒットすることは、アイドルを演じる少女の多くを、プライドに傷をつけながら嘘を編み自己を偽る、というその日常の強制から解き放つだろうし、当然、シーンは新たな様相を呈していくことだろう。
2023/02/04 楠木かなえ
2024/03/24 タイトル、本文の編集を行いました