桜井玲香 × バルザック

乃木坂46, 特集

桜井玲香 (C) クランクイン!

 「乃木坂らしさ、という菖蒲色の群像を編み上げた立役者」

乃木坂46・桜井玲香は、少女の繊細なモノローグを他者に向け大胆に露出し語る機会、これが受動的にしろ、能動的にしろ、極端に少ないアイドルである。その偶像の曖昧さ、アイドルの有り様の不確かさは群を抜いている。仮面を付けた、ニル・アドミラリを貫くことによって受ける誤解、果てはそうした誤解に包まれることであらゆる行動選択を宿命的に誤りながら前に進んでいるような、むしろアイドルではなくそのアイドルを眺める者が抱くアイドルへの感慨の内に、ある種の不可逆性を握らせるような、つまり、このアイドルはこれこれこういった趣きをもった登場人物だ、と唱えることに取り返しのつかない過ちを想わせるような、不透明さ、がある。その仮面の厚さは、堀未央奈の恬然を凌ぎ、もはやシニカルでさえある。唐突に描出されるアイドルの浮遊感、奔放、無責任さを前にすると、呆れ、途方に暮れる。
桜井玲香の内に、確かなもの、があるとすれば、それは彼女の「名」になるだろうか。
名は体をあらわす、と言う。桜井玲香、さくらいれいか、この語感、字面。乃木坂46を立ち上げた作り手の内にあったグループのカラー、イメージにこれほどまでに合致した、いや、象徴になる名前=少女は他に見つからないのではないか、とすらおもえるほど、文句なしの「名」におもう。キャプテン就任への要因に彼女の「名」があったことは容易に想像できるし、このひとのアイドルとしてのアイデンティティを探るとすれば、それはこの「名」になるのではないだろうか。
乃木坂46に加入する少女の多くはその「名」に尽きない魅力を備え持っている。佐々木琴子、鈴木絢音、久保史緒里 、山下美月、大園桃子、遠藤さくら、筒井あやめ、一ノ瀬美空、井上和、中西アルノ…、挙げ並べはじめたら、枚挙にいとまがないが、あたらしくグループの物語に加わる少女の横顔とその「名」に触れることで、アイドルの魅力の在り処を発見して行く、といった場面も、乃木坂46においては最早めずらしい光景ではなくなった。であれば当然そこに、乃木坂らしさ、が宿っていくのだろうし、そうした”らしさ”を前にしてもっとも強く想起されるアイドルが、この「桜井玲香」なのだ。

しかし実際に、現実に、ファンチャントに耳を傾け気づくのは、「桜井玲香」の演技、ライブパフォーマンスに対する多くの称賛、批評空間の広さ、である。その「広さ」に、とくに異論は浮かばない。演劇・舞台の上では、日常を演じる際に抑え込んだ欲と衝動のようなものをしみ出し、なかなか迫力ある表情を作っている。勘が良さそうだし、その演技の勘が、踊り、歌にも活かされているように見える。アイドルとして、華がある。
しかし如何せん表情が硬い。とにかく引きつって見える。この拙さは減点対象になる。彼女の作る強張った表情を「鋭利」と表現し、無償の賛辞を贈るのは容易いかもしれないが……。桜井玲香の演劇に求心力の欠如を見るのは、やはり表情の硬直によって、演じられる役の顔がすべて同じに見えてしまうからだろう。「役」の内に日常の機微を触らない、これはつまり演じる人間の日常を垣間見る、という錯覚をもたらさないからである。当然それは、アイドルとしての魅力、へと引用することも可能だろう。
デビューからどれだけ経っても、良くも悪くも彼女のビジュアルに向けたファンチャント=評価に変動幅が一切なく、白石麻衣与田祐希のような、美に向けた屈託がアイドルの物語そのものを転換させるという、ある種の泡沫つまりアイドルのもっとも強い儚さを描かないのは、この何者にも成り切れない硬直さを目撃するから、なのかもしれない。あるいはこの「硬直」の原動力に「キャプテン」があるのかもしれないが。

「人間喜劇に活かされた、最高度のキャプテン」

バルザックの十三人組「人間喜劇」において人物再登場の手法は、一人の登場人物が近代社会の様々な局面において、一つ一つの作品でまったく違った相貌をみせるために用いられている。

福田和也「現代文学」

桜井玲香のキャプテンとしての資質を問うのならば、それは「幸運」の一言に尽きる。
放任主義という意味におけるリベラルを貫いた彼女が、それでも一定の称賛を受け、理想のキャプテンとまで呼ばれる理由は、単に彼女がラッキーであった、とするほかない。要は、乃木坂46とは、並みなみならぬ個性を抱えた少女たちの集合であるから、放任し、各人の才能に任せていれば、文句なしの戦果を持ち帰ってきてくれるわけである。キャプテンが少女たちの物語にあれこれと口を出して介入せずとも、才能豊かな彼女たちはたくましく成長するし、グループもまた大きく力強く飛翔することになる。それがキャプテンである桜井玲香の手柄にも映るのだから、やはり、幸運、と表現するほかにないし、そうした桜井のキャプテンとしての態度こそ、夢見る少女への理解に達した、最善手、でもあるのだ。
つまりは、桜井玲香がキャプテンを務めたことで乃木坂46の、乃木坂46のアイドルたちの物語にどのような影響が及んだのか、どのような成長が刻まれたのか、という視点で、桜井玲香のキャプテンシーを語るのは、すこし、ズレている。キャプテン・桜井玲香の価値・魅力をはかるつもりならば、キャプテンになったことで彼女自身にどのような変化あるいは成長があったのか、読むべきなのだ。
どうやらこのひとは、アイドルグループのキャプテン、つまり一つのキャラクター=エンターテイメントを作る過程で、与えられた役割を担いその「役」に真剣になることでそこに自分の価値が生まれる、そこに自分の存在理由がある、という演劇に達したようで、当然そこにはポリティクスに対する強烈な自我が、開花した。イニシアティブにおいては非常に貧弱で、頼りない、不甲斐ない印象を与えるアイドルだが、女学生固有の天真爛漫さとお嬢様感を抱えて虚構の扉を開いたその少女は、やがて、警戒感のかもし出す目ざとさ、換言すれば、洞察を可能とする剣呑さ、を懐に忍ばせる、アイドルへと変化を遂げた。

たしかに、その人間観察への力には目をみはるものがある。このひとは、獲物の心臓を槍で突き刺すような、鋭い洞察力を有している。このひとの前では、下手な嘘は作れない。どれだけ見栄えの良いエスプリで身を固めようとも、本性を、容易く看破されてしまうだろう。経験に鍛えられた、眼力がある。
おそらくそれは、自我の模索劇の真っ只中にあった桜井が、夢見る多くの少女たちと、それを囲む多くの大人たちの掛け橋となる際に育まれた特質であり、要するに「大人の世界」を過剰に意識した少女が手繰り寄せた、シーンを生き抜くための得物でありアミュレットに相違ない。
グループアイドルのキャプテンに選ばれた少女は、例外なく、アイドルとしての主人公感を喪失してしまうものだが、この矛と盾を手にした桜井玲香もまた、例にもれず、過剰な現実感覚を打ち出す登場人物となって、アイドルのストーリーを展開・転回させている。

どんな場面であっても、常に機嫌の良さを見失わない、姿勢の良さ。これは今日では一つの”乃木坂らしさ”とも呼べる資質、アイドルのあり方で、ファンが想う乃木坂46の正しい有り様となっている。その有り様を打ち出したのがほかでもない、キャプテンである桜井なのだが、彼女自身を直に眺めれば、彼女はそれをある種の鷹揚さに取り替えて「アイドル」を表してしまっている。
悪癖、と云うべきだろうか、とにかくこのひとは事あるごとにアイドルとしては逸脱した、業界ノリ、をカメラの前で、ファンの前で披露し、幻想的イメージをみずから毀している。
アイドルを「偶像」と意訳するならば、アイドルは、言葉の選択をひとつ間違えるだけで、そのたったひとつの科白・仕草が、ファンの空想の翼をもぎとり、幻想と現実の接点を切ってしまう。なにかを失うことで人は成長する、あるいは、変化する、つまり大人になるものだが、大人と対等に渡り合えるアイドルへと成長・変化した彼女の、その得物による一突きは、架空の世界の空に、容易くヒビを入れる。
もし、乃木坂らしさの原料にもなった「桜井玲香」がなぜ一度もシングル表題作のセンターに立てなかったのか、問いかけ、穿つのであれば、それは彼女がキャプテンつまり大人になってしまったから、と云うほかにない。キャプテンに選ばれたからほかの誰よりも早く”大人”になった。なるしかなかった。大人になってしまったことで少女特有の主人公感を喪失した、のだから、なんとも不条理な話ではあるのだが。

しかし桜井玲香のおもしろさ、不気味さとは、こうした感慨のすべてが、提示された「アイドル」の、その仮面の一部にすぎない、と確信させる点にある。
このアイドルの特性とは、一つの特性に縛られない、というところにある。名は体をあらわす、と言い、その言葉に彼女が従っているように見える、その言葉の魅力を体現しているように見える、のであれば、それはつまり他者にイメージされたアイドルの横顔を、彼女は一切裏切らない、という意味になる。それはたとえば、
他のアイドルと交錯した際にこぼす、これまでとはまったく違ったアイドルの表情もまた桜井玲香本人でありつづける、ということを示し、様々なアイドルとの交錯によって桜井玲香というアイドルの輪郭が埋められていくという、正真正銘の人間喜劇を誕生させる。そうした群像への積極的な参加を可能にするのが「キャプテン」という役割・立場なのだから、なおのこと、おもしろい。

まったく掴みどころのないこの人の性格、アイドルの魅力・可能性を知りたいのならば、グループに所属する多くの少女の、各物語を手に取り、眺めれば良い。たとえば、若月佑美伊藤万理華の書き連ねるその物語のなかに登場する桜井玲香の横顔は、桜井玲香本人が記す物語の内には絶対に描かれないような「相貌」を宿しているのではないか。ある物語では自我の檻に閉じ込められ、絶望と孤独を抱えた少女として登場し、仲間に、いや、同士に、救われる。またある物語では、旺盛な、人間への興味と、性や恋愛を超えた、夢への献身、絆や触れ合いに憑かれたひとりの少女として再登場する…。
桜井玲香の魅力、本領とは、本人の物語だけではなく、他のアイドルの書く物語を根気よく読み解く行為により、はじめて、霧に包まれた「桜井玲香」の全体像が浮かびあがり、その輪郭をなぞる行為が許可される、というアイドルのあり方、物語の作り方を実現してしまっている点にあり、もはや説明するまでもなく、このアイドルとしての有り様こそ、今日では、もっとも強いイメージとしての、乃木坂らしさ、になっている。

君たちがそうやって、同じひとつの純粋さ、ありとあらゆる人間的感情で結ばれているのを見ると、君たちが将来も別れわかれになることなんかありえないなって、おれには思えてくるんだ。

バルザック「ゴリオ爺さん」