乃木坂46 新しい世界 評判記
「私たちは、ここにいる。」
楽曲、歌詞について、
20枚目シングルのアンダー楽曲。センターは鈴木絢音。
生まれ変わる、ほんとうの自分を知る、ほんとうの自分を発見する、という覚醒における「成長」を同性愛にじかに喩え、歌っている。
夢を育むのならばその夢の世界を縦横無尽に走り回る”もうひとりの自分”を意識し、幻想を作り上げろ、という啓蒙は作詞家・秋元康によってこれまでに数多くの作品の内に記されてきた。たとえばそれはAKB48の『365日の紙飛行機』をまず代表格として挙げるべきだろうし、乃木坂46の『きっかけ』もまたおなじだけの憧憬をそなえた楽曲だろう。今作『新しい世界』も同様のテーマを書いている。
今作品に「特筆」に値する点があるとすれば、それはやはり、並み居る表題作と同様のテーマを定めたとしても、それがアンダーメンバーを通して表現されることで、いや、アンダーメンバーの横顔をなぞるように表現しようと試みることで、作詞家自身が、当たり前のように記してきた「もうひとりの自分」の成り立ちへの疑問にこたえると同時にそれを物語る動機を得ている点だろうか。アンダー楽曲、新しい世界=もうひとりの新しい自分の発見、というテーマ・要求を前にして、それらを考えていく際に「同性愛」に着地し、かつ、そのねじれを「アンダー」の成り立ちと重ねることで「成長」への希望に満ちたオーソドックスな物語に仕上げてしまえるところに作詞家としての力量をみる。
ところで、この詩的世界における「僕」は、同性愛を恋人にカミングアウトすることに美徳をふり捨てた並みなみならぬ熱意を秘めているように見える。しかし、同性愛のカミングアウト、これは強烈な自己愛によった行動に過ぎないわけである。そうした行動をあえて選択する、相手を失望させる、つまり恋人を失恋によって深刻に傷つけることはせず、こころに傷手を負うのはあくまでも自分自身である、という屈折した自己肯定の物語をアンダーメンバーに歌わせる、というところに「アンダー」に向けた励ましがあるのではないか。
花世は言った。「昔はこんなこと考えつきもしなかったのに。」
「昔って、どれくらい昔?」
「意地悪ねぇ。」花世が髪を引っぱる。「男とやってた頃、ということにしておくわ。」
「容子は?」花世が訊いた。
「何もなかった。」私は即答した。「十八歳まで、私には何もなかった。興味を持ったこともね。」
「つまらない人生ねえ。」花世はからかった。
「自分には何かが欠けてるんじゃないかと気にしなかった?」
「全然。」
ベッドを下りた花世は私に体を寄せた。私たちは戯れを再開する。なぜ飽きないのだろうか。一年半近く体を絡め合っているのに、未だに指一本の感触も鮮烈である。花世と接吻を交わすたびに生まれ変わってでもいるかのようだった。
松浦理英子 / ナチュラル・ウーマン
ミュージックビデオについて、
「アイドル」という狭い世界の中に、さらにふたつの世界があり、今いる世界から別の世界に踏み込もうとする、新しい世界に旅立とうとする、未成熟な少女たちの端境の物語。作詞家の、そのオーソドックスな詩情に対し、映像作家もまた、譲ることなくオーソドックスなストーリー展開をもって応えている。
後日の話が許されるならば、今映像作品を手掛けた作家・横堀光範とは、『君に叱られた』のミュージックビデオを見てもわかるとおり、アイドルを王道的に物語るのが得意なようである。換言すれば、主人公を描き出すのが上手い、と云えるかもしれない。当然、そうした「主人公の出現」を物語った作品を前にし鑑賞者が編み上げる妄想とは、その主人公がその後どのような物語を描いたのか、という視点である。『新しい世界』の主人公を演じた鈴木絢音が作品にどのような影響を受け、どのように成長したのか、もう一度今映像作品を眺め、過去に遡ってみるのも一興ではないか。
歌唱メンバー:伊藤かりん、伊藤純奈、伊藤理々杏、岩本蓮加、梅澤美波、川後陽菜、斎藤ちはる、斉藤優里、阪口珠美、相楽伊織、佐々木琴子、佐藤楓、鈴木絢音、中田花奈、中村麗乃、能條愛未、向井葉月、山崎伶奈、吉田綾乃クリスティー、渡辺みり愛、和田まあや
作詞:秋元康 作曲:古川貴浩 編曲:古川貴浩