NMB48 石塚朱莉 評判記

NMB48

(C)YouTube/石塚朱莉のドラゴンクエスト2実況 #2 リリザの町

「ドラゴンクエストをプレイするアイドル」

石塚朱莉、平成9年生、NMB48の第三期生。
モノローグの企み、詩情の暴走、屈託と情動の不安定な駆け引き、と日常を演じる行為への没頭はグループにおいて一線を画す。山本彩、渡辺美優紀以降、NMB48の通史を読むにあたって、オーヴァーグラウンドに立つ太田夢莉と対峙するように、石塚はアンダーグラウンドとして屹立しており、重要な役割を担う登場人物に映る。
「ふざけながら生きてます」と笑う彼女、石塚朱莉はとにかくお行儀の悪いアイドルである。直情的で短気。ゲームプレイひとつとっても、あらゆる場面で落ち着きがなく、表情多彩、騒がしい。
彼女がプレイする『ドラゴンクエスト』とは、テレビゲームに教養小説を取り込むという試みに成功した作品である。教養小説とは、ひとつの時代を鏡にして、困難や試練を乗り越える若者の成長を語る、青春の書とするのが通説だろうか。教養小説とアイドルが密接な関係にあるのは説明するまでもない。グループアイドルの存在理由の大部分を占める成長共有、このコンテンツこそまさしく教養小説の醍醐味であり、アイドルの記す物語、その主人公の成長にファンは一喜一憂することになる。
だが、テレビゲームのシナリオとアイドルの書く物語には、当然、見過ごすことの許されない隔たりがある。
たとえば、ドラゴンクエストの世界では、頑張れば頑張った分だけ成果を得られる「システム」が組まれている。困難や試練は必ず乗り越えられる壁として配置されており、主人公の成長にあわせて絶妙のタイミングで”イベント発動”のスイッチが押され、試練の壁が立ちはだかる。一方、アイドルの世界は矛盾や不条理で溢れている。村を一歩出たら、そこに待ち構えているのは”スライム”でも”おおがらす”でもなく、”ハーゴン”や”バラモス”だ。それ等の強大な敵を相手に、主人公は”どうのつるぎ”一本で立ち向かわなくてはならない。仮に、運良く強大な敵を倒せたとしても、「まおうバラモスをたおしたですって?でもバラモスなどだいまおうゾーマのてしたのひとりにすぎませんわ*1」と言われてしまう…、そんな世界だ。しかも、その世界では、主人公は自分ひとりだけではない。次々にあたらしい主人公が”アリアハン”の王の元を訪れ、魔王を倒す旅に出ている。自分を末端的登場人物へと追いやろうとしてくる。生まれた段階で”レベル99”の勇者(天才)も、もちろん、存在する。そんな不条理に満ちた世界が文芸=アイドルの世界だ。
こうした世界観において一貫して強い主人公を描いたのが、ほかでもない、石塚朱莉と同じグループで活動した山本彩である。石塚朱莉が山本彩とおおきく異なるのは、山本的なビルドウンクス・ロマンのなりきりではなく、ビルドウンクス・ロマンを演じきる点だろう。

「頑張れか、頑張れって言葉は本当に心を抉られるな。次なにをどう頑張れっていわれるのか*2」、このような現実感覚に囲繞される世界に身を置く少女がドラゴンクエスト(ビルドウンクス・ロマン)の世界に降りていく。そして、その全ての過程をファンに提供する、というのは心の踊るコンテンツではないか、とおもう。
ゴールドを集め、皮の盾を買う。次の戦闘でダメージを受けない様をみてニヤリとする。ゲームのキャラクターが成長すると同時にアイドルが成長したように錯覚されるというのは、なかなか感興がある。もっとも興味深いのは、人称を不在しながらも、話者の語りとともに一人称で進んで行くドラゴンクエストの世界で、石塚朱莉は、自身がゲームの中に降り立ったとき、その世界の主人公になりきって冒険をするのではなく、あくまでも自身(精神)は現実世界に留まり、画面の向こう側にいる勇者を他者として扱っている点である。自身の操作するキャラクターが、まるで自立した生き物であるかのように捉えており、その一挙手一投足に興奮をし、自己投射している。つまり演劇が作られているように感じるわけである。ゲームプレイそのものを作品にしようとする気概を見る。ゲームプレイ中にキャラクターへ向けて発する彼女の批判や賛辞といった感情のほとんどは、自己の内に生息するが、何らかの理由により、”それは絶対に認めたくない”と無意識に誓った感情であり、それを演劇行為によって架空の世界の上に吐き出しているのではないか、という感慨すらある。
つまりファンは、ゲーム画面を通して、アイドルのこころの闇の暗さ、日常を演じる少女の深刻さを無意識の内に眼に映してしまうのだ。仮想空間を通して、ある種の醜態をファンに惜しげもなく披露するという、イメージの先に日常のつづきを提示する姿勢からは、並々ならぬ可能性を受け取る。

「開かずの間」

石塚朱莉がプロデュースする劇団「アカズノマ」の挨拶文も、おもしろい。文才がある、と云っても良い。正岡子規や夏目漱石的な口語への傾倒があり、心の声をそのまま文章に起こせる、というのは、やはり才能と表現すべきだろう。

20歳になる前、今まで見て見ぬふりをしていた「開かずの間」が開いてしまったことがありました。
「開かずの間」に封じられていたものは、笑っちゃうくらいの怖いものでした。
そこには、本当と嘘とが詰め込まれていました。たぶん、素通りをしていたらハッピーだったと思います。
だけど、私には大事にしたいと思うことや、好きな事がたくさんありました。
アイドルの私も女優の私も頑張れって言ってもらって、応援の声をかけてくれる人達がいて、「アカズノマ」を開くことが出来て良かったです。
生きていて良かったです。

演劇が大好きで、演劇で毎日を生かされて育てられている私です。
作品が生み出すドキドキやワクワク、時にはぞわぞわ。この気持ちをどうかたくさんの人達に届けたいという思いでいたら、いろんな人たちが協力をしてくださり、一緒に考えてくださって、劇団化することになりました。
演劇が持つパワーで明日も強く生きていて、愛で溢れていてくれたら嬉しく思います。

哀しみも幸福も絶望も憧れも残酷も全部全部結局は愛だと思うのです。
誰からも愛されなければ自分自身を愛します。

みなさま、はじめまして。
「アカズノマ」の石塚朱莉です。
頑張ります。

石塚朱莉「アカズノマ」

これは個人的な体験による発見だが、演技の才を持つ人物には文才もそなわっている。
誰からも愛されなければ自分自身”が”愛すのではなく、誰からも愛されなければ自分自身”を”愛します。と書く、この文体に対する美意識からにじみ出るつよがり。《みなさま、はじめまして。「アカズノマ」の石塚朱莉です。頑張ります。》と、文末に「はじめまして」を置くケレンに満ちた、演劇に意識的な人間特有の感性。読者は、開いていると確信していたアカズノマは、その名の通り、閉ざされていたことに最後に気付かされる。この仕掛に、自我同一性を獲得する前段階にある少女の心の冷たさ、林道の横で流れる河の底で丸くなった真っ白な石のような硬さを触る。それは突発的で偶発的な出来事によって、一回性の喪失を経験した少女の怒りのようにも映る。

さな人間が、やって来た。並外れて発達した筋肉と均斉のまま、小さくなったと見える男。胸を張ったそいつが、延ばした両腕にものを抱えて、薄暗がりを進む。ブーメラン型に連なったふたつの翼の構造物である。前方の垂れ幕が狭く掲げられて、向こうは輝く舞台。通路に突き出しているスイッチボードの脇を、姿勢を低くして通り過ぎようとした時、装置背後の空間を横切って急ぐ、踊り子姿の少女の、スカートの奥に翼の端が突っ込まれた。そのまま、小さな男と幼い踊り子は凍りついた。前屈みの少女は体の重みを右足にかけ、開いてあげた左足は無防備にさらして、なんとか平衡を保っていた。どうしようもない姿勢に追い込まれた怒りを表して、少女が相手を睨みつける。

大江健三郎 「宙返り」

石塚朱莉の、エモーショナルな演技が素朴な甘美に映ってしまう皮肉、逆説とは、このような怒りの経験に支えられているのではないか。観者を”睨みつける”場面が静止画となって、自我にすら昇華されるのは、喪失の経験を無意識に引きずっているのではないか。だとすれば、その喪失体験によって獲得する成熟は、グループアイドルにとってかけがえのないものとの宿命的な邂逅を描く、きわめて豊穣な物語を生みだすはずだ、と期待せざるを得ない。
はじめは、否定的な目線で彼女の立ち居振る舞いや仕草を眺めていたはずなのに、気付けば、「まあ、これはこれでいいんじゃないのか」と想わせる、目撃者のパーソナルスペースを毀してしまう魅力を湛える、不思議なアイドルである。

 

総合評価 71点

アイドルとして豊穣な物語を提供できる人物

(評価内訳)

ビジュアル 13点 ライブ表現 14点

演劇表現 15点 バラエティ 15点

情動感染 14点

NMB48  活動期間 2011年~2021年

引用:*1 ドラゴンクエストⅢ /堀井雄二
*2 乃木坂46 “行くあてのない僕たち”/湯浅弘章

 

STU48 谷口茉妃菜 評判記

「ブルーベリー&ラズベリー」 谷口茉妃菜、平成12年生、STU48の第一期生。 ...

SEIGO(稙田成吾)、どうしてそんなにエライのか?

「アイドルの可能性を考える 第二十五回 悪名高き演出家 編」 メンバー 楠木:批 ...