ついに、正真正銘のアイドル批評を目撃する

座談会, 櫻坂46

「アイドルの可能性を考える 第四十五回」

メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。

横森:カメラマン。早川聖来推し。

「『I want tomorrow to come』のMVを観てみる」

島:前作の『自業自得』は欠点が多かった。どこか、映像だけが舞い上がっていた。今作はアイドルもしっかり舞い上がっていますね。山下瞳月が凄玉と言われる理由も、なんとなくですが、見えた気がする。アイドル本人からすれば不本意かもしれませんが、この、ジタバタした踊りがアイドルをどんどんキュートに見せるんだと思います。
OLE:森田ひかるも同じで、アイドルを忘れていないというか、アイドルの世界にもレジームはあって、櫻坂46はそのバランスを取るのがすごくむずかしいんだと思う。その中でも、この二人は上手くやっているよね。
楠木:そういう視点で語っていいなら、今作における藤吉夏鈴がイマイチだと感じることも、納得できる。アイドルの枠を毀すことと、アイドルではなくなることは、意味が異なるので。
OLE:田村保乃とか、あとは、ここにはいないが小島凪紗も、似てる。
横森:さすがにそのあたりの子と比べたらもっともっと上の水準にあるでしょ、藤吉夏鈴は。論外だよ。
島:これを見ちゃうと、なおさら他のアイドル作品がくだらなく幼稚なものに思えてきますね。どう折り合いをつけるのかって問題が出てくる。
OLE:折り合いをつける必要なんてないよ(笑)。
島:でもこれ、最近聴いたアイドルソングの中じゃ、まったくの別物ですよ。
横森:今年なら、『卒業まで』『チャンスは平等』に並んでクリティカルかもね。
楠木:3作品を並べて一目瞭然なのは、どれもノスタルジーを音楽の戸口にしたり、結末にしているという点。『卒業まで』は初恋というノスタルジーのなかにアイドルの存在理由を求めている。『チャンスは平等』はアナクロになってしまった、かつて大衆がスポットライトの下に泡沫の理想を見たという意味でのアイドルを描き出している。『I want tomorrow to come』は帰郷の断念、過去にはもう戻れない、という意味でのノスタルジーを歌っている。前に進むしかないから、未来に希望を見いだすから、生き死にの問題が出てくる。音楽の書き出しは、これでもかというほどに「秋元康」なんだけど、全体としては、アイドルの踊りにたのんだ構成になっている。この詩情をもってしても、踊りを外すことができないという点に見どころがあるんじゃないかな。
横森:逆じゃない?踊りを活かすってのが前提にあって、その助走として詩やら音楽やらが用意されているように見える。そういう意味じゃMADだよね、これって(笑)。幼稚ではないんだろうけどさ、その分、中高生を意識して格好つけてる。だから結局、幼稚に見える。まあ歌詞だけは最初からあらがっている。
島:それはなかなか痛烈な皮肉ですよ。幼稚さに開き直ったAKBや乃木坂のほうが実は大人向けなんですね。幼稚さを拭って若者をウケを狙うということは、若者=幼稚へと返される。
楠木:「アイドル」の幼稚さを払拭するための方便として、人間への興味、関心ですか、そういうものを持ち出せる。特にグループアイドルというのは群像ですから、様々な境遇に暮らす少女たちの模様を眺めることで、人間感情を学ぶ。それを自らの言葉にかえて文章にすることは、小説や批評を書くことと変わりません。「アイドル」を文学の中で考え、語るというのは、かなり有効だと思うんだけどな、やはり僕は。秋元康はもうずいぶん前から実践しているよね。アイドルを音楽のなかで、自分のノスタルジーのなかで物語るというのは、好奇心、憧憬としては小説を書くことと変わらないから。
横森:詩がアイドルを語る際にアパーチャになっているとしても、また、アイドルに文学を持ち込むにしても、『I want tomorrow to come』は「proven」と「verified」がゴチャ混ぜになってるよね(笑)。
楠木:それはね、考え方そのものが大きな誤解なんだよ。これは、僕もつい最近、ハッと思い立ったことなんだけど、楽曲、歌詞、MV、なんでもいい、そうしたものに向ける具体的な評価というのは、そもそもアイドルへの評価であるはずだからね。なんて言ったって、僕らはアイドルをとおして作品を知るわけだから。アイドルの歌や踊り、演技にまず触れて、その直後に歌詞や音楽を知っているんだから。アイドルの表現を通してでしか歌詞の意味や魅力を知ることができないということを、見落としていないか。たとえば、アイドルソングが他のアーティストにカヴァーされた際に、これまでとはまったく違った魅力を発見するのも、そもそも僕らはアイドルを通して楽曲を知っているからだよ。秋元康の言葉をとおしてアイドルの魅力に至っている、と考えるのは、文章を書く際にはそれはありえるんだけど、音楽に触れている際には、まったくの逆だということになる。
OLE:歌詞にケチをつけるってことはさ、アイドルにケチをつけているんだよな(笑)。
楠木:それくらいの緊張感はあるということです。ポール・ド・マンでもなんでもいいですが、言葉の外在性というのがありますよね。作家の意思に反して、読み手の内で言葉の意味が変わってしまうことは絶対に避けられない事態ですが、秋元康の言葉に直接触れることができるのは、アイドルだけだとすれば、アイドルの表現というのは、アイドルが個々に秋元康の言葉の意味を変化させたもの、ということになりますから、やはりアイドルの魅力とか個性を発見するなら、歌や踊りが格好なんですね。『I want tomorrow to come』は、詩に込められた想い、意味が秋元康からどんどん離れていくことをあらかじめ歓迎しているような、むしろ前もって別の場所に立っているような、深みを感じますね。若い頃にこれを聴いた人間が、大人になって、不意に、歌詞の意味に気づく。ようやくそこでアイドルが楽曲から引き剥がされる、ような。なぜそうしたことが可能なのかと云うと、秋元康自身は、まったく逆の立場を取っているからです。若い頃は、死というものは想像の恐怖でしかないけれど、30歳もすぎれば、日々、死は現実的な出来事として予告され、積まれていく。秋元康はこれまでにも死をテーマにした詩をいくつも書いてきたけれど、歳を重ねればかさねるほど、死に向ける眼差しは強くなるはずですから、そうした時に、アイドルという存在の意味を、はじめて実感するんじゃないか。死への恐怖を和らげる手段は、幾つもあるし、その手段の選択が、その人の「人生」ということになるんだと思う。すでにこの世を去った愛する人との再会を思うのか、愛する人に見守られる中で死ねるという実感が心をしずめるのか。アイドルが生き死にを歌うという光景を生み出すことは、当然、アイドルが自分の生き死にどう関わるのか、考えはじめるということです。つまり、秋元康にとっては、将来的に、アイドルが楽曲から引き剥がされるのではなく、むしろ、ようやくふところに手繰り寄せられるんじゃないか。批評家気取りの言葉を使えば、「交差点」がメタファーになっているんだね。

「アイドル批評は『文章』とは別のところに生まれる」

島:ポール・ド・マン的に捉えれば、アイドルの表現が秋元康への批評=クリティックの変容である点に疑いを挟む余地はないのですが……。しかし現実として、秋元康の言葉を自分なりの解釈・言葉に曲げて表現しているんだと、考える少女が、はたしてどれだけいるのか。
楠木:たとえば山下美月はかなり意識的にアイドル批評をやっていますよ。文章論的に、アイドル論をアイドルのなかでやっている。「私」が思う王道のアイドル、「私」が憧れたアイドル像はこれこれこういうものなんだっていうのを事あるごとに主張するようになった。なぜそうしたことが起きたのかと考えれば、乃木坂らしさなるものへの反動に違いない。ポール・ド・マンをもう一度引くなら、『チャンスは平等』が破格なのは、「作品」は社会に生み落とされた時点で作り手の思惑を外れ、いつか必ずその意味を変えるという、つまり「作品」をもって意図的に社会を先取りすることの不可能性を、逆手に取って、あらかじめ撃っている点にある。『チャンスは平等』は乃木坂らしくないと唱えるファンが薄っぺらく感じるのは、王道やら古典やらの響きを牽引することで、乃木坂らしくない作品だからこそ乃木坂らしくあり得るという可能性を後世に残していることに、直感的にも、まるで気づいていないと、肌で感じるからでしょう。横森が高く評価するように、かなりレンジの長い楽曲だというのも、まあ、頷ける。否定しようがない。
OLE:今は評価されない、後世に評価され得る作品を、結果的に、作ることは大事だよ。
島:それって、狙ってやるべきことではないですよね。
横森:そりゃそうだ、作ってる側がそんなこと言い出したら、笑われるよ(笑)。
OLE:そのへんのことはどうでもよくて、俺が興味を持つのは『I want tomorrow to come』のミュージックビデオを観賞したことで、こうやって発想を得たことだね。最近「アイドルの値打ち」で、平成のアイドルの中から最高の16人を決めるってのをやっていたが、そのなかで楠木君は、正源司陽子のデビューを最後にアイドルから発想を得ることがなくなったと嘆いていた。でもここにきて、山下瞳月によってターンコートが起きたんじゃないか。
横森:アイドルの価値を高めている、知らしめるって点じゃ、山下瞳月も批評的な魅力があるよね。
島:価値を高めるって点が、何よりも批評的だし、他のなによりも価値が高いですよね。

楠木:大島璃音という気象キャスターがいるんだけど、乃木坂の熱心なファンらしく、番組のワンコーナーで、ライブの思い出とかね、視聴者に向けて話したりしている。僕は彼女の言葉こそ、真のアイドル批評だと思っていて、感極まって涙をこぼしながらアイドルの魅力をね、説明しているんですよ。彼女の言葉に触れて、アイドルが幼稚なものだと考える人間はいないんじゃないかなあ。アイドルを褒めてアイドルの価値を上げているわけだね。批評でいちばんむずかしいことは、褒めることだから。褒めて説得力を出すことが、なによりもむずかしい。貶すのは簡単です。文章でアイドル批評をやっている人間でね、褒めてアイドルの価値を底上げしている作家なんて、今の日本には一人もいないから。たしかに、アイドルそのものから発想を得ることが、僕にとってはアイドルにたいする文章を書くことの”かなめ”ではあるんだけど、自分ではない誰かの文章、言葉、批評のごときものに触れて、考える、考えさせられる、心を動かされる、という経験も大事だからね。「アイドル」関連の書籍においては、僕はその種の経験を得ることがないから、感動してしまった。彼女の涙って、アイドルがステージの上で流す涙とまったくおなじものなんだ。文章でそれをやるとなると、とてつもなく大きな才能が求められる。つまり、少なくとも「文章」におけるアイドル批評家の登場を期待できない状況があるなかで、大島璃音のような存在がいることを知れたのは、希望だよね。だから僕は今、アイドル批評の誕生って、文章とは別のところにあるんだと、思っているんですよ。


2024/10/12  楠木かなえ