「表現」について考える

「アイドルの可能性を考える 第六十四回」
メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:写真家・カメラマン。
今回の座談会ではアイドルの話題は出なかった。
「純文学(アート)=革新性と捉えることの落とし穴」
島:今回は横森さんの持ち込みでディケンズの『大いなる遺産』、アラン・ロブ=グリエ『嫉妬』の2冊です。僕は今回はじめてロブ=グリエを読みましたが、何というか、文学青年のための小説というか(笑)。
横森:ロブ=グリエでも村上春樹でもそこは何でも良かったんだけどね。フランソワ・ボワイエだっけ?そのへんでも構わない。ただ「内省」へのアンチというのを考えたら、まずはロブ=グリエになるのかなって。
島:イントロスペクティブを考えるとディケンズは巨大すぎるように感じますが。
横森:それは非常に正しい感覚だよ。たとえば、カメラで写真を撮る際にロブ=グリエ的に感情を主体にして目に映る世界をぐるぐる移動させていくのか、それともディケンズのように普遍的に捉えるのか。
島:そこでディケンズを対峙させる点に主題と飛躍があるんですかね。なぜディケンズなのか、という。ロブ=グリエと対峙させるならプルーストなどの内省的な作品群を挙げるのが誠実ですよね(笑)。
横森:主題なんて大仰なものじゃないが、「内省」へのアプローチは一時的な流行りではないはずだよね。表現を試みる際に人はなぜ内省的になってしまうのか。あるいは、内省的にならないように努めてしまうのか。
楠木:内省的ではない人間が小説を書き得るの(笑)。
島:あり得るんじゃないんですか?ロブ=グリエや初期の村上春樹がまさにデタッチメントに成功しているのでは?
楠木:それは「内省的ではない人間」を表現しているだけですよ。僕が言っているのは、内省的ではない人間が小説を書こうと思い立つことが果たしてありえるのか、またそうなったときに、内省的にならずに済むのか。内省的ではない人間が小説を書こうと思い立ち、なおかつ執筆にあたって内省的にはならないように意識的に立ち回る、つまり文学的教養がかなりある、という事態・情況が現実で起き得るのか。
島:原理としては、たとえば中上健次があたかも自分は労働階級の人間だというふうに振る舞って文壇=知的階級を嘲笑ったことに似ていて、演技でしかないんですよね。それで矢沢永吉なんかを褒めたわけです。
横森:自意識から逃れようとすることの意味を考えると、世界を完全に記述しようという欲だと思うんだよね。ロブ=グリエの『嫉妬』は「嫉妬」という感情を主体にしてそれがカメラになって複数の人間の視点を映した結果として風景の描写が求められている。内省が映し出した風景ではないという点で、世界にたいして正確だと思う。
楠木:ディケンズが布石になっていて何とも言えないんだけど、僕はもうそういうのに価値を感じなくなっていて、まあ知的遊戯にすぎないよね。たしかに新しかったり達成だったりするんだろうけれど、じゃあロブ=グリエの『嫉妬』がディケンズの『大いなる遺産』のように永く読まれるのかというと、そんなことはあり得ない。いまディケンズをやったって仕方ない。もうディケンズがあるんだから、というのが文学の姿勢だと思うのですが、でも現代をディケンズのように小説に閉じ込めることができるなら、それいじょうの達成はないからね。村上春樹が凄いのは、やはりその点にそうそうに気づいて内省の否定をやめて、内省のリバランスに進んだ点でしょう。
島:文学は新しいことをやると最大に評価されますよね。僕はそれに否定的でもあって、新しさというのは往々にして「早さ」だからです。自分がやらなくてもいずれ誰かがやる、というのが現実だとおもいます。ロブ=グリエに内省から脱するための小説的な技法、客観的な物体への記述性の徹底があったとしても、それも「早さ」の一部にすぎない。ロブ=グリエがやらなかったら、いずれ誰かがやっていたはずです。つまり新しさに文学的な価値をもとめることにあまり意味を見いだせない。たしかに新しいものを作ろうという意識がなければ文学は発展しないのだろうけど、そうした作品が最も高い評価をうけるのは、納得がいかない。アインシュタインやハイデガーを天才と呼ぶのとは、まったく別なんだと思う。
横森:たとえば筒井康隆の『残像に口紅を』も文学的な実験だけれど、あれは読者との遊びでもあるよね。そうすることでしか自分のやりたいことができないというわけではなく、そうすることが文学だという純粋さがある。一方でロブ=グリエには、内省を否定することが自分を表現するための糸口だという誠実さがある。要するに文学を考えることで、自己を表現する手段を発見しているという点に希望があるわけ。ディケンズを並べたのは、ディケンズの作品は内省の最終形態なんじゃないか。内省することで、世界が狭くなるのではなく、むしろ広がっている。つまり結果としてロブ=グリエのように世界を記述している。
島:たとえばディケンズを大衆文学だと言って切り捨てることはできないですよね。ディケンズも文句なしに純文学です。ロブ=グリエも文句なしに純文学です。ここがロブ=グリエのような実験的な作家の弱さだと思います。
楠木:実験的というのは、誰にもできなかった難しいことにチャレンジしているという見方ができますが、しかし現実にはディケンズと同じような小説を書くことのほうが遥かに難易度が高いんですね。みんながディケンズを真似してもだれもディケンズのようには高く評価されない。ディケンズには新しさも古さもない。でもむしろそれこそが究極的に実験を成功しているんじゃないかな。『デイヴィッド・コパフィールド』はあれは自伝だからね。AI時代になっても価値が損なわれない。そう考えるだけでも凄まじい。AIの登場に右往左往している物書きがいかに凡人か。ディケンズから学べるはずです。
島:AIから傑作が生まれるとすれば、現状では、それはAIに繰り返し途方も無い時間をかけて指示をして自分の望むかたちにする=そもそもその人間に書けるものであるということになる。この点に気づいてほしいですね(笑)。AIから最高の表現を引き出すには、ユーザーの言語力、読書歴などが強く求められる。
楠木:表現力という点では、言葉・文章を鍛えるのはもちろん、存在の証明が必要ですね。
横森:表現ってのはプリミティブに突き詰めると√2だからね(笑)。面積を考えるなかで既存の数字・記号では捉えきることができない問題に直面して√2が作られた。これがまあ表現ってことになる。構造としてすでにそこに在るが、未だそれを言葉にして説明ができないものを発見し、それを新たな記号・言葉にする。ハイデガーなんかはむしろその「在る」に着目しているけど。この「在る」が、現代的に「内省」に通じている。
楠木:ハイデガーが20世紀最大の哲学者でありながら批評のテクストとして多くの場で用いられるのは、「在る」を探して表現するということから抜け出て、「在る」そのものを考えたからですね。こうした転換が批評をつくる。表現というのに話を戻せば、表現というのは、概念はあるけれど、現実にはまだ定かになっていないものに自分なりに色やかたちをつけてあらわすことですね。
島:「世界の記述」を「表現」として考えると、言葉よりも数字のほうが可能性が高く感じてしまいますね(笑)。
横森:いや、そんなことないよ。言葉のほうが可能性がある。大前提として世界を完全に記述することは数字でも言葉でも不可能だからね。その前提のなかで、それでも記述し得る可能性を考えると「言葉」が勝つ。
島:AI的に0と1で羅列したほうが量的にも可能性が高いのでは?
楠木:量的に考えると、不可能だと答えが出るのでは?ここでは、記述し得る可能性で考えるのではなく、小説という形式そのものの可能性を見るべきですね。要するに小説というのは意味・解釈の可能性に支えられたものなので。意味・解釈が読み手次第で無限に広がるという前提に立てば、世界を記述し得るという立場を取れるんですね。たとえば概念として「無限」はあるが、現実には定かではない。という現時点での限界に対して、小説内に無限の世界が広がっているという可能性で応えることができるのではないか。つまり世界を把握しきれないという現実があればあるほど、小説=言葉がそれを引き受けてしまうという逆説が生まれる。小説は最初から世界は多義的であるという前提で書かれている。だから、「世界」が把握しきれないほど、むしろ小説の形式はそれに適応する。
横森:俺の理想では、小説は世界の解明を先取りしていなきゃだめで、というのも、将来的に世界の解明が進んだ際に、その世界の住人が過去の世界の小説を呼んだ際に、多くの部分で現実とリンクして解釈せざるをえないから。「人間」というものがある意味、時間をこえる道具として活用されているのが小説なんだ。
島:小説は世界を説明するのではなく、世界がどう解釈されるかを先に作っている。科学が世界を数式で固定する前に、文学が意味の枠組みを用意しているという前提に立つと、ロブ=グリエとディケンズを強引に対峙させることになにやら深い意味が出てきた気がします(笑)。
2026/02/27 楠木かなえ

