『ジャーマンアイリス』の魅力、HKT48スタッフ殺傷事件について、など

「アイドルの可能性を考える 第六十回」
メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:写真家・カメラマン。
「反応としての感情」
楠木:初心にかえるつもりはないんですが、それでも仕事をしていくなかで忘れてはいけない基本をつい忘れてしまうことが増えてきたので、最近は柄谷行人とか、ベンヤミンとか、寝る前に読むようにしている。ところで活字の魅力として、読む度に、あらたな発見がある、まったく違った作品に見えるという点があるはずですが、そうした一面のなかには、以前に読んだときも確かに影響を受けたが、しかしいつの間にかそれを忘れていた、という瞬間もあるはずなんですね。たとえば柄谷行人の江藤淳評のなかで、柄谷行人は自分以外で本の読める批評家は2人しかいないと言う。それは江藤淳と平野謙のことなんだけど、この2人は小説にたいして自分が感じたもの、考えたものだけを語れる作家だというようなことを云っている。要するに、多くの批評家は、自分が感じたことを大衆が考えること、つまり誰もが思いつく発想に無意識にすりあわせてしまっている、だから小説が読めていないと指摘している。これは、こうして言葉に並べてみると、批評としてはかなり基本中の基本に感じる。でも、いつのまにかこういう意識は薄れていって、自然と大衆感情に寄り添って理論的になってしまうのが、凡人の特徴なんですよ。だれもが感じて、だれもが考えることを言っても仕様がない。読み手に新しい情報・刺激を与えないものを、どうして批評と呼べるのか。だからといって、だれも言わない、誰も感じないことだけを言ったって、それで批評が売れるのかというと、そうでもないし……そういうのは相手にされないからね。柄谷行人は平野謙にたいしては作品そのものはつまらないと斬り捨てているけれど、でも本を読む能力はあると、認めている。
横森:名前は忘れちゃったけどさ、柄谷行人に「この人は小説が読めない」って言われて姿を消した若手の批評家がいたよね。まあ当時の文壇で柄谷行人から名指しでそんなこと言われたら……。
楠木:それで本当にダメになってしまったのなら、本当に才能がなかったんでしょう。
島:そういうエピーソードを聞くと、作家の世界は健全なんだなと思いますね。
楠木:文脈次第ですが、作家くらいは不健全でないと、いよいよ活字は終わりだと思う(笑)。
島:才能のある人間がそのとおり存在感を示して、無能な人間が淘汰されるのは、望むところでは?
横森:それは建前で、文芸の世界こそ才能の墓場であるべきでしょ。
楠木:才能があってもダメになってしまった人たちがいる、というのが希望になるんですよ。少なくとも日本の作家はそういう人間を演じてきたわけだし、それは文芸だけじゃなく、芸能全般に言えるんじゃないかな。たとえば福田和也の色川武大評のなかで林葉三という芸人が出てくるんだけど、この林葉三は、今で言う一発ギャグの先駆け的な存在になるのかな、一発ギャグというのは、要するに「衝動」ですよね。人間の衝動というのは、それが狙った行動ではないだけに、どこか滑稽で、また目を背けたくなるほどに無垢で、陰惨であるはずです。才能のない芸人は、ただ滑稽を狙うだけで、陰惨さがないんだね。林葉三は、たとえば着ている服を世辞で褒められたら、そのまま河に飛び込むような人間で、衝動に生きている。酒に酔って、溺愛していた自分の娘を「こんなものいらねえ!」と言って窓から放り投げて、それが元で亡くしてしまう。それからは骨壷を持ち歩くようになって、酒に酔うとその子の骨を齧るようになった。陰惨すぎて、だれからも声がかからなくなった。芸人としての命運は尽きてしまった。でもこうして今、後世に名前が出るわけだからね。
島:それはもう才能以上の話題に見えますが(笑)。
楠木:もちろん。それにこうしたエピソードはもはや時代錯誤の産物でしかない。でも「衝動」は人間の本質ですからね。たとえば若さというのは特に、それが生きるためにしなくてはならないことであるかどうかを問わず、その瞬間はそうするしかなかったという決断のなかで生きている、そんな情況を指すはずです。それが人生において正しい選択には思えないとしても、あのときはそうするしかなかった、そんな瞬間に生きているのが若者です。自分がこのさきどうなるのかなんてわからない、それが青春です。
横森:鬱は真面目に生きている人間の病気だ、みたいなことを言う奴が信じられなくてさ、病気に善人も悪人もないからね。悪人だって鬱になる時はなるし、それは善人がなる鬱と変わらない病気だから。生物的な問題でしかない。
島:鬱は言語的な問題であって、生物的といっても動物的ではないですよ。
横森:風邪は誰でもひくからね。まあ、感情の前に言語が立っている場合のみ、人間は誰しも、という表現が使えるとして、病気は感情だろうが言語だろうが関係なく、平等に、生きるものに襲いかかる。
楠木:人間とその他の生き物の枠取りを、言語をもつかどうか、という点にしぼるとして、人間がその他の生き物とおなじような状態にありえる瞬間があるとすれば、それはやはり「病気」だと思います。病気になって、激痛に堪えられなくて唸ったり叫んだりする瞬間、言語から抜け出ているんですね。痛いという言語、言葉、表現があるから痛いわけではないし(笑)。でもそう考えると、音楽における興奮というか、音楽への反応そのものですか、これは言語から抜け出る場合も多いんじゃないかな。もちろん言語に作られた感情のなかで与えられる興奮とどちらが上なのか、言いたいわけではなくて……。
横森:「wow」とか「ah」はその「反応としての感情」の表現だよね。
楠木:歌詞に書かれているなら、そうだろうね。でも歌いながらその部分で反応としての感情としてそれが出てくる場合もあるのかもしれないし、たとえば『ジャーマンアイリス』の大野愛実の表情や歌声はそう見える。だから、その部分では表情が毎回変わるんだね。音楽にある種、人としての成長があらわれていると言うか。
横森:あれは歌詞のちからもあるよね。秋元康自身、言葉にならない感情に最終的にたどりついて、そう叫び落ちるしかないというところまで作詞でたどり着けたんじゃないか。
楠木:最近の僕は、そういう関係性、秋元康と音楽が、音楽とアイドル、アイドルと秋元康という関係性につながっていくその状況、その過程を考えることが、とくにアイドルの魅力になっているんだよね。
「偶像になりきれないアイドルたち」
島:HKT48スタッフ殺傷事件についてはどうですか?
楠木:アイドルがファンにとって神秘的な存在=偶像になりきれていないことがよくわかりますね。話を極大すると、たとえば「愛子さま」や「佳子さま」をこの事件の容疑者と同じ感情をもって襲う人間はいないですよね、きっと。むしろ反対に、皇室にたいしては、それを命をかけて守ろうとする人間がいる。昔、週刊文春が「美智子皇后のご希望で、昭和天皇が愛した皇居自然林が丸坊主」なんてタイトルの記事を掲載したら、案の定、文藝春秋の社長宅に銃弾が撃ち込まれた。アイドルシーンはそういう次元にはまだ達していないということですね。それはやはり根本的に、恋愛感情という短い距離から抜け出ないからなんだと思います。刺した刺されたって、恋愛感情がほとんどでしょうから。もっと尊い存在にまで押し上げられないから、襲われる側で居続けるんでしょう。皇室は保守の話題ですが、それとは別に、騎士道精神みたいなものが今も昔もアイドル・コンテンツには欠けていますよね。
横森:若くして死ねちゃう人と死ねない人がいる。尾崎豊や坂井泉水は死んだけど、窪塚洋介や広末涼子は死ねなかった。HKTのメンバーは、パラドクス的に助かったという意味で当代的・運命的に感じる。
楠木:アイドルを個人的な人間感情として嫌いになるという経験が僕にはまだなくて、たとえば、あるアイドルのことを嫌っている、憎んでいるというファンは、そのアイドルのことを作品をとおして眺めた際に人間感情としてネガティブなものを抱かずにはいられないわけでしょう?でもそれってアイドル・コンテンツの最も魅力のある部分、核心から遠ざかって行く情況と言える。アイドルというのは活力の女神ですから、それを眺める時間のなかで憎しみの感情が湧くというのは自分から不幸になろうとするような、なんともまあ、お気の毒としか云えないんだけど、裏を返せば、アイドルにはそれだけの影響力があって、それに負けているとも捉えられますが。
横森:自分の人生のネガティブな部分をアイドルに押し付けるファン、俗な言い方をすればアンチ、こういう存在はコンテンツの低俗化をまねくからね。いい歳した大人がアイドルに甘えているわけだから。
島:そういえばこの前、OLEさんと話していて、炎上系と言うんですか、まとめサイトとか、その手の。アイドルならそれこそアンチ系の話題はここ最近は大衆に見向きもされなくて、盛り上がらなくて金にならないから、どんどん減ってきている。ファンが成熟して、10年前20年前と比べれば、どんどんまともになってきていると言っていましたよ。これからは、そういうコンテンツに没頭するのは、心の極端に貧しい人間だけになるだろうって。
横森:アクセスの少ないアンチ・コンテンツとか、それいじょう不幸なものはない(笑)。
楠木:こういう事件が起きると、大衆感情みたいなのが押し寄せて、アイドルファンが現実に直面させられるというか、大衆から自分たちがどう見えているのかを、自意識過剰的に理解すると思うんですが、それはアイドルを演じる少女たちも同じだと思うんですね。「幼稚」「成長」というものがコンテンツの砦ではなく、コンテンツを崩す攻城兵器にすり変わるというか。シーンがくだらなく幼稚であるというふうに自覚していくなかで、たとえば自分の美貌が称賛を浴びればあびるほど、焦るようになるんじゃないかな。井上和とか。このままアイドルとしてこの美貌を消費していっていいものかと、焦るはずです。HKTの事件とは直接は関係ないけれど、そういう反応みたいなものを探す、見つけるのも、批評としてはおもしろいと思いますけどね。
2026/01/03 楠木かなえ

