中西アルノちゃんがお勧めしてた「ストレンジャー・シングス」を観た感想

「アイドルの可能性を考える 第五十一回」
メンバー
楠木:文芸批評家。映画脚本家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:写真家・カメラマン。
「イルマティックな中西アルノ」
島:今回のブックリストは、ディケンズ『オリバー・ツイスト』/ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』/ゾラ『居酒屋』/スタンダール『赤と黒』/ユゴー『レ・ミゼラブル』/チェホフ『ワーニャ伯父さん』/アドルノ『文学ノート』/塩野七生『ローマ人の物語Ⅴ』。今回はすべて楠木さんに選んでもらいました。まあとにかく、いわゆる「名著」のたぐいですね。
楠木:テーマは、当時の海外文学への翻訳がいかに批評としての文体に昇華されているか、という点にあって、要するに「文体」です。僕は今、ディケンズにはまっていて、一から読んで、ディケンズへの批評もね、折を見て、海外の古本屋を巡って、蒐集に励んでいる。過去の批評家連中がどうディケンズを眺めていたのかという点はさして興味はなくて、たとえばディケンズを翻訳した中野好夫や中村能三が、グレアム・グリーンなどの、ディケンズを囲んだ批評を読むなかでどうやって翻訳の文体を作り上げたのかという点に興味がある。ディケンズの文体って、フローベール云々はともかく、そのまま批評として使えちゃう。実際に僕自身、批評を書くなかで、批評をフィクションにする、作品にする、この意思に応えてくれる文体を探るなかで、これなんじゃないかって、手応えがあるんですね、ディケンズへの翻訳は。批評の起源はヴァレリーやサント・ブーヴに話題を譲るにしても、じゃあ批評を書き作品をつくるという場面において、文体、文章というものをどうするのか、作家は個々に考えなきゃならないから。
OLE:ディケンズにしてもドストエフスキーにしても語り口がエッセーのようなリズムがある。でもエッセーのように書いてしまったら、小説家は批判を浴びるわけでしょう?散文にしても非散文にしても。
楠木:小説というのは要するに物語を結構させる意識があるかどうかということなので、作家が自分の思想を垂れ流すだけじゃ小説=物語にはならない。~のような朝だった。表通りにはまだ人の気配がない。とかね、章の冒頭に置くことで物語が起き上がる。小説になるということです。
横森:エッセーでそれをやっている作家もいるけどね。
楠木:ジャンルの越境みたいなのを言い出したらキリがない。反対にエッセーを小説だと言って売っている作家もいる。でも、そもそも小説というのは基本的には虚構じゃなきゃはじまらない。
島:ローラン・ビネは批評の文体で小説を作っていますよね。これは、批評における私情の強度といった話題に帰結するんだと思う。私情を批評ではなく小説に活かしている。
横森:批評における私情の強さだとか、公正だとかって、それこそ批評に興味を持ちはじめた中高校生が最初に感じる疑問で、そんなものをこの場で何度もこする必要はない。批評を読んでいれば、だれでも抱く疑問だし、誰でもすぐに解決する問いだから(笑)。島君というか、編集者って読者を子ども扱いする傾向があるよね。「出版」って言葉に囚われすぎてるよ。読者はそこまでバカじゃないから、なにからなにまで説明してやる必要はない。本の衰退は、出版社が読者から考える力を奪った結果だよ。
楠木:公正であるかどうか、私情を捨てているかどうか、果ては、人間は文章において私情を捨てきれるのか、とかね、そういうのはもう何百年も前に語り尽くされた話題で、ここで新しく語れる部分は残されていないように思う。この手の話題って、突きつめてしまえば、批評の信頼性にかかわり、信頼性があることがその批評が読まれる読まれないにかかってくる。要するに作家として食えるかどうかという問題です。作品がよく読まれるということは、作品が世に残るということですから。ところでじゃあ実際に世に残っている批評を眺めるに、そのほとんどが私情を強く打ち出したクリティークであることは、説明するまでもない。作家の個性が文章に出るから、その作家の名前が読者に覚えられるし、文章で食えるようになるんです。たとえばクラシックを批評するとして、ショパンやらベートーヴェンやらモーツァルトやらの名前のいくつかを、無視できるのか。自分のなかで「良い」と信じることができないとき、その名前を無視できるのか、ということですが、ルバテなんかは自分の信じる部分を曲げないで巨匠のいくつかを完全に黙殺している。クラシックを批評した本のなかで誰もが知る巨匠の名が落ちているとき、これはただ単に作家の好き嫌いを書いただけの文章で公正な批評ではない、と云うのは無知な若者の衝動でしかなく、現実を見れば、そうした批評のほうが長く読まれているし、アートとして名が残っている。音楽批評でルバテの音楽史ほど息の長いものはない。なぜならそこにはその作家だけが信じる「価値」が書かれているからです。作家がそれだけ強く信じるなら、読者もまたそれを信じてみようと、行動する。その「行動」の部分に批評の力を見るべきです。
OLE:その「信じる」って部分では塩野七生ってルバテと近いんじゃないか。今回のテーマを考えるうえでも、明瞭な存在に感じる。小説家と歴史批評って立場でもね。
島:ポンペイウスよりカエサルなんですよね。まあ塩野七生に限った話ではないですが。
横森:カエサルの文章を褒める段で、『ガリア戦記』が歴史上いちばん長く読まれている、という塩野七生の評は、説得力がある。でもいちばん面白いのは、カエサルは前置きを書かない、そこが並外れているんだ、って云う点。平凡な書き手は、読者に配慮してしまう。でもカエサルは配慮しない、と。俺に言わせれば、そういう細部に想像力が働く塩野七生こそ並みではない(笑)。
楠木:真似しようと思えば、真似はできるんだよ。でもそれだとどうも格好がつかない。で、結局、書き足してしまう。そこでようやくカエサルの凄さに気づく。
島:『カラマーゾフの兄弟』なんかはその我慢ができていないですよね。
楠木:『カラマーゾフの兄弟』の「作者の言葉」は、僕にとっては作中もっともスリリングな部分で、批評家に向けたアイロニーとは簡単には言い切れない、むしろ批評家が書くべき批評のスタイルを小説家の立場をもってあっさり書いてしまうその才能に、慄かされる。ところで今、ふと思いついたんだけど、ガルシア・マルケスの『電話をかけに来ただけなの』は、実はドストエフスキーのこの言葉に着想を得ているんじゃないかな。
横森:しかしこの歳になって『カラマーゾフの兄弟』を読む羽目になるとは思わなかった。
OLE:『カラマーゾフの兄弟』は今読んでもおもしろい。『レ・ミゼラブル』は苦痛。
島:今『レ・ミゼラブル』みたいな小説を書いても表に出ないでしょう。でも『オリバー・ツイスト』は出るんですよ。やっぱり映画化やテレビドラマ化もされるんじゃないかな。最近なら『スイート・トゥース』はこれでもかってくらいディケンズです。ただ、小説というものの価値を考えると『レ・ミゼラブル』は価値ありますよ。小説だけが表現しえるものがある。
横森:『レ・ミゼラブル』の描写なんてのはそれこそ映像で簡単に再現できる。小説の魅力ってのは「言葉」で、その言葉が読み手の人生・時代にあわせてどう変わるかってところにあるんだよ。
島:映像だと意識されないんですよ、風景のシーンなんて。無意識だとか、サブリミナルでしかなくて。文章ならそれは許されないでしょう。時間をかけて読まなきゃならないんだから。
楠木:『スイート・トゥース』ってネットフリックスですよね。今さらですが、中西アルノの影響で『ストレンジャー・シングス』を全シーズン鑑賞しました。想像していたよりも、おもしろかった。
横森:『ストレンジャー・シングス』はテキストはテキストでも小説じゃなくてボードゲーム、ゲームブックを下敷きにしている。サイコロで運命が決まる、みたいな。そういう意味じゃ、古いものを使いつつ、実は今どきの、若者向けの作品ってイメージ。脚本が行きあたりばったりなのも、今どきの作品って印象。
島:最近だと『ディヴィニティ』や『バルダーズ・ゲート』など、本来ボードゲームでしか得られなかった体験が、テレビゲームで体験できるようになった。『ストレンジャー・シングス』がそのドラマ版だとは思いませんが。
横森:ネットフリックスのドラマ全般に云えることはポスプロとの連携が上手くいっているって点かな。世界観がしっかりできてるでしょ。映像の色の付け方を考えているんだよ。
楠木:ヲタクな子どもが集まって遊んでいるのって、すごく楽しそうに見える。でもそれって大人になってこそ思えることなんですよね。地下室でボードゲームを遊んでいる。そこに自分も混ざりたいと思うのは、大人になってからであって、子ども時代は、きっとそうは思えないんじゃないかな。ダサいとか言って、サッカーとかバスケットをやって格好つけちゃう。クラスメイトのなかに、ヲタクって絶対にいたはず。そういう子と距離を取らずに、わけ隔てなく、友人になれていたら、面白かっただろうな。まあこういう考えは、傲慢でしかないけど。そういう意味では、中西アルノいわく、スティーブが憎めない愛されキャラに感じるのも当然です。視聴者はスティーブの視点を借りて、子どもたちの輪に、ヲタクの物語に加わり、共に闘うからです。
横森:現実では、ヲタクな子どもには、あんな行動力はないよね(笑)。だからあれは大人が理想とする「子供時代」なんで、つまるところ『スタンド・バイ・ミー』だね。中西アルノが、登場時に性格的な問題を抱えていた、脛にキズを持つスティーブを気に入るのは、投影っぽくておもしろい。
楠木:ダスティンを除けば、マイク、ウィル、ルーカスにしても、成長するにつれてキャラクターに魅力がなくなって、凡庸に描かれている。大人になると、往々にして人は平凡に収まっていく。そういう部分と、その葛藤がよく描き出されている。もちろんその種の葛藤を経て、人はようやく個性を獲得する。アイドル的な話題に落とし込めば、おそらく、僕はダスティンのようなキャラクターを評価する傾向にあって、大人になってしまったアイドルが、どのような個性を獲得しているのか、という視点には、まだまだ及んでいないように思います(笑)。それでも僕はやはり、エディがダスティンに向けて云った、絶対に変わるなよ、というセリフに引かれてしまう。
島:連続ドラマが抱える問題のひとつに「子役の成長」がありますが、この作品はその問題を回避できていますよね。『ウォーキング・デッド』なんか子役が成長しすぎてドラマ世界の設定に合わなくなってしまった。最終的には、ゾンビに噛ませるしかないってところまで追い詰められてしまった。子役の俳優は、これからもドラマ出演が続くと考えて、撮影現場の近くに家を購入してしまったらしい(笑)。
楠木:その手の実際的な話題を『ストレンジャー・シングス』に継げば、シーズン4では、これまでのシーズンとは様相が変わって、主要登場人物の「死」が描かれています。「悪」との闘いにおいて、視聴者に馴染み深い登場人物の死を描き出せないという現実的な制約としての問題を、一般生活者が超能力者に助太刀しつつ世界を救うというこれまでと変わらないストーリー展開のなかで、闘いの直接的な解決には寄与しない瞬間に、登場人物がみずから命をかけ死ぬという場面が描かれている。つまり無駄死にということだけれど、無駄死にであるだけに、世界を救うという大仰な使命から逃れ出て、仇討ちという、個人のプライドを護るための闘いと、その勝利を死というかたちで描くことに成功している。
OLE:そういう個人の闘いが、実は大衆からもっとも強い称賛を受け、英雄になるんだよね。
楠木:ディケンズへの批評で、福田和也はディケンズの文体、小説のスタイルですか、ディケンズがなぜ教養小説に一貫するのかという問いに、「大衆からの称賛」と返している。たしかにディケンズは、ウンザリするほど、同じ手法を繰り返し用いています。時系列は異なるけれど、『デイヴィッド・コパフィールド』を読んだあとに『オリバー・ツイスト』を読むと、またこの手の話か……、と呆れる。なぜそこまで同じスタイルを繰り返すのか、それは大衆に受け入れられたいから、と云うしかない。大衆にもっとも受ける型が教養小説である以上、それを書き続けることが、称賛を浴びることにつながる。そしてこの点が破格ですが、そのとおり、ディケンズは今でも読み続けられている。大衆に歓呼されたいと切望するのは、要するに「欲」が深いということです。
横森:文芸、芸事においては「欲」ってのは大事だからね。
島:そういえば、「著作権」ってディケンズの功績ですよね。
横森:小説が社会を動かす力をまだ持っていた頃の、幸福な例だよね。
楠木:ディケンズの社会運動は「善」なる意識から取られているわけではなく、教養小説を書く、つまり社会の悪い部分を大衆の前に物語として暴き出すことで、同情を買う。涙を誘う。そうした感情が、社会を変えなくては、と大衆を行動させる。つまり小説が社会を動かすわけだけど、そもそもその小説を書く動機が、大衆に称賛されたいという「欲」だという点が肝心なんですね。人によく見られたいとか、有名になりたいとか、銭金を稼ぎたいとか、「欲」が社会を動かしているということを、ディケンズの小説から学ぶわけです。おもしろいのは、こうした考えを、日向坂の渡辺莉奈を眺めながら、想起した点で、前からずっと、この人は欲深そうだなと、思っていて。それはなぜか、なぜそう感じるのか、考えていて、で、おそらく言葉なんじゃないかと。たとえばブログとかインタビューを読むと、言葉がすごく硬い。この硬さが「欲」を感じさせているんだと考えたわけです。
島:良く見られたいから言葉が硬くなる。これはまあ、若者にありがちですよね。家族にたいしては別の言葉を用いているはずですから。もちろん、性格の問題も無視できませんが。
横森:誇張しすぎ(笑)。
楠木:でもね、今のアイドルたちに絶対的に足りていないのが「欲」であることは間違いないからね。最近、欅坂の楽曲をすべて順位付けるというのをやって、わかったことは、平手友梨奈に並ぶアイドルが出てこないのは、ただ単に『サイレントマジョリティー』のようなヒット曲をだれも持たないからだよ。自分が表紙を飾った楽曲が社会にたしかな影響を与えているという実感、めのくらむような称賛を現役のアイドルは経験していない。だから、平手友梨奈のようなアイドルはほかに一人もいないと断言することができる。才能をもった少女の出現は、今でも起きているかもしれない。でもその才能に見合う楽曲の出現が、『サイレントマジョリティー』以降、途絶えている。あるいは、ヒット曲を生ませるだけのなにかを備え持つ少女が、平手友梨奈以降、一人も出現していないと、斬ったほうが早いかもしれないけれど。
横森:とは言っても、あまりにも欲深い子は売れないでしょ。後藤萌咲だっけ?個人的にはああいうタイプの子は好感持てるよ。ただアイドルとしては、どうしても厳しい。門脇実優菜とかもね。
OLE:言葉の硬さに「欲」を探し出してしまう視点は生来の批評家といった運動神経で、頭が下がる。でもそれって普遍的な話題であって、渡辺莉奈にだけ落とし込めるのか。アイドルって、ブログが「文章」の主戦場になるはずだけど、ブログ向きの口語を使えるアイドルって実はものすごく少ない。渡辺莉奈とまではいかなくても、みんな同じように、文章を書く際に言葉が硬くなる。
横森:普遍的なことを、一人のアイドルをとおして語っているだけだから、それはそれで問題ないよ。代表する存在ってことだから。西野七瀬のスタイルだって、特別なわけではなく、代表しているってことでしょ。
楠木:アイドルのブログは散文と非散文のバランス感覚が大事だとおもいます。齋藤飛鳥は散文の強度が高い。久保史緒里や寺田蘭世は非散文です。小林由依がこのバランスが良い。最近なら中西アルノもバランスが良い。
横森:非散文的になるのはさ、選抜発表の直後とか、そういう場面だけじゃないの。みんなそれぞれ姿勢を正して文章を書くでしょ。ファンにアピールする絶好のチャンスだと捉えているわけだ。
楠木:落胆するのは、そういった、形勢を一変させなければならないような場面で、ファンを笑顔にしたい、そのためにわたしはアイドルになった、とか、嘘をつく少女が多い点で、そういう場面で本性を、野心を見せることができないから、人気が出ないんだよって言いたくなる。仮にそれが本心なら、なぜ人々を笑顔にしたいのか、理由を語るべきだけど、そうしたアイドルは、ほとんどいない。いちばんの問題は、ほんとうはそんな志なんて露ほども抱いていなかったのに、アイドルを演じる過程で、つまり嘘をつくる過程でそれが自分の本心であると、思い込んでしまう場合が、多々あるように感じる点。チャンスをピンチに変えているんだね。
島:中西アルノ、センターに返り咲きましたね。
横森:ニュースで知って、久しぶりに乃木坂のバラエティ番組を観たけどさ、インタビューの場面で下を向いて話しているのを見るに、結局のところ、あの子はデビュー当時のまま変わっていないんだと思う。デビュー当時の騒ぎを今でも気にしているわけでしょ?乗り越えられていないんだよね。つかの間、忘れることはできても。「今考えるとほんとくだらないですよね、あんなことで大の大人が揃って大騒ぎして」くらいのことをもう云ってもいいはず。
OLE:それを言っちゃうと人気が下がるから、思っていても言えないでしょ(笑)。
横森:でも今それをなんとかして言葉や行動に表さないと、大人になってしまえば、そういう反動すらもうなくなっちゃうからね。
島:スティーブに憧れるなら、その反対の行動を取らなきゃだめですよ。それで、実際に中西アルノはスティーブのように行動しているように見えますよ。いつまでも斜に構えて、悪ぶってはいられない。
OLE:それこそディケンズの「欲」に通じる話題だよ。
楠木:彼女にとってのアイドルって、ドラマ的に言えば、自己嫌悪が描き出す妄想の一種で、希望の世界に救われているようで、実は、救われてはいないのかも。
島:そういう内面的な評価ですか、あとは、歌の上手い下手とか、そういうのとは別に、選抜の顔ぶれを見ると、豪華ですよ。中西アルノがセンターに立つと、豪華に見えるんですよ。井上和だけじゃこうは見えなかった。なにか持っているってことですね。周りが放っておいてくれない、特別な何かを。
楠木:僕が見る限りでは、考えうる最高の選抜、フォーメーションを実現していると思います。過去のシングルすべて含めて、最高のかたちだと思います。これほど理想的な選抜はこれからさき、もう見られないんじゃないかな。中西アルノが前に立つと、イルマティックなんですね、まさしく。新センターが2023年の井上和以降生まれていない点も良いですね。新センターが誕生しないのは、安定している証拠です。新センターが次から次へと誕生するグループは混迷期にあると言って良いんじゃないかな。ローマなんかがわかりやすいけれど、人材不足に陥ると、トップがコロコロ変わるんだよね。こうなると危険信号です。遠藤さくらが卒業したら、池田瑛紗をそのまま上げればいい。まあでも次は6期が入るだろうし、大変だよ、アイドルは。
2025/03/23 楠木かなえ