櫻坂46 五月雨よ 評判記

「五月雨よ」
歌詞、楽曲について、
櫻坂46の4枚目シングル。センターに立つのは山﨑天。
これまでに発表された表題作のなかでは、これが一番良い、とおもった。「希望」が漲っている。
「次世代」の注目株として、また”前作”の主人公である平手友梨奈との一筋縄ではいかないかかわり合いを持つ登場人物として、メジャーデビュー以来、常にセンターポジションへの憧憬を打ち出してきた少女がようやく表題作の中央に立った。山﨑天はこれまでに、表題作と同等の扱いを受けたカップリング曲(『Buddies』『思ったよりも寂しくない』)においてセンターを務めてきたが、森田ひかるや藤吉夏鈴の才能とその飛翔に比して、正直に云えば、あまり壺にはまっていないように見えた。楽曲の備える世界観とアイドルの表情に見過ごすことのできない溝があり、良く言えば櫻坂46・山﨑天としての有り様に向けた暗中模索の劇、否定的に捉えるならば、森田、藤吉のカウンターカルチャーでしかなかった。演技、とくに笑顔とダンスに身振り手振りの大げさなところがあり、楽曲の世界観から一人だけ違う場所で踊っているような、そんな違和をもっていた。そうしたアイドルの演技の瑕疵は今作『五月雨よ』においても払拭されていない。ただ、今作では、これまでに育んできた山﨑のそのアイドルとしての個人的背景が、楽曲のもつ世界観の絶妙さを、そのバランスを保つことに役立っているようにおもう。不思議と耳に残る、おもわず口ずさんでしまうようなメロディをひく、楽曲の音楽としての魅力はもちろん、そこに「アイドル」が関わることで、それを「アイドル」が表現することで、より楽曲の世界を理解する、より楽曲に没入できるという、輻輳(ふくそう)の成功を叶えている。
それは「五月雨よ」というタイトルとそれを詠んだ詩情のセンスによくあらわれている。詩的に満ちあふれているし、歌詞カードの上に「アイドルの成長」の軌跡がたしかに映されているようにも感じる。とくに、グループアイドルの物語に対して抱くある種の冗長さを断ち切ることを、「五月雨」という小道具・情感を用意することで、冗長さを断ち切る、ではなく、晴らす、という表現をもって、前を向きひかりある方に走り抜けるような、希望の物語に仕上げてしまえる点は作詞を生業とする人間ならではの手腕といったところか。櫻坂46のストーリーのなかに乃木坂らしさ”らしきもの”を打ち出す、あるいは乃木坂46の内側に欅坂46”らしきもの”を持ち込む、これはまさしく五月雨を眺めそこに淡い希望を見出すような行為なのだ。
ミュージックビデオについて、
アーティスティックに振る舞っている。この映像作品を眺めていて想うのは、なにか伝えたいことがあるから表現をした、だからアーティスティックに見える、という欅坂46の”イロ”が、どこかの段階で倒錯を迎えてしまったのだな、という感慨とその確信である。この映像は、表現したいものがあるからアーティスティックに見える、ではなく、アーティスティックに振る舞いたいから「表現」を用いている、だけにすぎない。前シングル『流れ弾』の流れを汲んでおり、表題作に限って云えば隘路から抜け出ていない。
ある作家が、一見してその魅力を提示することができない、あるいは平易に提示しようとは考えない難解な作品を差し出すとき、往々にして、表現に詩的さを用いる場合と、作り手の思考が混乱、錯綜している場合のふたつに大別できるはずだ。「詩」とは、言い訳の容易な、どのようにでも捉えることができる超越的な表現手段である。ゆえに芸術性を帯びやすい。作り手の思考の混乱、錯綜とは、要するに、他者に向けこれだけは伝えたいと決意したものを、その情熱がゆえに上手く言語にして現すことができなかった、というだけのことであり、たとえその作品が粗雑であったり稚拙であったりしても、それをじっくりと、根気よく読めば、作り手の内に秘められた、絶対にこれだけは云いたかったもの、がかならず見えてくる。つまり詩的であろうと、粗雑であろうと、鑑賞者にしてみれば、そこに作り手の私情さえ込められていればどちらでも構わないわけである。
問題は、そうした詩的さや錯綜そのものを狙っただけの作品が少なからずシーンに溢れている、という点であり、今映像作品もその枠に収まる。
これはアイドルに凡庸さを求めることへの話題とまったくおなじだろう。
アイドルは未完成であったり凡庸であるべきだ、という意見が正しいのは、あくまでも未完成であることが成長つまり可能性の探求につながるからであって、未完成そのものがうつくしいわけではない。これを勘違いすると、この少女は凡庸だからこれは良いアイドルだ、と考えてしまうし、凡庸を求めアイドルが採用されていくことになる。凡庸の内に成長への可能性があるのか、この点をもっとも真剣に考え眼力を鍛えなくてはならないはずが、凡庸そのものを探し求めてしまうという倒錯に陥っているわけだ。
MVに話を戻せば、詩的であったり混乱、錯綜している作品が鑑賞者に満足を与えるとするならば、それは作品の内に作り手の私情が込められているからであって、アーティスティックに振る舞えばウケるだろうと考え制作された作品には、当然、なんら魅力は宿らない(作り手の私情が爆発した映像作品を挙げるならば、それは乃木坂46の『ブランコ』が代表格となるだろう)。
今映像作品を眺めるに、グループの物語としての「過去」に対する表現によって退屈さ場面展開の乏しさをまねいているように感じる。それはやはり、過去を想うことによって演劇が作られたのではなく、過去を想っている、という情況を表現しようと試みたに過ぎないからである。
魅力を感じる部分もある。意図したものなのか、不作為なのか、わからないが、乃木坂46へのサブリミナルがあるように見える点は、おもしろい、と感じた。楽曲世界の大幅な転回にあわせ、グループの物語にあたらしいイロを塗ろうという決意のあらわれなのだろうか。アイドルの表情に逡巡があり、どちらかに決められない、という点において作詞家の混乱、錯綜に応答しているように見える。
総合評価 68点
再聴に値する作品
(評価内訳)
楽曲 15点 歌詞 14点
ボーカル 12点 ライブ・映像 12点
情動感染 15点
歌唱メンバー:渡邉理佐、小林由依、藤吉夏鈴、森田ひかる、山﨑天、田村保乃、武元唯衣、松田里奈、井上梨名、土生瑞穂、関有美子、上村莉菜、大園玲、守屋麗奈、小池美波
作詞:秋元康 作曲: 温詞 編曲:TomoLow、温詞
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