日向坂46 理想の「選抜」を考える 16th シングル版

ブログ, 日向坂46(けやき坂46)

(C)日向坂46公式サイト

「アイドルは青春のカルナヴァル」

「私たちは誰しも、多かれ少なかれ仮面をかぶって生きている。まったく仮面をかぶらずにこの熾烈な世界を生きていくことはとてもできないから。悪霊の仮面の下には天使の素顔があり、天使の仮面の下には悪霊の素顔がある。どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。そしてシューマンは、人々のそのような複数の顔を同時に目にすることができた――仮面と素顔の両方を。なぜなら彼自身が魂を深く分裂させた人間だったから。仮面と素顔との息詰まる狭間に生きた人だったから」

村上春樹/謝肉祭(Carnaval)

2025年の日向坂46は小坂菜緒のエポックになったと、まず云うべきだろう。センター3部作の2作品目にあたる『Love yourself!』は作り手が思う「小坂菜緒」を作品に結晶したような、小坂菜緒の集大成を強く想わせる作風を構えている。音楽のなかで小坂菜緒を奮い立たせることが多くの若者を励ます結果につながる、つまり小坂菜緒というアイドルには若者の屈託をリードするなにかがあるのだと信じる作り手の思料を、楽曲の内に拾うことができる。たしかに、アイドルが「君は君のままでいいんだ」と微笑みかけるとき、その言葉を素通りできず自己の内でなんらかの対処を迫られるのがほかでもないアイドル自身であるという光景と、その光景に、つまりアイドルが音楽に生動する瞬間にほかの何にも増して虜にされる、活力を得てしまうという事態は、時代の情感に包まれている。
作り手の「思い込み」が作品にされるという意味では、最新作である『お願いバッハ!』も同様のスタイルを示しているが、『お願いバッハ!』では、秋元康はより批評的に音楽を立ち上げている。
批評的な音楽とは、どのような音楽を云うのか。たとえば近年なら乃木坂46の『おひとりさま天国』が代表的な、決定的な例になるだろう。「おひとりさま」という時代のタームを音楽に持ち込み語ることで、大衆が想う「おひとりさま」へのイメージを転覆させる。アイドルを演じる少女の行く末に「おひとりさま」をかさねあわせることで本来的にはネガティブな、自己皮肉的な言葉であった「おひとりさま」を陽気さの極地として音楽に浮かび上がらせたのが『おひとりさま天国』なのだが、この、ある言葉・事物にたいして新しい解釈、情報、価値をつくりだす営為こそ批評にほかならない。「バッハ」を引用し、作詞家が個人の想像力のなかで「G線上」の「アリア」を語る、大衆から外れた感情を、大衆が当たり前だと思っている物事の核心に引き合わせるための発想として用いる、それをひとつの恋愛譚として音楽にかなでる『お願いバッハ!』もまた批評的な楽曲と言うべきだろう。

しかしなぜこうも、アイドルが歌う、アイドルソングで批評を展開しつづけなければならないのだろうか。
たしかに、ウンベルト・エーコからローラン・ビネまで――日本における知名度を考慮すれば村上春樹の名を優先して挙げるべきかもしれないが――、批評を小説として書いてしまう、欲望に抑えの効かない作家は古今東西、存在する。秋元康にしても同じことだろう。批評を、音楽の歌詞として書いてしまう。批評を小説にしたり、音楽にすることに異議はないが、そうした欲望には、興味がある。それはどのようにして姿を現すのか。それはやはり、ある事物にたいして抱いた想像・妄想をなんらかのかたちにして表したいと願った瞬間ではないか。
とすれば、秋元康はなぜアイドルソングで批評を展開するのかという疑問は、それ自体、意味をなさなくなる。
批評を書くならば、スキゾフレニックに書くという場面は絶対に避けられない。個人的な想像力の極北として現れる妄想に芸術性が宿るのはごく当たり前のことだが、今日では、その芸術を考えることがもはや芸術になっていると批評家・福田和也は言っている。その言葉に学ぶならば、つまり秋元康はなぜ音楽に批評を書くのか、ではなく、ある事柄にたいして――秋元康の場合、それは往々にして青春ということになるはずだが――それを考えるなかで、つまりこれまでの自分では気づけなかったものを見つけようとする時間のなかで、過去の自分に現在の自分の言葉・感情をもって語りかけることになる、その営為が、自らの「魂」を分裂させた、妄想にほかならない。その「妄想」が「批評」という芸術のひとつの分野にあてることができる、ということに過ぎない。だから、秋元康はなぜアイドルソングで批評を展開するのか、この疑問は、それ自体、意味をなさなくなる。批評を書こうという熱意があるのではない。過去を想い、考え、青春を音楽に起こす行為が、批評に見えるだけだ。

こうした、作詞家・秋元康の妄想を饗宴しなければならない立場におかれたアイドルを支えるものもまた、スキゾフレニック、すなわち「自分ではないもう一人の自分」になるのではないか。
無垢は、恥知らずだ。純粋さは、世間の通念から逃げ出した臆病な人間の背中に宿るものだ。でもアイドルはきっと、無垢であり、純粋でなくてはならない。すくなくとも、そういった純潔な一面を演じなければならない。自分が聖別された存在などではないことをほかの誰よりも理解しているのがアイドルを演じる少女本人のはずだが、その種の客観性は、ステージに上がる以前に、日常のどこかで排除しておかなければならない。昔は良かったと、嘆息をもらし、時代の行く末に絶望することでノスタルジーに包まれていく人間と、自分が死んだあとの遠い未来における世界の風景に羨望をいだく人間のどちらにも、音楽をとおして寄り添わなければならない。古代遺跡の壁面に描かれた一角獣を見て、古代人の敬虔な創造力に感嘆するのか、古代の大地にはこんな幻想的な生き物がいたのかと驚嘆するのか。アイドルは、常に後者の立場を取らなければならない。その演劇をスキゾフレニックだなんだと云うのはかなりアナクロで安直ではあるのだが、けれどそうした仮面をつけることになった少女だけに見えるものというのが、たしかにあるはずだ。さて、それはどのようなものだろうか。


金村美玖
日向坂46のトップメンバーの一人。芸術の分野でも話題を作ることが多い。繊細な人なのだろう。カメラを手に、世界を切り取る際には、特に人物の枠取りに豊かで、感情の微妙な背景を写し出す。芸術とアイドルの結節点をグループアイドルの魅力として映し出す。その繊細さは、ある部分においては、頼りなさとして露呈してもいる。数多くのステージに立ち、場数を踏んできた割には、未だ緊張感で強張った表情を見せる場面が多い。もちろん、その頼りなさ、心の波打ちが、アイドルとして捨てがたい、重要な部分であるのも事実だ。

小坂菜緒
デビューからひときわ高く注目され、8年経った現在でも主人公感を枯らさない。しかもその長いキャリアのなかで今が最も未成で、完成されて見えるという点が、並外れている。『Love yourself!』をもって、職業アイドルの境地に達した。詩情を導き、音楽に得た表現が、自身の弱さの作品化であった点に小坂菜緒の本領がある。

松田好花
「放送作家」へのチャレンジでは、同業のアイドルの素顔を捕らえようとするなど、出会い頭に発見するアイデアなどではない、言葉の企画力に優れた一面を披露した。アイドルというジャンルの限定を受けない姿が逞しい。
 
上村ひなの
『Love yourself!』では楽曲を自身のふところに手繰り寄せ、音楽に学ぶ内省的な言葉を綴り、歌い踊ることで感情とビジュアルを引き締めるアイドルを描き出した。一転、『お願いバッハ!』では焦点の定まらない、弛緩した表情を記録している。アイドルをある種、サバイバルにして生き抜こうとする、序列闘争の描き方、苦悩ぶりは共感を誘うところがあるが、緊張感を維持できていない。

髙橋未来虹
2代目キャプテンに就任した。豪快に、隠し立てなく笑う。その「笑顔」が、様々な屈託を乗り越えたものとして提示されているであろうことを想像させる点に、日向坂46を代表するに足る根拠がある。

森本茉莉
気分に嘘をつかないアイドル。気分に嘘をつかない人は、正直に見える。たとえばその正直さは、ファンに親愛の情を向ける際に、言葉に説得力をもたらしている。ファンや同業者から観察された「自分」に他者としてむきあってしまう謙虚な意識もまた、正直であるゆえんだろうか。美にユーモアをふりかけた佇まいも個性的。

山口陽世
以前と比べると、あまり目立っていない。直感的に活動していたデビュー初期と比べると、「美」という難問に直面しているようだ。少女から大人の女性へと変貌を遂げる際に獲得されるべき美意識を未だ手にしていないことが、アイドルの弱点となって、歌や踊りなど、ライブパフォーマンスの質に如実に現れている。ただ、最新作ではそうした傾向はあまり見受けられないので、ただ単に気分の問題なのかもしれないが。

石塚瑶季
アイドルを作るという意識が強すぎるのだろうか(しかもその「意識」は、ファンが理想とするアイドルを作るという志の低いものであるようだ)、音楽の場面場面に合わせ、たしかに表情は作れているのだが、その対応が音楽の成り行きにたいして一歩か二歩、つねに遅れていて、どうしても硬直して見えてしまう。突発的な高揚感に乏しく、作り物めいていて、楽曲の世界観を壊すことが多々ある。

小西夏菜実
演劇力が高く、なまめかしくもあり、コミカルな一面も強く打ち出せる、個性的なアイドルだが、直近3シングルでは――作風の問題もあるだろうけれど――その「個性」がじゅうぶんに発揮されていないように感じた。

清水理央
その活気にみちた踊りにしても、メープルな歌声にしても、ポップな言葉づかいにしても、言葉の真の意味で陽気なアイドルと呼べるだろう。陽気さというものは、ただ明るく生きているだけの人間には宿らない。人間の真の陽気さは、もう後には引けないと、ある種、物事の終わりの確信を抱いた際にその身内に起き上がる最後の砦の感情なのだということを、アイドルを演じる以上は過去の自分を踏み台にして成長を描くことは絶対にできないという抜き差しならない状況のなかで、清水理央は体得したようだ。

正源司陽子
美という観点で、日向坂にあらたな可能性をもたらしている。『お願いバッハ!』で映された正源司陽子以上に可憐なアイドルが、かつて存在しただろうか、という感慨すらある。日常生活のリズムをアイドルのテンションにかえて、明るく、楽しく、親しみやすい、活力にあふれる姿は健在だが、現状に満たされることのない、青春の、とげとげした精気、苛立ち、焦慮をかいま見るときもある。そうした感情の輻輳こそが、アイドルの成長、前進をかなえるのだろう。日々、物語の主役としての当為をたかめている。

竹内希来里
音楽的な志向の弱さ、不安定なコンディションなど、課題点を挙げたらキリがないが、ミュージックビデオなどで一瞬一瞬に映される絵画のように趣だったビジュアルの香気には、どうしても後ろ髪を引かれてやまない。

平尾帆夏
過不足ない、ミッドレンジなアイドルを完成している。人気もある。けれど、その人気を裏付けるような出来事が音楽の内に一度も起きないのはなぜだろう。アイドルに音楽の影がさしていない。

平岡海月
ギャップ、と言ってしまうと、これはかなり月並みな表現ではあるのだが、平岡海月は、ライブステージにしても映像にしてもアイドルが動いている場面と、言葉・文章だけで表されるアイドルの姿とでは、大きなギャップがある。まとまらない気持ちを文章に構成することで自分の感情の正体を知るような、そんな文章を書く。なにかが終わることの予感に気づかないふりをしながらアイドルを演じている自分に気づいて愕然とするような、逃げ場のない、独特な雰囲気を流している。様々な感情のぶつかりあった、平明なユーモアを完成している。

藤嶌果歩
どのステージ、どの楽曲においても文句のつけどころのないパフォーマンスを残している。残している、と書いたのは、アイドルの一瞬一瞬のどの場面を切り取っても、水準を軽く超え、どの表情を読み、その魅力を語るべきか、逡巡させるからだ。藤嶌果歩の笑顔は「アイドル」がひとつのヴィンテージであることを覚らせる。

宮地すみれ
表裏のはっきりとした自己演出に徹底している。今日のアイドルらしい、アイドルだからこそできること、アイドルだからこそ魅力的に感じることを、手際よく演じ表現している。ただ、それは裏を返せば、アイドルなら誰にでもできることのように思えなくもない。たとえば、それが先天的なものにしろ後天的なものであるにしろ、「あざとさ」なるものに極地があるとすれば、それはファンの活力を奪いきることにあるはずだが、宮地すみれからはそうした理性から離れた部分、常識から外れているのに魅力に感じてしまうなにかを拾うことができない。

山下葉留花
物事を複雑に捉えようとしてしまう人間の力んだ身体と心をほぐすような、日常の閉塞感を打ち破るような、楽観的な笑顔をもっている。笑顔を筆耕するというアイドルの役目に気圧されない姿が頼もしい。

渡辺莉奈
『お願いバッハ!』では、これまでに見せつけてきた美貌とは打って変わって、キュートな美を描き出している。こうした逆相した変化は、アイドル個人の音楽への解釈にとどまらず、アイドルその人の成長を想わせる。若い頃のほうが意識が成熟していて、大人になればなるほど隙きが多くなり幼く見える、素顔がこぼれる、渡辺莉奈はそういった佳境の人なのだろうか。そのあたらしく見えてきた「幼さ」は、アイドルにユーモアを与えてもいる。

大田美月
なかなかに過剰な人だな、という印象を、現在は抱いている。音楽のギリギリの場所に立って踊っているような、感情を先走りさせた表情をつくる。先走っているのではなく、先走らせているのだから、どうしても、芝居じみて見えてしまう。たしかにそうした表情、演じられた衝動はファンの目につきやすいが、それが有効的に働くケースは稀であるように思う。踊りを技術的に鍛えるよりもまず、せめてもうすこし、感情に余裕をもつべきだろう。音楽に望みをつないでいるようにも見えるから、その点は前途を照らしている。

大野愛実
すでに「歴戦のアイドル」とも言うべき風格を示している。『ジャーマンアイリス』を踊る、その表情を見るに、自分が主役だという自覚だけに育まれるものを、この少女はすでにいだいている。精悍さ、ペーソスの可憐さ、洗練された部分も、荒削りな部分も、どちらもある。果たしてどのようにすれば、デビューから短期間でここまでの表現力を身につけられるのだろうか。それは持って生まれた才能と言うしかないのだろうけれど、しかしそれ以上のなにかが、言葉では説明のできない何かが、この少女にはあるようだ。日向坂46の未来を約束している。

片山紗希
コアなファンをひきつけている。言葉を使い捨てない姿勢が誠実的。

蔵盛妃那乃
個人PV『蔵盛兄妹』では人情・風情のしみついたアイドルを上演した。演劇未経験者とのことだが、それにしては堂々とした、作品の世界設定に馴染んだ演技を披露している。伸びゆく力を見た。

坂井新奈
悲哀的な場面をユーモアに見せる一面が、ファンに受けているようだ。ライブパフォーマンスに関しては、大田美月と比べると、こちらはやや小ぢんまりとした印象。踊りにおける感情の誇張に弱い。

佐藤優羽
一見すると、硬質で淡泊な少女といった印象を抱くが、音楽に佇むその表情は思いのほか豊かで、多彩。不可知という意味でアイドル的な、悠揚せまらざる美をそなえている。

下田衣珠季
青春のストリートな雰囲気の濃く出たメンバー。ビジュアル、演技、歌唱、ダンスのどれを取っても高い可能性を示している。正源司陽子、大野愛実が作り上げる新たな日向坂46のウルトラCとして期待できる。

高井俐香
グループの未来をたぐる一方の糸として、多くのファンから高く注目されている。坂道シリーズ以降に確立されたアイドル像のひとつのステレオタイプを画している。

鶴崎仁香
無劇な部分と劇的な部分が交互に現れるような、不思議な空気感・眼差しをもったアイドル。

松尾桜
『空飛ぶ車』でセンターに立った。期待に膨らませた妄想が現実に叶ったとき想像もしなかったことがその身に起きるのだという奇跡と、その奇跡に直面した人間の表情、機微を、これ以上は望めない、幻想に舞った微笑みをもって描き出している。現実に倦んだ人間の心を騒がせる、言葉どおり「アイドル」の登場を目の当たりにした。

よって、私が考える理想の「選抜」は以下のようになった。16thシングルのセンターには正源司陽子を選んだ。

(C)日向坂46公式サイト

3列目:金村美玖、森本茉莉、髙橋未来虹、竹内希来里、松田好花、上村ひなの、山下葉留花
2列目:小坂菜緒、佐藤優羽、渡辺莉奈、藤嶌果歩、下田衣珠季、平岡海月
1列目:大野愛実、正源司陽子、松尾桜

2025/09/16  楠木かなえ