『アイドルの値打ち』は誰に向けて書かれているのか
「アイドルの可能性を考える 第三十二回」
メンバー
楠木:文芸批評家。趣味で「アイドルの値打ち」を執筆中。
OLE:フリーライター。自他ともに認めるアイドル通。
島:音楽雑誌の編集者。
横森:カメラマン。早川聖来推し。
今回は、いわゆる文章論。『アイドルの値打ち』のなかで『アイドルの値打ち』について扱うことは、あるいは、耐え難く退屈に感じられるかもしれない。個人的には、ボイスレコーダーを聴きながら、なかなかのスリルがあったので、記録として、ここに残しておきます。
「前田敦子に還っていく」
島:楠木さんは今回お休みです。映画のほうが忙しいみたい。
OLE:張り合いがないね。
横森:忙しいからか、「座談会」の記事も最近は書き起こし方が雑だよね(笑)。
島:この場での対話が記事にされて、多少なりとも第三者の目に触れるようになってから、変化したこと、意識するようになったことはありますか?
横森:と言っても、文章にされるのは基本的にアイドルについて喋った部分だけだからなあ。それにあれはあくまでも「記事」だからね。読み物にしようってことだから、作者の都合の良いように編集される。気にしても仕方ないよ。文体は彼流のものに変えられているし、キャラ付けしてるところもある(笑)。なによりも、あの空間では「楠木かなえ」を主役にしないとだめだから。
OLE:まあ全部を全部そのまま書き起こしたらとてもじゃないけど記事にはならないからね。話題の区切り方とか、オチとか、しっかり考えて編集してるよ。
島:『アイドルの値打ち』についてはどうですか?
横森:作家本人がいないところでああだこうだ言ってもね。
島:読者目線ということで。
横森:読者目線なら、誰でも気づくはずだけど、プロットを大きく変えたよね、最近。
OLE:坂道の記事を改めて順を追って読み返してみると、レビューの幅でクリティックを書こうとしているよね。情報を凝縮させているというか。
横森:『作家の値うち』により寄せたんだろうね。
島:縦書きではなく横書きだという点に、物書きとして、見過ごせない問題が色々出てくるんだと思うんです。サイトを見渡すと、文字数への異常なこだわりに気づきます。記事全体の文字数ではなくて「行」の文字数です。改行ではなく、折返しによって次行が作られる際に、その行が1文字2文字で終わることがないように注意を払っている。すごく見栄えを気にしているんですよ。
OLE:でもそれってパソコンのブラウザ限定の話だよね?
島:はい。そう考えると『アイドルの値打ち』ってパソコンユーザー向けにしか書いていないんですよ。
OLE:それはまた随分極論だなあ(笑)。
横森:そういう美意識があるとして、それって作家自身、自分が本来表現したかったものを見失ってるよね。文字数を調整しているわけでしょ?なら削られちゃう文字もあるだろうし、逆に付け足される表現もある。そもそも、パソコンでもブラウザの種類によって表示が変わるんじゃないの?
島:文字数は変わらないはずですよ。フォントに関してはブラウザやユーザーの設定で様変わりしますが。パソコンユーザーに向けてのみ書いていると言いましたが、さらに踏み込めば、これは自意識過剰だと嘲笑われてしまうかもしれないけれど、『アイドルの値打ち』って、その記事の多くが僕たち3人に向けてのみ書かれているように感じるんです。僕たちに読まれるのを意識して書くことでそれなりの水準で質が保たれる、そういう狙いがあるんじゃないか。楠木さん自身は「鈴木絢音に向けて書いている」と豪語しているけれど、それはペルソナというよりも、アイドルを子供扱いしている連中、作り手の多くにたいする皮肉なんだと思っていて、実際には僕たちに向けてのみ書いているように感じる。
横森:それは自意識過剰なんかじゃなくて、批評を読んだ人間にそう思わせるような文章を書いているからだよ。批評ってのは読者に、これは自分に宛てて書かれたものなんだ、と錯覚させなきゃだめだから。彼の文章はそういう基本的なところはしっかりおさえてるよ。
OLE:そういうのを聞くと、やっぱり教養ってのは大事なんだなあ、と。最初に痛感したのはさ、原書を読めない人間が海外の文学作品を批評できるわけないだろ、って話しているときかな。いや、そのとおりなんだけど、そういう知的水準を当たり前の前提としてる人たちなのか、って感動したね。
横森:翻訳って、あれは日本語であって日本語ではない何かだからね。かと言って、翻訳があるのにわざわざ原書を持ち出して語り始めるような空気の読めない人間にはなりたくないよね(笑)。原書への理解なら翻訳で十分なわけだから。でも批評は「理解」することとはまったく異なる作業なはずだよ。
島:日本語にはカタカナがありますよね。じゃあカタカナは「日本語ではない何か」なのか。あるいはその派生なのか。
横森:カタカナは日本語だよ。エロクエンティアとカタカナで書かれていたら、それは日本語としてのエロクエンティアでしかないよ(笑)。『グレート・ギャツビー』を翻訳した村上春樹がオールドスポートはオールドスポートでしかないって言っていたけれど、オールドスポートをカタカナで書いている以上、あれは日本語として表現されたものなんだよ。翻訳=日本語での表現を放棄しているわけじゃない。
OLE:『グレート・ギャツビー』のギャッツビーってゴビノーだよね。上流階級を気取って自己演出することで、本物の上流階級に嫌悪されるところなんかそっくり。「オールドスポート」はその情況をたった一言で表しちゃうんだよな。この「自己演出」って、批評にも通じると思うんだよね。そういう意味じゃ『アイドルの値打ち』は一体誰に向けて書かれているのかっていう問いかけは、なかなか興味深い。
島:でもスコット・フィッツジェラルドみたいに自分語りをしているってわけでもないですよね。
横森:自分語りではないけど、かつて自分が語ったことを砕いて説明するようになったよね(笑)。乃木坂の新曲の感想で「詩的にやれなくなってきた」って暗に白状していたし。詩的にやっていたころの文章が作家自身理解できなくなった。だから自分に説明してみる、みたいな。
OLE:そう言われてハッとするのは、彼の正源司陽子への批評ってサイト立ち上げ当時に書いた前田敦子への批評に帰結したものなんだよね。アイドル批評をやってみようと思い立った日に見出したアイドル観、アイドルの魅力に、賀喜遥香や正源司陽子をとおして還っていった。彼はノスタルジーにアイドルの魅力を見出している。前田敦子を平成のシンデレラと呼ぶとき、批評家として、シンデレラを引用しなければならないと考えたはずなんだ。そこで彼が発想した引用がノスタルジーなんだね。王様がガラスの靴の持ち主を探し出すというシンデレラのあらすじを、自分が過去に愛した人間をグループアイドルという少女の集団の内に探し求めるっていう状況に重ね合わせている。これが意図したものなら、やっぱり自己演出してる。
島:楠木さんって前田敦子を推してたんですか?
横森:いや、推してないよ。今も昔も横山由依の大ファンだよ。でもたしかに、横山由依のページを読むと、前田敦子の名前をまず最初に出してるね。演出してるのかな。
OLE:前田敦子がアイドルの雛形であるのは確かだけど、それは過去の話で、今の「アイドル」のかたちは乃木坂が決めてるんだよね。前田敦子自身、インタビューで語っている。私の時代はアイドルはあくまでも夢への架け橋だったけれど乃木坂は違う。乃木坂の子はアイドルのまま何でもできちゃう、って。最近、NGTの研究生で活動辞退した子がいるんだけど、その子は、歌がやりたかったけどアイドル活動のなかでは思うようにできなかった、って嘆いている。やりたいことが見つかったからアイドルを辞めるんじゃなくて、アイドルとしてやりたいことができないから辞める、ってのが今のアイドルシーンなんだな。だからみんな乃木坂に憧れる。そうなると、乃木坂しか評価できなくなってしまう。でもそれは外面の話、時代の趨勢、時代の移り変わり=トレンドでしかなくて、変わらない部分、人間の本質的な部分ってのがあるんだよな。『アイドルの値打ち』の作者にとって、それがノスタルジーなんだとおもう。
2024/01/20 楠木かなえ